喜之床跡・啄木旧居

 今回の散歩の前半では、かなり名の知られた作家さんが何人も出てきますが、その中で、貧乏だったことでも有名な人が2人います。石川啄木樋口一葉です。本当に2人とも、人生のほとんどピーピーしていました。その石川啄木が住んだ家の跡を見ましょう。本郷三丁目の交差点(画像は集合場所の東京メトロ本郷三丁目駅)から百メートルほど西に行った左手に「アライ」という理髪店がそれです。啄木が晩年家族と共に2年ほど住んだ家の跡となります。1909(M42)年、啄木は24歳(数え年)。同郷の先輩、佐藤真一の世話で、月給25円の朝日新聞の校正係の仕事を得て、本郷弓町の理髪店喜之床の2階にふた間を借りて移転します。

 朝日新聞に入社後も啄木の生活は困窮を極めていましたが、母と妻子と家出していた父も加わり、姑嫁の不和や妻の病気の中で、「食(くら)ふべき詩」(1909)、「一握の砂」(1910)などの作品を発表しました。

 

 なお、この地にあった喜之床の建物は、愛知県犬山市の「明治村」に移築されて残っています。

 

 真砂坂上という交差点を渡り、春日通りから小径に入ります。左手に「文京ふるさと歴史館」、右手に「文京区立真砂図書館」を見つつ進むと、道は石段になった坂道へと続きます。「炭団(たどん)坂」と言います。

春廼屋(坪内逍遥)旧居跡・常磐会跡

 炭団坂の上に坪内逍遥の旧居跡を示す碑が建っています。

 坪内逍遥(本名 勇蔵)というのは、明治初期の文学者で、それまでに流行していた勧善懲悪の小説を否定し、ありのままを客観的に描写するという写実主義を提唱した人です。日本の近代文学の礎を築いた人と考えてください。

 

 1883(M16)年、帝国大学(現在の東京大学)を卒業した坪内逍遥は、東京専門学校(現在の早稲田大学)に講師として招かれます。帝大在学中に今で言う家庭教師をやっていましたが、その教え方が良かったため、受験生の親に感謝され、家をプレゼントされます。それがここでした。1884(M17)年6月のことでした。逍遙はここを「春廼屋(はるのや)」と名づけ、寄宿舎として学生を十数人あずかって寝食を共にしながら指導しました。

 

 逍遥は、この春廼屋時代に、日本の近代文学初の理論書とも言うべき『小説神髄』(1885・M18)を書き、実験的な小説である『当世書生気質』(1886)を発表しました。

樋口一葉旧居跡

 炭団坂を下ると細い路地に突き当たります。左折して少し行くと左手にまた細い路地が見えます。そしてこの奥が樋口一葉(1872~1896)の旧居跡です。一葉は明治時代の女流作家です。たった24年と8ヶ月足らずでこの世を去ってしまいました。彼女の住まいとそこでの活動について、非常に大ざっぱにつかむとするならば、次のようになるでしょう。

 彼女の生まれは、1872(M5)年の3月25日(旧暦)で、同い年に島崎藤村がいます。旧地名 内幸町1丁目1番地という場所に生まれました。ここに(今の言葉で言うと)官舎がありました。今の日比谷公園の近くにあたります。父の名は則義で、もともとは山梨の農民の出でしたが、幕末に同心株を買い、士族の仲間入りをしました。ですので、一葉は士族の娘です。姉(藤)・兄(泉太郎)・兄(虎之助)・兄(大作・すぐに死去)・一葉・妹(くに)という兄弟でした。姉の藤はすぐに里子に出されています。

 

 1876(M9)年4月、一葉の家族は本郷6丁目5番の屋敷に転居しました。法真寺というお寺の隣です。両親ともに健在、一葉の人生の中で最も安定していた時期です。一葉数え年5歳。翌年の3月に本郷元町の公立本郷小学校に入学しました。

 

 その後、1883(M16)年、一葉12歳の時に父は長男の泉太郎に家督を譲りますが、4年後、その泉太郎が結核で死亡。次兄の虎之助は親との折り合いが悪く、勘当同然に分家していたため、一葉が戸主となります。17歳の時です。翌年父は事業に失敗し、その心労がもとで死去します。この後、母と妹とを抱えた一葉の苦労が始まります。

 そこで引っ越したのが、この井戸のある場所。19歳の時(1890・M23)です。針仕事や洗濯などで生計を立てたといいます。そしてここで「闇桜」や「うもれ木」などの小説を書きました。

