王子・雑司ヶ谷・早稲田散歩です

2017年11月23日に実施した、この回の物語散歩は、いつもとは少し趣向を変え、くらゆいあゆ『世界、それはすべて君のせい』(2017・平成29)に描かれた場所を中心に巡っていくツアーとしました。有名無名問わず、実際に存在する場所が多く描かれていて、この散歩のコンセプトにまさにぴったりです。その途中で機会を見つけながら、別の物語も紹介していきました。まずはこの小説のアウトラインから。

 

 咲原貴希は、大学2年生。映画サークルを仲間と立ち上げて活動しています。仲間たちが地下鉄東西線を利用する中、彼は都電荒川線に乗ってアパートに帰ります。また彼だけが古い携帯を使い続けるなど、独自のこだわりがあるようです。

 貴希には気にくわない人物がいます。同じ法学部に所属する村瀬真葉です。お嬢様で美人ですが、性格は最悪。ある日ついに彼は真葉と衝突しました。警備員が呼ばれる騒ぎになってしまいます。

 真葉はしばらく大学に来なくなります。心の安らぎを感じる貴希。やがて再び姿を現した真葉は、貴希の映画サークルに入部すると言い出し、彼を驚かせます。自分で脚本まで書いたとのこと。

 その脚本はかなりの出来でした。それをもとに映画を撮ることに話は進みますが、貴希は奇妙でなりません。真葉がまるで別人のような穏やかな性格に変わっていたからです。40度の高熱を出して1週間寝込んだせいだと真葉は言っています。

 いつかまた以前の真葉に戻るかも。不安を感じる貴希ですが、目が合った彼女にニコッとされたりすると、以前にはなかった感情も生じてしまいます。次第に貴希は真葉に恋心を抱きます。以前には考えられなかったことです。それにしても、貴希をこんな気持ちにまでさせた真葉の信じられない変化、いったいどういうことなのでしょうか。 

 

 ちょっとほろ苦く切ないラストが心を打つ物語です。

 

 この散歩については、参加生徒に『世界、それはすべて君のせい』を必ず読んでおくように、と言いました。いつもの散歩では出さない指示です。今回に限っては、読んで参加する方が絶対面白いと思ったからでした。

 

 後でも触れますが、この散歩の後、失われてしまった風景があります。かなり重要な場所でした。また、明日なくなってもおかしくない、というような場所も存在しています。あるいはもうなくなっかかもしれません。もう一度行っても同じ感動を得ることが難しい、最初で最後の散歩コースとなりました。

北区・醸造試験所跡地公園

 

 貴希は真葉の作ったシナリオを元に映画を撮ることにしました。その重要場面のロケ地として、彼は北区の醸造試験所跡地公園を選びます。

 この公園は、小説の中で、ラストも含め3回も登場しています。作者さんのお気に入りの公園だそうです。

 

 ここにはかつて旧大蔵省の醸造試験所がありました。日本酒の品質向上や醸造方法の研究などのために明治政府が設立した施設です。公園の入り口の柱からも、施設があった時代をしのぶことができそうです。

 

 公園のこの遊歩道で、貴希は映画を撮りました。彼の構えるレンズの先には真葉がいます。映画の中で一番盛り上がる場面だそうで、大学からの帰り道という設定。河川敷だと作られた感が出てしまいそうだ、という貴希のこだわりで、ここが選ばれました。

 

 時は8月。「生い茂った緑の中で赤紫色の小さな花」が咲いていたそうです。「シロツメクサの赤紫バージョンみたい」と言っています。残念ながら季節は全く違うので、今は見ることができませんが、実際に夏訪れてみると確かに描写通りの花が一面に咲いていました。 

 

公園の隣には「赤レンガ酒蔵工場」と呼ばれる重厚な建造物があります。最近、重要文化財となりました。貴希もそのことは知らなかったようで、いつのまにか指定されていて「びっくりした」と、感想をもらしています。外観は近づいて自由に眺められますが、内部は平常時には公開していないようです。

 

石神井川と『隅田川殺人事件』

 

 王子駅北口から出ると、すぐ目の前には川が流れています。石神井川です。別名を音無川とも言います。少し先には音無橋という橋も架かっています。

 内田康夫の生み出した名探偵・浅見光彦の自宅は、北区の西ヶ原に設定されています。『隅田川殺人事件』(1989・平成元)の冒頭で、光彦は少年時代に音無橋の近くで経験した、幻想的な出来事を回顧しています。

 

