東大~根津神社の物語散歩です。

東京大学と『ヴェサリウスの柩』

 まずは待ち合わせ場所の東京大学ですね。

 加賀藩前田家の屋敷であったこの地、御守殿門がいわゆる「赤門」と呼ばれる門です。1827(文政10)年建立で、国の重要文化財です。

 

 赤門を入った正面にあるのが、医学部2号館本館

 麻見和史のミステリー『ヴェサリウスの柩』(2006・平成18)で、事件が発生するのは国立大学法人東都大学。内容はもちろん虚構ですが、場所としてのモデルは東大の本郷キャンパスです。

 

 医学部教授・園部芳雄の解剖学教室において、不可解なことが発生しました。解剖実習中、女性の遺体の中から、小さなチューブが発見されたのです。その中に入っていた紙には、園部に対する復讐を宣言するような四行詩が書かれていました。

 その場にいた助手の深澤千紗都は、別の日、医学部本館の標本室で、また不気味な内容の四行詩が書かれた紙片を見つけました。そればかりではありません。すぐその後、今度は3号館の廃棄物置き場で、数十匹のドブネズミが何かに群がっているのを見てしまいました。ネズミたちが食い荒らしていたものを見た千紗都は、衝撃で逆に目をそらせなくなります。それは第2の紙片に示された内容と一致する光景でもありました。

 

 園部を尊敬する千紗都はじっとしていられません。先の遺体のデータを得た彼女は、その人物と園部との接点を探り始めました。やがて一人の医師の姿が浮かび上がってきますが、ここで更に大きな壁にぶつかってしまいました。

 

 作品中の東都大学の描写、現実の東大とどんな接点があるか、歩きつつ確かめるのは楽しいと思います。たとえば千紗都が昔の辛い出来事を思い出す「とんぼ池」三四郎池が思い浮かびます。図書館の近くに存在し、藤棚があるなど、他にもいくつか共通事項が見られます

 

東京大学と『三四郎』

 それではその三四郎池に行きましょう。鬱蒼と木々が茂っている場所ですから、すぐわかります。1629(寛永6)年、前田家3代藩主利常の時に整備された庭園を育徳園といいました。そこにあった池を心字池といいましたが、今では「三四郎池」という通称が有名です。もちろんこの名は、夏目漱石の小説『三四郎』に基づいたものです。

 1908(明治41)年、夏目漱石は朝日新聞に『三四郎』を連載しました。主人公である小川三四郎は九州から上京した新入生で、ヒロインである里見美禰子(さとみ・みねこ)をこの池のほとりで見かける場面がとても印象的な作品です。

 

 ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、向こう側が高い崖の木立で、その後がはでな赤煉瓦のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、すべての向こうから横に光をとおしてくる。女はこの夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると丘の上はたいへん明るい。女の一人はまぼしいとみえて、団扇(うちわ)を額のところにかざしている。顔はよくわからない。けれども着物の色、帯の色はあざやかにわかった。(二)

 

日比谷松本楼 東大工学部店と『夜明けのカノープス』

 東大の本郷キャンパスを北に向かって進んでいます。工学部2号館の建物の中に、「日比谷松本楼 東大工学部2号館店」があります。ここと思われるお店が登場する物語がありました。

 

 穂高明『夜明けのカノープス』(2013・平成25)のカノープスとは明るい一等星で、中国では老人星などと呼ばれ、見ると寿命が延びるという伝承があります。七福神の寿老人はこの星の化身とされています。

 タイトルがうまく生かされたこの物語ですが、その中に「物語散歩」したくなる描写がありました。

 藤井映子は教育系出版社に派遣社員として勤める女性です。雑用に明け暮れる毎日で、気持ちもよどみがち。教員志望でしたが、採用試験に4回失敗し、今の職に就くことになりました。

 彼女には他にも辛い過去があります。両親の離婚です。中学の途中、母方の姓に変わりました。映子が密かにあこがれている吹奏楽部の先輩・若田浩二も彼女への呼び方にとまどった1人です。

 就職後の映子には二つの大きな再会がありました。一つは若田とのそれです。プロの演奏家になっていた彼はやはり素敵でした。ただ、時の流れは、彼を少し変えてしまってもいました。

