赤坂見附・赤坂の物語散歩です。

弁慶堀と『テンペスタ』

 進行方向左手に見えるお堀を弁慶堀と言います。この先に見える橋が弁慶橋という名前ですので、堀の名もそれから来ています。弁慶小左衛門という大工の棟梁がいて、この人は江戸城の普請にも関わったそうなのですが、彼が作ったのが初代のこの橋です。「元祖」の弁慶橋は現在の秋葉原駅近く(岩本町)に架かっていました。川の埋め立てに伴い撤去されましたが、その廃材を使って現在の場所に橋が架けられました。1889(明治22)年のことです。ですから、名前のわりに比較的新しい橋と言えます。

 

 この弁慶堀や弁慶橋が出てくるのが深水黎一郎『テンペスタ』(2014・平成26)です。

 

 大学で美学を教えている賢一は、さえない独身男性です。非常勤講師の身分なので、収入も乏しく、翻訳のアルバイトをしてかろうじて生計を立てています。そんな彼、ある夏に、郷里に住む弟夫婦の娘を一週間預かることになりました。

 ミドリという10歳のこの娘がすごい。大きな目につややかな黒髪という美少女なのですが、頭の回転がとびきり速く、思いがけない言動に賢一は振り回されっぱなし。その「テンペスタ(嵐)」のような暴れっぷりは爆笑ものです。

 

 彼女が東京で行きたいという場所も独特で、いわゆる「歴史の闇」に関わる場所が中心。弁慶堀もその一つでした。

 ミドリによれば、この弁慶堀は「江戸時代、身元不明の死体を捨てる場所」だったそうです。彼女は貸しボートに乗って楽しげに騒ぐカップルに憤慨し、大声で一喝しようとして賢一に止められます。

 極端な行動ばかりのミドリですが、それは旺盛な好奇心の反映。そして全く世間ずれしていない純粋さと正義感もうかがえるものでした。賢一はミドリに手を焼きながらも、自分がいつの間にか失ってしまったものについて顧みます。

 

紀伊国坂と「むじな」

 港区の紀伊国(きのくに)坂は、弁慶堀に沿って四谷方面に上る広い坂です。江戸時代に紀州徳川家の藩邸があったところから名付けられました。高速道路が脇を走る、ここも大都会の坂道らしい雰囲気ですが、ここは小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)『怪談』(1904・明治37)の「むじな」の舞台となったことでも知られます。

 この話、最近の高校生にとっては、かなり縁の薄いものになっています。学校で触れる機会が減ったからでしょう。よくできた怪談ですので、ぜひ若い人にも知っていただきたく思います。

 

 まだ街灯や人力車すらなかった時代の話です。1人の商人がここでむじなに化かされました。夜更け、紀伊国坂を上っていると、堀ばたに女がしゃがんですすり泣いています。気になった彼はそばに寄って声を掛けますが、返事はなく、ただ泣くばかり。

 商人は優しい人だったので、さらに女の背中に語りかけ、落ち着かせようとします。すると女はようやく立ち上がります。彼の言葉に応じるようにふり返り、自分の顔を初めて相手に見せました。何とそれは、目も鼻も口もない、のっぺらぼうでした。

 

 商人の驚くまいことか、紀伊国坂を必死で駆け上りました。やっと闇の向こうにそば屋の灯が見えます。助かったとばかりにそこに転げ込んで、今起きた一件をそば売りに伝えました。しかしその直後、彼はもっと驚かされる羽目に陥ります。

 

紀尾井坂と『ちょうかい 未犯調査室』

 外濠公園の南端から紀尾井坂が見えます。坂の名前は、坂の北側に尾張徳川家(現在の上智大学)、南側に紀州徳川家(現在の清水谷公園など)、彦根藩井伊家(現在のホテルニューオータニ)の屋敷があったことから来ています。1878(明治11)年、この坂の付近で、大久保利通が斬り殺されるという暗殺事件が起こりました。紀尾井坂の変と言います。不平士族の島田一郎ら6人による犯行でした。

      

 ある日、この紀尾井坂を上って行く3人がいました。1人は枝田千秋というまだ若い女性。仁木英之『ちょうかい 未犯調査室』(2015・平成27)の中心的人物です。ユニークな個性の持ち主で、前述の事件に詳しいばかりか、そのてんまつを浪曲風に語ることもできるようです。

 彼女も一緒の男性2人も警察の人間です。中でも千秋は国家公務員Ⅰ種試験にパスしたキャリア組。ですが、3人それぞれ過去に事情を持つ人間でした。現在彼らには秘密の任務が与えられています。今までの犯罪情報を踏まえ、重大事件の発生を未然に食い止めるという仕事です。

 「繭」と呼ばれる巨大なシステムを通じ、のちに犯罪や悲劇を生むかもしれない微細な徴候が情報として千秋に伝えられます。それが芽であるうちに摘み取り、加害者や被害者を出さないこと。それが千秋たちの役目です。