 音無橋の下に時折「狂女」が出現しました。もっとも本当に精神を病んでいたのかどうかはわかりません。白い顔に長い髪、赤いドレス姿でさまよう彼女を見た少年たちが勝手にそう思っただけかも知れません。仲間の少年達は彼女を避けましたが、光彦少年はそうではありませんでした。ある日、その女性に話しかけられます。

 

 彼女の母親は、音無川の源流である小平で、胸を刺して亡くなったのだそうです。真っ赤な血が、川の源流である泉に垂れて、それが川を流れ、そして今にここにも赤い水が流れてくる……そう彼女は言いました。

 

 嗚咽しながらとぎれとぎれに語る女性。しかし彼女の目からは涙が流れてはいません。涙を流さずに泣く人を初めて見た、と光彦は回顧していますが、いったいどういうことなのでしょうか。

 

 この小説のメインはもちろん、大人になった光彦の探偵としての活躍です。ある春の日、彼は飛鳥山公園に桜を見に行きました。そこでちょっとしたトラブルに巻き込まれます。

 

 

 飛鳥山公園は彼の家から歩いて10分ほどの場所にあるそうです。

 

王子稲荷神社と『陰陽屋へようこそ』

 王子稲荷神社は東京の中でもメジャーなお稲荷様と言えるでしょう。大晦日の除夜の鐘が鳴る頃、「狐の行列」というちょっとユニークな年越しが行われ、狐のメークをした多くの人が出現します。

 

 天野頌子『陰陽屋へようこそ』(2007・平成19)にも、この行事の様子が詳しく描かれています。

 物語の主人公は沢崎瞬太。公立中学に通う、どこにでもいそうな男の子です。ところが彼の正体は実はキツネ。ある縁により、人間の夫婦に育てられ現在に至っています。ただ、妖狐としての能力はそれほど高くなく、せいぜい狐火を操れるくらい。一方、考え方はとても常識的で正義感もあります。

 

 ある時、これまたちょっとしたきっかけにより、彼は王子稲荷のすぐ近くにあるビルの地下に開業した「陰陽屋」という占いの店でアルバイトをすることになります。店の主は安倍(あべの)祥明(しょうめい)と名乗る人物です。平安時代の貴族のような衣装をまとい、髪は腰に届くほど。身長は180センチあまりの美男で、客に対する会話も如才ありません。

 

 安倍晴明に通じるようなその名前ですが、瞬太が見るに、陰陽師としての彼の実力はどうもあやしげです。性格もお世辞にも良いとは言えません。ただ、まるきりのイカサマ師なのかというと、あながちそうとも言えないようで、その過去などを含め、謎めいた部分があります。

 

 遺言状探しや失踪人の捜索など、依頼された案件を陰陽師・祥明は解決できるのか、若い妖狐・瞬太の活躍は? など、楽しんで読める小説になっています。

 

 

 物語散歩としても面白い作品です。王子稲荷をはじめとして、王子駅周辺の様子が描かれていますが、王子の街に実際に存在するものと作者の創作によるものとがバランス良く配置されており、確かめつつ歩く楽しみがあります。

 

都電・飛鳥山停留場付近

 飛鳥山停車場で都電荒川線に乗りますが、その前にこの近くを舞台にしている作品を一つ。

 石黒順子「訪問看護師さゆりの探偵ノート」(2017・平成29)の冒頭には都電の「飛鳥山駅」が描かれ、「音無川」も何度も出てきます。

 

 白井さゆりは26歳。訪問看護の仕事をしています。彼女の勤める訪問看護ステーションは「飛鳥山駅」の近くに設定されています。

 彼女が担当する1人に、虹野コンさんという81歳の女性がいます。窓から「音無川」が見えるマンションで、夫の岩助さんと2人で暮らしています。コンさんは元割烹料理屋のおかみ。親から譲り受けた店を長年切り盛りしていましたが、現在は寝たきりになっています。79歳の岩助さんは献身的に介護をし、夫婦仲はとても良好です。

 ある日の訪問で、さゆりはそんな2人の間に流れる空気が冷たいのに気づきます。夫婦げんかでしょうか。早く仲直りしてほしいと願うさゆりですが、冷戦状態は長く続きました。

 さゆりはコンさんの家で、少々気になるものを見ていました。岩助さんのしたことなのでしょうが、聞いても教えてくれません。

 3ヶ月ほどたったある日、さゆりにとって非常に大きな出来事が発生します。

 

 飛鳥山停留場。早稲田方向から来た車両は、ここから専用軌道を離れ、王子駅前まで一般道路を自動車と並走します。ユニークな光景です。

 