 その後、下谷竜泉寺町や丸山福山町といった場所に移りますが、商売の失敗もあり、家計は次第に窮乏を極めていきます。

鐙(あぶみ)坂

 一葉旧居跡のある小路は袋小路ではなく、奥に抜けられます。抜けた先の坂が「鐙坂」です。坂名の由来は、高台から見た坂の形が乗馬のときの「あぶみ」に似ているからとも、近くに「あぶみ」を造る職人さんがいたからともいいますが、炭団同様、もはや「あぶみ」と言ってもすぐに分かる人は少ないでしょう。古い街並みが残されていますので、見逃さないようにしましょう。ここには言語学者金田一京助・春彦父子の旧居跡を記した説明板もあります。

 樋口一葉もこの坂を何度も上り下りしていたことでしょう。彼女は膨大な量の日記を遺していますが、その中、1891(M24)年9月17日の条で、彼女は妹のくに子とともに、夜、開橋したばかりのお茶の水橋を見に行きますが、この坂を上って行ったことが日記からわかります。

 

 今宵は旧菊月十五日なり。空はただみ渡す限り雲もなくて、くずの葉のうらめしき夜なり。「いでや、お茶の水橋の開橋になりためるを、行みんは」など国子にいざなはれて、母君も、「みてこ」などの給ふに、家をば出ぬ。あぶみ坂登りはつる頃、月さしのぼりぬ。軒ばもつちも、ただ霜のふりたる様にて、空はいまださむからず、袖にともなふぞおもしろし。(『蓬生日記』一)

 

 なお、このすぐ近くに、宮澤賢治が一時住んでいた場所もあります。案内板でそれと知ることができますよ。

一葉ゆかりの旧伊勢屋質店

 本郷五郵便局の前の通りは、なだらかな坂道になっています。今は菊坂通りと言っています。

 郵便局の近くには、貧しかった一葉が通った伊勢屋質店の建物が残っています。一時、解体されるかという危機がありましたが、2015(H27)年に跡見学園が購入して事なきを得ました。一葉の命日である11月23日をはじめ、一般に公開される日もあります。

 

 生活に行き詰まった一葉は21歳の1893(M26)年7月、下谷龍泉寺町(俗称 大音寺前)に引っ越して駄菓子・おもちゃなどの小店を開きます。

本妙寺坂と振り袖火事

 菊坂通りを少し東大方向に歩くと辻に出ます。左右は上り坂。右手に行くと真砂遺跡ですが、我々は左手の坂を登ります。この坂を本妙寺坂と言います。明治の末に巣鴨に移りましたたが、ここに本妙寺というお寺がありました。ここが「振り袖火事」といわれる明暦の大火(1657・明暦3)の火元と言われているところです。火事の原因については様々な説が出ています。

 物語散歩なので、小泉八雲がこの火事をもとに書いた「振袖」(1899・M32)という短編小説を紹介することにしましょう。(原文は英文。講談社学術文庫『怪談・奇談』の訳文に依って要約。)

 

 富裕な商人の娘が神社の祭礼に出かけ、一人の美しい若侍に一目惚れしました。どこの誰ともわからぬまま、若侍は人混みに紛れてしまいました。娘はその若侍が着ていたのと同じ生地、柄、紋の振袖を作らせて、宝のように大事にしました。あの侍の心を得ることができるようにと「南無妙法蓮華経」の題目を幾度も繰り返します。

 しかし願いは叶うことがありませんでした。娘は恋い焦がれて病になり、死んでしまいます。娘が大事にしていた振袖は、昔からのしきたりに則り、寺に寄進されました。寺はその振袖を売り払い、振袖は死んだ娘と同じ年頃の娘のものとなりました。ところが娘はその振袖を一度着ると病気に倒れます。彼女の目には一人の若侍が幻として映りました。程なくその娘も亡くなります。

 振袖は、もう一度同じお寺へ、また別の娘へ。そしてまたその娘が振袖を着るとおかしくなる、死ぬ…。最初の娘を含め四人の娘が死にます。さすがに住職もこれはおかしいと思い、庭で焼くように言いつけました。

 ところが生地に火が移ると、突然その上で炎が「南無妙法蓮華経」の七文字を描き出しました。一つ一つの文字が空に舞い、寺に燃え移り、近所の家へと広がって、やがて江戸中を巻き込む大火となりました。

 