 もう一つの再会、相手は父でした。映子の会社が原稿の執筆を依頼した大学教授が、映子の父親・安川登志彦だったのです。

 長く会っていなかった父と仕事で接することになった映子。メールも会話も実にぎこちなくよそよそしいものになってしまいます。

 ある時映子は父と、父の大学にあるレストランでランチをとりました。食事をする父を見て、映子は一つの発見をします。

 

 工学部3号館内に設定されたそのレストラン、「日比谷公園にある有名な洋食屋」とあります。大学名は記されていませんが、実在する「日比谷松本楼 東大工学部2号館店」が意識されているようです。ただ、2022年11月現在休業中となっています。

 

言問通りと『夏の口紅』

 東京大学の本郷キャンパスを出て、本郷通りに沿って北上すると、本郷弥生交差点に出ます。本郷通りと交差する道、この十字路から東側を言問通りと言います。道なりに進むと谷中に続きます。今回の目的地の一つである谷中霊園へは、この道を進むのが近道なのですが、他に行きたい場所もあるので、少し遠回りさせて下さい。

 

 その代わりと言っては何ですが、言問通りから谷中霊園に入った男女の話を紹介します。樋口有介『夏の口紅』(1991・平成3)に出てくる二人です。

 

 物語の主人公は笹生礼司。20歳の大学生です。スタイル抜群のイラストレーター・浮田香織と交際して1年になります。ただ、礼司としては香織が何を考えて自分と付き合っているのか、よくわからないでいます。お互い必要以上の詮索をしないという関係です。

 礼司は母と二人暮らし。父親は礼司が5歳の時に家を去っています。ある日、その父親が亡くなったという電話がきました。電話を掛けてきたのは女性でした。父親が礼司の家を出た後で結婚した女性の、その姉にあたる人物でした。そんな人がいるということすら礼司はは知りませんでした。父親について、渡すものがあるということです。

 礼司は、本郷の菊坂にある、高森久仁子というその人の家に行きました。

 そこで分かったのは、父親は再婚した相手に先立たれたということ。父親は昆虫学者だったこと。父親が渡したがっていたというのは図抜けて大きな蝶の標本だったこと。また、礼司の「姉」に渡されるべき、別の標本があるということ。などでした。

 礼司自身、自分に姉がいる、ということは初耳。それ以外のこともすべてかなり彼を驚かせました。彼は記憶にほとんど残っていない父親や、会ったこともない「姉」なる人物について、アプローチしようとします。

 もう一つ、礼司にとって気になったのが、高森久仁子の家にいた季里子という18歳の娘。心に病を持っているということで、全くと言って良いほど口をききません。久仁子との関係もなにやら謎めいています。

 

 前述した、この交差点から言問通りを通って谷中霊園に行ったのは、この礼司と季里子です。この物語で谷中霊園はクライマックスにも描かれます。そのてんまつはぜひ物語で確かめて下さい。

 

東京大学と『ラブ・ケミストリー』

 東京大学の本郷キャンパスと弥生キャンパスとは、言問通りを隔てて隣り合っています。農学部があるのが弥生キャンパスです。正門を入った正面に農学部3号館が立っています。東京都選定歴史的建造物で、堂々としています。

 

 喜多喜久『ラブ・ケミストリー』(2011・平成23)の舞台は東大がモデル農学部1号館にある食堂は、主人公・藤村桂一郎も利用しています。

 

 桂一郎は大学院修士課程の2年生。有機化学に没頭し、多くの優れた論文を発表している優秀な学生です。彼には、物質の構造式を見るだけで最適な合成ルートが頭にひらめくという特殊能力があります。料理でたとえれば、「完成品の写真を見ただけで、完璧なレシピが分かる」ようなものだそうです。彼はこの能力を駆使し、あるアルカロイドの合成ルートを見出そうとしていますが、ここで大きなトラブルに出会ってしまいました。ある女性に片思いをしたため、その能力がなくなってしまったのです。

 