都電雑司ヶ谷停車場

 貴希が通学に利用する都電雑司ヶ谷停車場で降りましょう。目の前には雑司ヶ谷霊園が広がっています。貴希の借りている古いアパートは、この雑司ヶ谷霊園を突っ切った反対側に設定されています。「雑司ヶ谷光荘」という、外階段のついた2階建てのアパートです。日当たりだけはとても良好だとのこと。築30年、畳部屋1つで月4万円。実際にあるのかどうかは確かめていませんけど、都心でも古い古いアパートは意外と残っています。

 

 

 作品に言及はありませんが、都電の停留場や霊園は「雑司ヶ谷」ですが、地名は「豊島区雑司が谷」。表記が違います。加えて、雑司ヶ谷霊園がある場所は雑司が谷ではなく、「豊島区南池袋4丁目」。かなりややこしいことになっています。

 

都電荒川線と『東京箱庭鉄道』 

 都電荒川線に関係する作品を一つ。原宏一『東京箱庭鉄道』(2009・平成21)です。この作品は、主人公が潤沢な資金を持った人物から、大都会東京の中で新たに鉄道をこしらえてほしいと依頼を受けるところから始まります。

 

 主人公の妹尾順平は、ある時白髪の人物に声をかけられ、唐突に上の依頼を受けます。その人物に覚えなどないのですが、彼は順平のことを実によく知っていました。どうやら精密な調査をしたようです。といっても順平は鉄道の関係者ではありません。広告会社を辞め、現在は祖父から相続したアパートの大家をしている人間です。

 

 そんな順平に白髪の男は自分の依頼内容の詳細を語ります。鉄道敷設の費用は総額四百億円であること、それとは別に順平への報酬や必要経費等も用意すること、どうしても3年間で完成させたいこと、そのためには順平の柔軟な発想が必要であること、などなど。

 男は日野宮と言いました。彼は当座の活動資金として一億円の小切手をポンと順平に渡します。順平は日野宮の人間的魅力にもひかれ、その計画に乗ることにしました。

 

 日野宮とは一体何者なのか、なぜ鉄道敷設の計画をたてようとしたのか、などは次第に明らかになっていきます。

 

 

 順平の周りには有能なスタッフが集まっていきますが、それでもやはり順調には進みません。そんな時利用した都電の荒川線が、順平たちの計画に光明を与えます。

 

 雑司ヶ谷霊園 

 雑司ヶ谷霊園は1872(明治5)年に作られた共同霊園です。ここに眠る著名人は実にたくさんいて、文学関係だけでも夏目漱石・小泉八雲・金田一京助・竹久夢二・泉鏡花・永井荷風などなど、多すぎて、限られた時間では案内しきれません。今回は霊園のほぼど真ん中に位置する夏目漱石さんのお墓が目的地です

 

 漱石の墓には貴希も注目しています。その前の道は、停車場からアパートへのコースに当たっているため、日常目にしているようです。供花が絶えたことがあまりない、と観察しています。

 

 車も通れる舗装された道の脇には花屋さんがあります。そこは物語の中にも出てきていました。

 

 漱石は真葉の好きな作家です。子供の頃、親から文学作品しか読ませてもらえなかったそうで、その中で最も好きになったのが漱石だったとのこと。深い言葉がたくさんある、と言っています。『三四郎』『坊っちゃん』『こころ』といった作品名がパパッと出てきます。

  「僕は一生進歩するつもりでいる」という漱石のこの言葉が一番好きだと言っています。

  

雑司が谷霊園を抜けて

 貴希は真葉に雑司が谷の町並みを見せたくて案内します。彼らがそこで見たものは、まず、

 

向こうに抜けられる、トンネルのような小さな商店街にある八百屋

〇曲がりくねった細い路地にある豆腐屋

 それから

〇廃校になった小学校の校庭にある、

  ・網の破れたサッカーゴール

  ・板の割れたバスケットゴール

  ・青や黄色のペンキが剥げた

   ジャングルジムに雲梯

  ・青い色のプラスチック製ベンチ などなど 

                    

 

 真葉の言う「昭和ラビリンス」全開の風景たちです。

(残念ながら、この廃校は散歩の後少しして、全て取り壊されてしまいました。)

 

目白台地の端で

 その後彼らは、目白通りを渡って豊島区高田に歩を進めたようです。ここはちょうど目白台地が神田川の流れる低地へと下る場所に相当しています。なので、急な下り坂がいくつもあり、「富士見坂」「日無坂」といった名前がついている坂もあります。