 江戸の3分の2を焼き尽くすような大火災でした。死者は10万数千人と伝えられます。

菊富士ホテル跡と『宵待草殺人事件』

 本妙寺坂の途中を左へ曲がった突き当たり、視界の開けた高台の隅に、「本郷菊富士ホテルの跡」と彫られた記念碑があります。

 1914(T3)年に開業したこの高級下宿は、地上3階地下1階の洋風の建物で、50もの客室があったと言われます。正宗白鳥・真山青果・竹久夢二・直木三十五・坂口安吾など、滞在した作家・芸術家の名が記念碑の隣にある黒御影石に刻まれています。そうそうたる人士ですが、どれくらい知っていますか。かなりの奇人変人もいたようで、エピソードに事欠きません。近藤富枝『文壇資料 本郷菊富士ホテル』(1974・S49年)を読むとそれがよくわかります。

 同じ著者による「宵待草殺人事件」(1984・S59〉は、この菊富士ホテルを舞台にしたミステリーです。谷崎潤一郎や竹久夢二など、実際に菊富士ホテルに滞在していた人物が何人も登場するので、面白さもいっそう増加します。

 

 最初の事件はこの近くに実在する長泉寺の境内で発生したという設定です。上野広小路のカフェーに勤める女給が死体で発見されました。警察の目は菊富士ホテルの滞在客に向けられます。疑われた人物の一人に竹久夢二がいます。被害者の懐中から夢二が描いたと目される枕絵が見つかっていました。その絵の女性は顔の部分だけがキリ状のものでめった刺しにされており、陰湿なメッセージ性を感じさせます。

 恋人のお葉とホテルに滞在中の夢二は、身に覚えのないことと憤慨します。ただ、ホテルでは夢二の亡くなった元恋人・彦乃の幽霊が出るという噂もあり、夢二の周囲にさざ波が立っていきます。

 引き続き、ホテルの一室で新たな事件が発生。ホテルの住人たちも落ち着きません。夢二にすがりつかれた谷崎潤一郎は、これら一連の謎を解明すべく、脳細胞をフル回転させます。

 

 ホテルは戦争末期の1944(S19)年、経営難で人手に渡って社員寮となり、翌年の空襲で焼けてしまいました。その周囲はかなり高低差がある場所です。ホテルの地下にあたる食堂が、眺める方向によっては1階にも見えたそうですが、実際に行ってみるとそれが納得できます。

 

赤心館跡(啄木旧居

 文学への自己の可能性を見極めようと、1908(M41年)、釧路新聞社を退き、家族を函館の友に預けて、石川啄木は3度目の上京をします。そのとき最初に住んだ下宿は赤心館といい、菊富士ホテル跡の近くにその跡を示す説明板が存在します。啄木は、「明星」を主催する与謝野鉄幹に臨時の仕事をもらいながら、東京大学の文科言語学科を卒業した同郷の先輩(盛岡高等小学校時代からのつきあい)で友人の金田一京助を本郷のこの赤心館に訪ね、自らも2階の1室を借りて小説を書き始めました。しかし、小説はいっこうに売れず、貧困生活を続け、金田一京助の援助でかろうじて暮らしていました。

大栄館(もと蓋平館別荘)・啄木旧居跡

 1908(M41)年9月、石川啄木は金田一京助と共に赤心館を引き払って、新築3階建ての蓋平館に移り住みました。たまった下宿代を啄木が払えず、金田一京助が自分の蔵書を売り払っての引っ越しであったという話は有名です。啄木の日記からその年の9月6日の部分を引用します。

 

 金田一君が来て、今日中に他の下宿へ引越さないかと言ふ。(中略)予の宿料について主婦から随分と手酷い談判を享けて、それで憤慨したのだ。もう今朝のうちに方々の下宿を見て来たといふ。

 予は唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言つて、複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ!

 本を売つて宿料全部を払つて引払ふのだといふ。本屋が夕方に来た。暗くなってから荷造りに着手した。(中略)

 午後九時少し過ぎて、森川町一番地新坂三五九、蓋平館別荘(高木)といふ高等下宿に移つた。家は新らしい三階建、石の門柱をくぐると玄関までは坦らかな石甍だ。家の造りの立派なことは、東京中の下宿で一番だといふ。建つには建つたが借手がないので、留守番が下宿をやつてるのだとのこと。

 三階の北向の室に、二人で先づ寝ることにした。成程室は立派なもの。窓を明けると、星の空、遮るものもなく広い。下の谷の様な町からは湧く様な虫の声。肌が寒い程の秋風が店から直ちに入つてくる。

 

 啄木のために金田一が借りてくれた部屋は、3階の隅にある2畳半の布団部屋で、4円の部屋代であったと言います。

 金田一の友情に心底恐縮していた啄木に向かって、自分はこれからアイヌ語の研究に専念するつもりであると語った金田一は、当時海城中学の教師をしていました。

 