 紀尾井坂に来た千秋は、今田隆という人物を訪れます。今田は大久保利通暗殺犯の一人と血のつながりのある人間でした。彼女は今田訪問の理由を、大久保暗殺の謎を解くためだと言います。これだけ聞くと何かのんきな感じです。ところが今田は、現在発生している脅迫事件の被害者の一人として、警察が注意を向けている人物でもありました。この脅迫事件、ちょっと不気味な要素を含んでいます。千秋が今田に接近しようとしたのは別に真意があってのことなのか。今後の行動に目が離せなさそうです。 

 

 紀尾井坂は広く明るい坂道です。坂道沿いに民家は見られず、いかにも都心の坂といった印象です。

 

ホテル・ニューオータニと『人間の証明』

 紀尾井町にそびえる建物群はみな人目をひきます。その中で古参の部類に入りますが、ホテル・ニューオータニに注目してみましょう。今でこそそう珍しくはなくなりましたが、最上階にある「回る展望台レストラン」は、夜に見ると、漆黒の闇をバックに巨大な帽子が鎮座しているかのような錯覚を起こさせます。

 このホテルのこのシルエットが重要な意味をもって出てくるのは、森村誠一『人間の証明』(1977・昭和52)です。

 場所は隣の平河町、名前も「東京ロイヤル・ホテル」と変えてはありますが、どこのホテルをモデルにしたかは明らかです。このホテルのエレベーター内である夜、一人の黒人が刺殺されます。直前、ホテルを見て、彼がタクシーの運転手に告げた「ストロー・ハット」という謎の言葉から物語が動き始めます。  

 

 映画化もされましたが、もちろんこのホテルが使われました。そちらの方では、ジョー山中の歌う主題歌が大変に有名になったものです。原作も映画も西条八十の詩が効果的に使われていました。

 

赤坂見附と「夜の海」

 赤坂見附跡がありますね。石垣がかなりよく残っているのが分かります。初老の男・神戸直太郎がマスターをしている小さなスナック「ホームメイド」はこの見附跡からあまり離れていない場所にあります。村松友視「夜の海」『夜のグラフィティ』所収 1981・昭和56)の中での話です。

 

 神戸の店は午前3時までの営業。終了後の掃除などが済むと、彼は早朝の赤坂見附周辺に散歩に出ます。弁慶堀を横目に見ながら平河町へと続く長い上り坂を歩き、途中で道の反対側に渡ります。その後は上がってきた坂を下ります。時間によって微妙に変化する赤坂見附の景色を、彼は毎朝、不思議な思いを抱きつつ見つめていました。

 

 ある朝のことでした。彼がいつも通りのコースを歩いていると、不思議なことに気づきました。たとえ早朝であっても絶えることなく聞こえていた車の音が全く消えたのです。同時に何か固い音が彼の耳に捉えられました。それはハイヒールの靴音でした。見ると、彼とは道路を隔てた反対側に、黒っぽい服装の女が歩いていました。こんな早朝にどうしたのでしょう。

 彼は道にかかっている歩道橋に上り、女が歩いている側へと向かって行きました。歩道橋から眺めてみると、女の歩き方がちょっとおかしいことに気づきます。彼は女の足音に自らのそれを合わせるようにして歩いて行きました。女に気づかれないように近づくためですが、近づいた後どうするつもりなのかは、彼本人にもよくわからないようです。

 女は振り返らずに歩いています。ただ、その後ろ姿に感じられるある種の緊張から、誰かが自分を付けているということに気づいているようにもうかがえます。

 

 突然、女がしゃがみこみました。見附跡のすぐ近くです。神戸は女に声をかけました。

 

 神戸が渡った歩道橋は、おそらく画像のこれだと思われます。

 

新坂と『さよなら怪傑黒頭巾』

 外濠通りを渡るとそこは千代田区永田町。ここに「新坂」という坂があります。この坂は「遅刻坂」という別名も持っています。坂を登った場所にあるのが都立日比谷高校の校門。坂のけっこうな勾配を見れば、命名の由来もなんとなく想像がつきます。

 この遅刻坂、庄司薫『さよなら快傑黒頭巾』(1969・昭和44)の中に登場しています。物語は、日比谷高校出身の浪人生・庄司薫が体験したある一日の出来事と、それに対する彼の思いとを中心にして描かれていきます。

 

 学生運動華やかなりし時代でした。薫も時代の影響を受けています。5月のある朝、彼は知人の医学生から突然、この日行われる彼の結婚披露宴に招かれました。薫は一か月ほど前、彼が婚約者の女性ともめている場面に居合わせたことがありました。迷惑を掛けたお詫びのようです。

 披露宴会場は日比谷高校のすぐ近くでした。スーツに着替えた薫は、会場に行く前、日比谷高校に立ち寄ります。遅刻坂を登り、学校内に入りました。少し前まで生徒として通っていた場所なのですが、今はもう卒業生。学内に数人の新入生らしい生徒を見つけた彼はちょっとした恥ずかしさを感じました。