 

 ここにも貴希の好きな場所がありました。そこも目白台地の端にあたるので、とても眺めの良いスポットです。ただ、かなり入り組んだ場所にあるため、普通に歩いていたのでは行き着けないのではないかと思います。そしてその眺めの良さは「期間限定」。いつ失われてもおかしくない光景です。果たして散歩の当日まで残っているか、ちょっとドキドキしました。

 

たくさんのY字路

 その先にはなぜかY字路が多く見られます。そのY字路を見た真葉は大変に怖がりました。最初はちょっとだけ離れたと思っていたのに、だんだんと距離が広がっていき、ついには離ればなれになってしまう、そんな感覚が彼女にとってはこの上なく恐ろしいようです。

 

 貴希は真葉の恐れを取り除いてあげようと思い、「かなり鋭角のY字路」に彼女を連れて行きました。何をしたのかというと……。

 

南蔵院と『怪談乳房榎』

  しばらく歩くと左手にお寺が見えます。南蔵院という、真言宗の寺院です。寺伝では、室町時代の開基だということです。

 ここは三遊亭円朝作の「怪談乳房榎」の舞台の一つとして、設定されている場所です。

 

 三遊亭円朝は明治期に活躍した落語家。自身で考えた噺は速記本の形で出版され、全国に普及して愛読されました。その文体は、二葉亭四迷の小説「浮雲」をはじめとする言文一致運動に大きな影響を与えました。

 

 「怪談乳房榎」は、ここ高田の地の他、柳島や新宿十二社(じゅうにそう)、板橋の赤塚を舞台にする、場所的に広がりをもった話です。

 主な登場人物は、もと武士で今は狩野派の絵師である菱川重信とその妻「おきせ」、一子・真与太郎、そして「おきせ」に横恋慕し、邪悪な心を持って重信に接近する磯貝浪江。浪江は「おきせ」ほしさに重信の下男正介を語らい、重信を殺し、真与太郎までも殺させようとします。

 

山吹の里 

 神田川に架かる面影橋を渡ります。端の近くに、江戸城を築いたことでも知られる中世の武将・太田道灌と少女との伝説を伝える「山吹の里」の碑が建っています。碑の立っている後ろ側は、再開発のための工事中。碑も何だかおちつかないたたずまいです。

 

  太田道灌持資は、かつては歌道にうとい、無骨一辺倒の武将でした。江戸在住の頃、ある日鷹狩りに出かけましたが、途中でにわか雨に降られました。

 これはまずい、と、彼は近くの農家に駆け込んで、雨具の簑を借りようとします。すると出てきた少女は、咲いていた山吹の花を一枝折り、道灌に捧げました。彼女は一言も発せず、もちろん雨具も差し出しません。怒った道灌は屋敷に帰り、近臣に事のありさまを語りました。すると中の1人が進み出て言うには、「それは簑がないということでしょう。古い和歌に

  七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞわびしき

 

 というものがあります。この歌の『実の』を『簑』に掛けたものと思われます。雨具の一つもない貧しさを口にするのは辛いもの。この歌を出せば、御武家様なら必ずわかってくれるにちがいないと考えたのではないでしょうか。」それを聞いた道灌は深く恥じ入り、そののちは和道を深く学んだということです。

 以上、江戸時代中期成立の『常山紀談』に載っている話を元にして紹介しました。もっとも、この話では、この場所については全く語られていませんが。

 この伝説は広く知られているもので、その少女の家のあった場所は「山吹の里」とも呼ばれるようになります。それが一体どこにあったかで、さまざまな説が展開されています。その一つがここ。

 

 早稲田大学 

 早稲田大学は言わずと知れた私立の雄。「早稲田大学」という表現はありませんが、貴希や真葉の通う大学は、ここがモデルのようです。なぜなら描写と一致する点が多々あるから。

 

〇都電荒川線の始発駅と大学の北門が近い。

〇大学の北門から大学の図書館を抜けると都電の停留場。

〇広く開放的な正門があるが、東西線から来る学生は南門を使う。

〇南門のイチョウ並木道を抜けたところにマント姿の男性の銅像。

 などなど。

 

 

 また、物語に「ラウンジ」という場所が頻出しています。学生さんに聞いたところ、「3号館にある」と教えてくれました。外にもテラスがありました。「たまり場になっている」ラウンジ、「短い階段」を上がると「イチョウ並木」になるそうで、描写と一致しています。