 この蓋平館の跡は「太栄館」という旅館になっていましたが、2014(H26)年6月に閉館しました。幸いに歌碑などは今も残っています。

こんにゃく閻魔と『こころ』

 白山通りを横切ります。通りから一つ西に入った通りに、「こんにゃくえんま」こと源覚寺があります。1624(寛永元)年に創開された浄土宗のお寺さんです。眼病治癒に霊験あらたかといわれます。閻魔像は、1672(寛文12)年の作。像高100.4センチメートル。ヒノキ材で彩色。玉眼が嵌入。右目部分が割れて黄濁していますが、これに関して伝説があります。

 

 宝暦(1751~61)の頃、眼病をわずらった老婆が思い余って閻魔大王に21日間の祈願をこめたところ、夢枕に大王が現れ「われの日月に等しき両眼のうち、一つをえぐり取って汝に授くべし」と言いました。夢のお告げの通り、老婆の眼は満願の日に治りました。老婆は大王の慈悲に感謝して、あらためて本堂の像を見ると大王の右眼が盲しいとなっていたので、以来、老婆は好物の「こんにゃく」を断ち、それを供えるようにしました。 

 

 こんにゃく閻魔は、夏目漱石『こころ』(1914・T3)の中で、若き日の「先生」が大学への通学路にしていた所です。

  

 十一月の寒い雨の降る日のことでした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を抜けて細い坂道を上がって宅へ帰りました。(三十三)

 

 『こころ』は朝日新聞に連載された小説です。「上・中・下」の三編に分かれていて、どれも「私」という一人称で語られています。ただ、「上・中」と「下」とでは、「私」で表される人物が異なるので紹介も気をつけねばなりません。

 

 「上 先生と私」の中の「私」には「先生」と呼ぶ人物がいました。学校や塾で教わった訳ではありません。なぜかその人には「先生」と呼びたくなる雰囲気がありました。「先生」は職を持っておらず、「お静」という奥さんとの間には子どももありません。「先生」は「私」に「恋は罪悪ですよ」と、気になる言葉を言いました。

 

 下編では、この「先生」が今度は「私」という一人称で登場し、かつて東大に通う学生だった頃に起きた一つの「事件」について語ります。その後の彼の人生を大きく変える事件でした。

樋口一葉終焉の地

 春日通りに戻って北上すると右手にやがて樋口一葉終焉の地の案内表示板が見えてきます。一葉は先ほどその跡地を訪れた菊坂から大音寺前に転居し、さらに1894(M27)年5月にここに引っ越してきました。当時23歳です。この地で彼女は「大つごもり」(同年12月)、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」(すべて1895年)といった、今でも多くの人を引きつける名作を書きました。亡くなったのはその翌年、1896(M29)年11月23日のことでした。享年25歳。満年齢では24歳8ヶ月。肺結核による死です。死を目前にした中で、不朽の名作を次々と生んだこの期間は「奇跡の14ヶ月」と呼ばれています。

 

 その中の一作、「にごりえ」の主人公は「お力」といいます。「菊の井」という銘酒屋に勤めています。「銘酒屋」というのは酒を売る店のように思えるかも知れませんが、実は売春をする店です。お力もそのような仕事にたずさわっています。彼女に惚れて金を使い、財産を失ってしまった源七と、お力の新しい常連客となった結城朝之助との3人が中心となってストーリーが展開していきます。

 

 この作品の舞台は「新開地」は、この近くをモデルとしています。一葉と親しかった随筆家の馬場孤蝶は、『明治文壇の人々』(1948・S23)という随筆で、次のように述べています。(現代仮名遣いに変えました)

 

 柳町・指ケ谷町から白山下までが水田であったことは、そう昔のことではない。僕等の十五六歳の頃までは確にそうであったのであるから、かの辺りが埋め立てられて町になったのは一葉女史の福山町に住まいを定めた当時を去ることそう古いことではなかったのだ。で、樋口家の人々が福山町に住まった時分には、彼の辺はまだ新開の町であった。

 ところが、その時分には新開町には大抵できる一種の商売屋があった。それはいわゆる銘酒屋である。そういう者どもが何日も新開地を繁昌させるパイオニアーであったのだ。(「『にごりえ』の作者」)

 今銀行の横町になっている町の、福山町の通りになっての右角の家には確か紅葉亭という行灯が出ていた。

 一葉女史の住居への入口の向つて右手に平家があった。この家は現存している。『にごりえ』の菊の井の基礎になったのはこの家である。(「『にごりえ』になる迄」)