 その後東京ヒルトンホテルについた彼は、結婚式を妨害しに来た者ではないかという疑いを受けました。訳が分かりません。その後聞いたことによれば、この結婚には、特に新郎において大きな問題があるようです。時代性に大きく関わっています。

 披露宴自体はごく普通に進行していきました。いよいよウエディングケーキに入刀。新郎新婦に一層の注目が集まる場面です。ところがここで妙な事態が発生しました。

 

 当時の若者が時代にどう向き合おうとしていたのかを知ることのできる小説ですが、それだけではありません。ホテルニュージャパンや東京ヒルトンホテルなど、遅刻坂付近にかつて存在し、今は失われた風景の記録としても貴重な小説です。

 

 なお、新坂の右手に見える建物は日比谷高校です。このあたりはかつて星が岡と呼ばれた高台で、江戸時代には岸和田藩主岡部家の屋敷があり、明治・大正時代には、タバコ王・村井良兵衛の屋敷でした。日比谷高校は、1878(明治11)年に東京府第一中学として創立して以来、名門校としてその名をとどろかせています。この地に移ったのは1929(昭和4)年。日比谷高校の名は1950(昭和25)年になって使われたそうです。夏目漱石が少年時代に学び、谷崎潤一郎や横山大観、の出身校でもあります。

 

永田町と『レベル7』

 さて、ここ永田町ですが、宮部みゆき『レベル7』(1990・平成2年)という作品があります。この物語は、新坂の近くに関連があります。どのような関連があるかについては、ここに記すことを控えさせていただき、物語の一部を紹介するにとどめます。

 

 物語は「パレス新開橋」というマンションで、ひと組の男女が目覚めるところから物語が動き始めます。なぜかこれまでの記憶がすっかりなくなっていて、お互いがどのような関係なのかはもちろん、自分の名前さえ忘れています。2人とも、左腕に「Level7」という謎の文字が書き込まれていました。マンションも自分たちの住居ではないようで、生活臭がほとんどありません。

 不気味なことに、部屋の中から拳銃とスーツケース一杯の札束が発見されました。一体これは?

 監禁されてはいないので男性は外に出、自分たちの置かれた状況を把握しようと試みます。しかし、どうにもはっきりしません。

 トラブルが起きました。夜、男性は女性の悲鳴で起こされます。女性は彼に自分の目が見えなくなったと告げました。これまた原因不明です。加えて、その悲鳴を聞きつけた隣人の男に怪しまれ、ついには部屋の拳銃と札束を見つけられてしまいました。

 この隣人の男、拳銃の扱いに慣れているように見えます。どうやらただの人間ではなさそうです。記憶をなくした男女にとっては、いよいよ不気味な存在。この2人にどう関わっていくつもりでしょうか。

 

 物語では、行方不明になった女子高生を捜す女性の行動が並行して描かれ、緊迫感あふれる展開を見せていきます。

 

一ツ木通りと『神様のくれた指』

 港区赤坂に、一ツ木通りとみすじ通りという、並行する二つの道があります。この二つを結ぶ路地の一つが、佐藤多佳子『神様がくれた指』(2000・平成12)のマルチェラの仕事場所。

 マルチェラは、「赤坂の姫」とも呼ばれる占い師です。

 

 華奢な体躯と色白の顔、肩にかかる栗色のなめらかな髪に、白くほっそりした手……。ロングドレスをまとったその姿はエレガントな美女そのものですが、実は男性です。本名は昼間薫。女装は職業上の都合からでした。男性にしては小柄で、高く澄んだ声のため、マルチェラの性別は、まず疑われません。彼は法学部卒。この経歴は彼には負担なのですが、役立つ時もあります。法学部時代の親友の親が持つ小料理屋の私道をコネで使わせてもらっているからです。

 夏のある日、薫は新宿で坊主頭で長身の男を助けます。辻牧夫というこの男は電車専門のスリで、刑務所から出たばかり。出所を迎えてくれた知り合いの女性と電車に乗っていたところ、その女性が若い男女のグループ・スリに狙われました。牧夫はグループの1人を追いかけますが、逆にその男に投げ飛ばされ、肩を脱臼して動けなくなっていたのです。

 薫に助けられた牧夫は、薫の住まいに身を落ち着けることになります。独身の男同士の奇妙な共同生活です。意外にも、家事をきちんとこなせるのは牧夫の方でした。牧夫は、グループ・スリの若者たちを何とかして探し出そうとします。そして1人の少女が「赤坂の姫」を訪れました。彼女は牧夫の探す者たちに関係があるのでしょうか。気になります。

 

 牧夫はスリですし、薫はギャンブル好き。困った2人なのですが、実に魅力的に描かれています。

 薫が見台(けんだい)を出すのにふさわしそうな路地もいくつかあります。彼の姿を想像しながら赤坂の町を歩くのも楽しいでしょう。