目黒区南部の散歩です。

東横線の都立大学駅、自由が丘駅周辺の物語を取り上げていきます。その後で碑文谷に移動し、いくつかの物語を見ていきます。

なお、ここで訪れる場所の大部分は「九品仏・自由が丘物語散歩」でも触れています。

都立大学駅周辺

 前章で訪れた学芸大学駅の次は都立大学駅。この駅周辺を描いた作品として神津カンナ『私鉄沿線物語 通りの向こう側』(1990・平成2)をあげたいと思います。8つの物語から成っている作品です。都立大学駅周辺は最初の章に出てきます。

 

 大学3年生の片桐菜緒の家は柿の木坂にあります。近くの人なら誰でも知っているような大邸宅です。何不自由なく育ってきた菜緒でした。交際している男性・裕介も菜緒と同じような家庭環境です。しかし、裕介と交際しているうちに、彼の持っている世界の狭さが気になるようになってきました。それは菜緒自身の世界の狭さにも繋がることを菜緒は気づいています。自分の世界から外に踏み出したい、そんなふうにも思い始めています。

 

 台風による雨が激しく降る日でした。都立大学駅で降りた菜緒は目黒通りを渡るため信号待ちをしています。雨は激しく降り、角にある銀行の建物には既に雨を避けて非難する人がたくさん。菜緒は銀行の隣の建物の軒下に入りました。そこは古めかしい洋館でした。アパートであることは知っていましたが、そこが「駱駝館」という名前であることはその雨宿りで初めて知りました。お世辞にも綺麗とはいえない集合住宅です。でもその日から菜緒は駱駝館が何だかすごく気になってきました。どんな人が住んでどんな生活をしているのだろう。それだけではありません。今まで自分の生活と交わらないところには何の注意も向けず通り過ぎていた菜緒ですが、駱駝館が気になってから変わってきました。街並みのあちこちに目を留めるようになってきたのです。平面的だった街に奥行きを感じはじめました。そんなある日、ちょっとした出会いがありました。

 

九品仏川緑道

 都立大学駅の次は自由が丘駅。駅近くの遊歩道に注目します。九品仏川緑道です。桜並木もあり、「グリーンストリート」とも呼ばれて親しまれています。

 

 長谷川純子「はずれ姫」(2006・平成18)の「俺」は、妻に無神経さをよく怒られるさえない男ですが、妻にも娘にも内緒の楽しみがあります。それは九品仏川緑道の桜を鑑賞すること。開花時よりも葉桜になった時の方がお気に入り。彼はその風情を女性にたとえて味わいます。「男の快楽」だと彼は言っています。

 自由が丘の街にお祭りがあった5月の土曜日、彼は妻子と緑道に来ました。彼は葉桜を見ているうちに無性に女性が欲しくなり、家族と離れて人込みを抜け出します。

 

 普段行かない道に名曲バーを見つけた彼は、何かに呼ばれたかのように入りました。その店にいたのは華やかな美人。先客も去り、店は2人きりです。女性はどうやら40歳過ぎらしく、彼とは同世代のようなので、話も弾みました。男性を喜ばせるような受け答えをする女性。その物言いの裏に哀しみのような何かがあると彼は感じました。

 彼はそれからよくこの店に通うようになります。2人の関係も深まっていきました。それはいつ行っても他の客がいない、という不思議に後押しされたかのようです。

 不思議と言えばまだあります。それは、女性がまとう雰囲気が次第に変化していくこと。また、10歳になる彼の娘の様子も以前と違ってきたように思われてなりません。

 

自由が丘駅周辺

 中村一『ココロ・ドリップ~自由が丘、カフェ六分儀で会いましょう~』(2014・平成26)は、自由が丘の街の中でも、より親しみが持てる場所を舞台として選んでくれています。

 

 カフェ六分儀は、駅近くに実在する熊野神社の、参道脇の路地にあるという設定。穏やかな微笑をたたえるマスターの祐天寺日高はコーヒーにこだわりがあり、自家焙煎のための部屋まで作られています。調理と経理の担当は綱島拓。作家でもあります。男性2人はともにアラサー。

 もう一つこの店に特徴的なのが壁面の飾り棚。棚の上には様々な物が統一感なく置かれています。気に入ったものを見つけたお客は、持ち帰ってかまいません。その品を、自分に対する見知らぬ誰かからの「贈り物」と考えるのです。持ち帰る人は、今度は自分が贈り主として、代わりの何かを棚に置いていくのが暗黙のルールです。

 このカフェでバイトをしている大学生・吉川知磨も当然この飾り棚のルールを知っています。彼女がこの棚の中で一番好きなのはかわいらしい模型の家でした。ただ、妙なことに棚に並ぶ物の中で、これだけにラッピングリボンが掛けられています。マスターによると、予約済み的なものであるとか。何か特別な事情があるように思われます。

 実は知磨もこの棚に一つ「贈り物」を置いています。これにもやはり特別な思いがこめられていました。

 

 小説で熊野神社以外の重要な場所として挙げられるのが自由が丘デパート。中に百ほどの店舗が入っていて、うち数軒は小説にも描写されています。

 

目黒区八雲

 自由が丘駅から学園通りを通って目黒通りに出ます。目黒通りを渡ると、目黒区自由が丘2丁目だった地番が八雲3丁目に変わります。更に進むと桜並木の道に出会います。呑川緑道です。

 

 七月隆文『ケーキ王子の名推理(スペシャリテ)』(2015・平成27)では、この桜並木の近くに1軒のケーキ屋が設定されています。店名は「モンスールガトー」。ケーキの大好きな女子高生・有村未羽がこの店に来たのは全くの偶然でした。それは1月末、デートの日に自分のミスで失恋してしまうという痛恨の出来事があった後です。彼女は自由が丘でお目当ての店(モンサンクレール)をうっかり通り過ぎてしまい、歩いているうちにこの店に行き着きました。