 恋がかなえば能力が戻るかも知れません。ただ、恋愛方面には全く疎い桂一郎です。この恋の成就にはかなり困難がありそう。

 ここに一風変わったキューピッドが現れました。カロンという死神です。真っ白い肌に真っ赤な唇、黒く長い髪に黒衣という女性の姿をしています。カロンは、ある人の依頼を受け、桂一郎の恋の成功を助けるつもりです。依頼主というのは現在余命6ヶ月の身。桂一郎を愛し、何とか彼の能力を回復させたいと、心から望んでいるそうです。

 

 桂一郎の恋の行方は? 能力は回復するか? そして、依頼主は誰か? など、読みどころ満載の小説です。

 

東大農学部周辺と『青年』

 明治期の青春小説としてよく知られているのは、すでに紹介した『三四郎』でしょうが、森鷗外の『青年』(1910・明治43)も興味深い物語です。

 

 主人公の名前は小泉純一。田舎の「Y県Y市」から上京してきました。資産家の一人息子。あくせく働く必要がないという結構な身分で、かつ美男子でした。彼は詩人もしくは小説家になりたいと思っています。大石路花という著名作家と同窓だという地元の教員に紹介状を書いてもらい、彼に会うために上京してきました。

 路花に会ってもらった翌日、純一は谷中で家を借ります。しばらくは東京に腰を落ち着けるつもりです。近くに住む中沢雪という娘が、家主の嫁に会うためにしばしばやって来ます。純一とも次第に親しくなりました。

 ある年の11月、純一は有楽町の劇場で、年上の婦人と話を交わしました。劇の原作を読んで筋を知っていた純一は、婦人の求めに応じ、内容の解説をしてあげました。婦人は純一がフランス語を解するのを知り、自分の家に書物がたくさんあるから見に来るようにと言いました。

 婦人は坂井れい子といい、未亡人でした。亡くなった夫・坂井博士は純一と同郷であったので、れい子とはこの日が初対面ではあったものの、少しは噂として知っていました。初めて見たれい子夫人は、その目が大変印象的な人でした。彼はその目の秘密が知りたくて、根岸にあるれい子の家に出かけました。その日の出来事は、純一の日記という形で読者に示されます。

 

 己(おれ)は知らざる人であったのが、今日知る人になった(十)

 

という表現が、ある事実を物語っています。でも、「坂井夫人は決して決して己の恋愛対象ではない」とも記しています。

 

 さて、我々が今歩いている道ですが、ここはその『青年』の冒頭に出てきています。

 

 さて本郷三丁目で電車を降りて、追分(おいわけ)から高等学校に附いて右に曲がって、

 

 とあります。これは純一が大石路花に会うため、彼の下宿を訪ねる場面です。

 

根津神社と森鷗外

 

 坂を降りて左側の鳥居を這入(はい)る。花崗岩(みかげいし)を敷いてある道を根津神社の方へ行(ゆ)く。

 

 という『青年』の描写に従って、我々も根津神社境内に入ることにしましょう。 

 

根津神社(根津権現とも)の今の社殿は、1706(宝永3)年に造られました。5代将軍綱吉が、6代将軍家宣を跡継ぎとした時に、その守り神として造ったもので、広い境内と立派な社殿を有します。ツツジの名所としても知られ、ツツジ祭りの時には大変な賑わいとなります。

 

 この拝殿の外左側、木陰になっているところに水飲み場がありますが、よく見ると側面に

 

  戦利砲弾奉納 陸軍軍医監 森林太郎 明治三十九年

 

 と書かれています。森林太郎というのは鷗外の本名です。日露戦争後に奉納されたようです。1906(明治39)年という年は、鷗外44歳(満年齢)にあたります。軍医総監になる前年です。

 

 

根津神社と『トーキョー・クロスロード』 

 鴎外や漱石の小説にも名が記される根津神社ですが、せっかくなので現代の女子中高校生が主人公とする作品で物語散歩しましょう。まずは濱野京子『トーキョー・クロスロード』(2010・平成22)です。

 

 高2の森下栞(しおり)には、友人の誰にも言っていない休日の過ごし方があります。それは街歩き。任意に決めた山手線の駅に降りて、街をぶらつくのです。普段学校にいるときとは全く違った、だるい雰囲気を身にまとって歩きます。未知の街を歩く孤独を味わい、淡い喪失感と親しむのです。