 

 未羽は驚きました。その店で働いている男の子、未羽がよく知る人物だったからです。最上颯人(もがみ・はやと)。未羽と同じ高校に通う、人気ナンバーワンのイケメンでした。「王子」と呼ばれています。

 ただこの「王子」、女性に冷たいことでも有名でした。勇気を持って彼に近づこうとする女の子もいますが、全く無視、なのだそうです。

 彼は未羽が同じ高校であることを見抜きました。自分がここで働いていることを学校に言うなと猛烈な迫力で彼女に命じます。

 さらに未羽を驚かせることがありました。それは彼の観察力と洞察力の鋭さ。未羽がなぜこの店に行き着いたのかをズバリ言い当てました。

 この力はこの物語の中で十分に発揮されます。もちろんケーキ職人としての彼の力も非凡。物語を読む大きな楽しみとなっています。

 

 未羽が颯人の働く店を知ったきっかけの一つは坂道。長くまっすぐな下り坂は彼女を感動させます。そうれはどうやら太鼓坂という名前の坂道のようです。

 

サレジオ教会

 都内には思わず立ち止まって見入ってしまうような宗教建築が多く存在します。目黒区碑文谷にあるサレジオ教会もその一つ。高い鐘楼を有する、奥行きのある建物で、その上品な美しさは周囲の風景ともよく調和しています。

    

 蓮見圭一『別れの時まで』(2011・平成23)の冒頭近くで、主人公の松永薫は、中学1年の娘・早紀と共にこのサレジオ教会に立ち寄っています

 彼は妻と死別したアラフォーの編集者です。家族をテーマに募集した手記をまとめている中で、30代半ばのシングルマザーが書いた一編に注目しました。9歳の息子との日常を描いた手記でした。

 

 入選作にふさわしい、そう考えた松永は、その女性・毛利伊都子に会うため、サレジオ教会の近くにある彼女の家を訪れます。

 伊都子は不在でしたが、隣人の永島から聞いた話によると、彼女は舞台女優だとのこと。この永島、松永の知る編集者の叔父にあたることが後にわかりますが、少々変わった人物のようです。

 後日会った伊都子は美しい女性でした。松永は心引かれ、やがて交際へと発展します。互いに子供を持っている男女の、大人の恋愛です。

 ただ、伊都子には謎がありました。息子の父親にあたる人物に関してです。松永がその人物について手記に加筆するよう助言すると、伊都子は拒否し、それなら入選を辞退するとまで言います。

 永島という人物も妙です。彼は松永の身内について、松永自身も知らなかった情報を持っていました。また、松永に接近して何かを聞き出そうとする男たちも現れます。彼らの意図は何でしょうか。

 

円融寺

 サレジオ教会の近くの立会川緑道を歩くと、すぐ横に寺院のものらしい緑が見えます。円融寺です。山門をくぐって階段を上ると視界が開け、仁王門と釈迦堂が視界に入ってきます。目を奪われるような、実に素晴らしい建築です。

 

 この釈迦堂は室町時代初期に建てられたもので、23区内では最も古い木造建築だとのこと。国指定の重要文化財です。仁王門は区指定の文化財、仁王門に安置されている木造金剛力士像は1559(永禄2)年に作られた東京都指定の文化財だそうです。時間を忘れて見入ってしまいます。

 

 田中貢太郎の時代小説「碑文谷巷説」にこの円融寺が描かれています。時は幕末の文久3(1863)年。薩英戦争があった年です。生麦事件の翌年にあたります。

 

 主人公の名は伝八郎。年のころは20代の半ば、浪人か博徒か、といった風情です。この人物、実は心根のあまりよろしからぬ人物です。ある日、たまたま前を通った円融寺の境内では、縁日が行われていました。娘軽業師の小屋に好奇心を刺激されて入ったところ、中にいた芸人の女に彼は興味を引かれました。

 

 蕎麦屋でしばらく時を過ごした伝八郎は、小屋をしまって帰る軽業師の一行のあとをつけます。力ずくででも女をものにしようという魂胆です。……伝八郎が予想していたよりもかなり遠くまで移動するようです。もう彼には方角すらわからなくなってきました。やがて着いたところは、なんだか墓地のように思われます。さて……?

 

 円融寺が出てくる作品をもう一つ。光瀬龍『夕ばえ作戦』(1967・昭和42)は、今読んでも痛快なSFです。大岡山の中学校に通う砂塚茂は、古道具屋で正体不明の円筒形の機械を買いました。実はこの機械、タイムマシンでした。つまみを回したことで、茂は江戸時代にタイムスリップしてしまいます。当時の荏原村、周囲は一面の雑木林です。

 

 茂はたちまち怪しまれてしまいます。幕府に恨みを持ち、村を荒らし回っていた風魔一族と誤解されるのです。誤解はまもなく解けました。茂は忍びの術を使う風魔の被害に悩む代官に味方し、彼らを退治する決意をしました。

 

 タイムマシンでもとの時代に戻る方法がわかった茂は、風魔攻撃に効果がありそうな物を江戸時代に持って行き、彼らに痛手を与えます。茂は運動能力抜群の少年です。白兵戦でも負けません。

 

 困った事態が起きました。茂はちょっとしたミスから担任の女性教師・高尾先生を江戸時代に連れてきてしまいますが、彼女を風魔に奪われたのです。風魔の頭領・小太郎は、人質にした高尾先生を円融寺に運び込むよう手下に命令しました。