 それを始めたきっかけは、中学時代の一人の同級生に関係していました。恋人でもないのに彼女に忘れられない思い出を残し、違う街に去ってしまった男子でした。

 ある街を歩いている時、栞は偶然、その同級生・月島耕也と再会しました。耕也も栞を覚えていました。

 

 1年1ヶ月ぶりに交わす会話の中、栞の変わった趣味を知った耕也は、彼女が気に入ったという谷中に行きたがりました。栞は日暮里駅で待ち合わせます。案内役は栞のはずなのに、耕也は栞の前を歩き続けます。やがて二人が行き着いた先が根津神社でした。

 境内で制服姿の少女が耕也を待っていました。耕也が呼び出した恋人のようです。耕也の気持ちがわからず、栞は困惑するばかりです。 

 

根津神社と『花丸リンネの推理』 

 次は阿野冠のミステリー『花丸リンネの推理』(2011・平成23)です。物語散歩に絶好で、かつ内容も面白い作品です。

 

 物語の冒頭に描かれるのが谷中霊園です。語り手の「私」こと、女子中学生の桜つぼみは、ここで不審な男に追いかけられます。救ってくれたのは、美貌の女子高生でした。花丸リンネと名乗ります。

 リンネは弥生坂近くにある、大きな屋敷の令嬢でした。すばらしいのは外見だけにとどまりません。スポーツも学問も全てに秀でた超才媛です。

 

 物語が次に動くのが根津神社の境内でした。夏祭りの夜、友人と神社を訪れたつぼみは、中学の上級生から、霧谷蘭という女生徒が行方不明になっていると聞かされます。蘭はアイドル活動もしている美少女でした。隣町では女子中学生を狙う不審者も出没しているとか。つぼみが不審者の特徴を聞くと、谷中霊園で彼女を襲ってきた人物にそっくりでした。つぼみも蘭の捜索に協力しようとします。そんなとき、リンネがまたつぼみの前に姿を現しました。

 翌日、「少女の友展」開催中の弥生美術館の前につぼみが人待ち顔で立っています。待ち人が来ました。どこから見ても大人の女性ですが、実はリンネの変装です。なぜそんな姿で現れたのか、つぼみにはわからないようです。

 

 更にもう一つわからないことが。つぼみが前日にリンネから告げられた、弥生美術館に来れば失踪事件の答えが見つかる、という言葉の真意です。

 

 弥生美術館は根津神社からそれほど離れていない場所にありますが、今回は時間の関係で訪れることができません。

 

乙女稲荷神社『喋々喃々』

 根津神社に入ると境内左手の小高くなった場所に赤い鳥居が続いているのが分かります。乙女稲荷神社の鳥居です。

 

 小川糸『喋々喃々』(2009・平成21)は、内容も良い上に、物語散歩にも非常に適した小説です。小説に描かれているのは谷中の町が中心ですが、上野や吉原など、それ以外の場所も紹介されていますので、広く散歩ができます。この乙女稲荷神社も描かれていました

 

 主人公の横山栞(こちらも「しおり」!)は谷中でアンティークの和服を扱う店を営む若い女性です。店を開いてから4年になろうとしています。それなりにお客も来ているので、一人で暮らす栞にとっては十分にやっていけます。

 ある日の午後、彼女の店に一人の男性客が入ってきました。初めて行く正式のお茶会に着ていく着物を探しているのだと言います。その声を聞いて、栞は自分の父親によく似ていると思いました。声だけでなく、その男性の持っている穏やかさはとても好ましいものに感じられました。キリンに似ているな、とも栞は思います。

 男性は春一郎といいました。彼はその後、何度か栞の店を訪れます。話をするたびに、栞は温かい何かに包まれていくような、そんな自分を感じます。二人は栞の店以外の場所で会うようにもなっていきました。春一郎が結婚指輪をしていること、栞は彼と最初に会った日に、それに気づいています。

 

 5月のつつじまつりの日、栞は根津神社に行きました。この日から春一郎さんは海外出張だそうです。根津神社境内の乙女稲荷神社で、栞は春一郎の無事を祈りました。ただでさえ春一郎は大変な高所恐怖症ですので。でもこの高所恐怖症が二人を近づけるきっかけとなったのは確かですが。