 

 『にごりえ』の中の表現に以下のようなものがあります。

 

 ああ今日は盆の十六日だ、お閻魔様へのお参りに連れ立つて通る子供達の奇麗な着物きて小遣ひもらつて嬉しさうな顔してゆくは、定めて定めて二人揃つて甲斐性のある親をば持つて居るのであろ(五)

 

 この中の「お閻魔様」は先ほど訪れた「こんにゃく閻魔」のことであろうと思われます。

沢蔵司(たくぞうす)稲荷

 善光寺坂という坂道を上がった右手にうっそうと木の茂るお社があります。慈眼院沢蔵司稲荷です。ここには興味深い伝説が残っています。江戸時代中期の『諸国里人談』(寛保年間(18世紀半ば)成立)という随筆から、現代語に直して紹介しましょう。

 

 覚山というお上人が京都からこの伝通院に来るとき、道づれとなった若い僧がいました。名を伯蔵と言いました。彼はそのまま伝通院で学問をしますが、大変に聡明でした。これはただものではない、と周囲の僧侶は希有に思っていましたが、ある日熟睡しているとき、その正体を現してしまいます。それは一匹の狐でした。彼は正体を見せてしまったことを恥じ、姿を消してしまいます。ですがそれでもなおここから去ることはなく、夜ごと夜ごとやって来ては外から法を論じました。今は「伯蔵主稲荷」と称して鎮守となっています。

 

 この随筆では「伯蔵主」となっていますが、現在の名称は「沢蔵司」です。何通りかに表記されたようですね。伝通院という名前が出てきていますが、これはこの後に訪れるお寺の名前です。

 

 沢蔵司に関しては多くの言い伝えがあり、自ら正体を打ち明けたとも語られます。そのとき、上人に十一面観音像を託していったそうです。慈眼院沢蔵司稲荷はその観音像を祀っています。

 この先に大きな椋(むく)の木(画像)がありますが、沢蔵司が学寮への行き帰りの際、必ず礼拝していった木で、沢蔵司の霊が宿っているとも言われました。木は大戦の空襲で被害を受けましたが、今は樹勢を回復しています。戦災で焼けた上の部分を伐ろうとしたところ、山から呼んできた木樵たちは、一目見るなりこれは伐れないと言ったそうです。それでもなんとかして伐りましたが、この一件に関わった区役所の人が2人亡くなってしまい、噂となったと聞いています。

 

 面白い言い伝えがありました。この沢蔵司、お蕎麦が大好きなのだそうです。近くの蕎麦屋さんによく通って蕎麦を食べたました。その蕎麦屋さん、今も残っています。稲荷蕎麦萬盛と言います。沢蔵司の正体がわかってからも、蕎麦屋さんはその日の最初の蕎麦を稲荷に納めることにし、また店内にも稲荷の神棚を祀りました。萬盛さんは今もお蕎麦を供えています。

沢蔵司稲荷と時代小説

 この、お蕎麦に関係する沢蔵司稲荷の伝説は、平岩弓枝『御宿かわせみ』シリーズの中にも描かれていました。「伝通院の僧」という章です。江戸時代を舞台にしている時代小説ですが、沢蔵司が学寮にいた時代よりずっと下って、幕末です。

 

 物語は隅田川で旅宿を営む女性「るい」と、彼女と相思相愛の仲である神林東吾が物語の中心を展開します。

 5月初旬、東吾の元に岡っ引きの長助が妙な話を持ってきました。その話というのはこうです。

 

 柳橋の蕎麦屋に一人の僧侶が通うようになった。格別うまい蕎麦屋でもないのに、その僧侶は3日に一度はやってくる。伝通院の僧侶だそうである。近所に住む隠居がその話を聞き、その蕎麦屋の主人に沢蔵司稲荷の伝説を伝えたところ、主人は気になって、僧侶の帰るあとをつけていった。ところが稲荷社のところで姿を見失ってしまった。

 

 この僧侶もまたキツネなのでしょうか。この後展開される物語のラストにその答えが示されています。

幸田露伴旧居跡

 かつて幸田露伴・幸田文(あや)父娘がこの近くに住んでいました。幸田露伴(1867~1947)は明治を代表する小説家の一人。特に明治20年代の活躍にはめざましいものがありました。代表作は『五重塔』で、1891年の作です。露伴25歳。

 幸田露伴は小石川区表町(旧地名)に58歳の時に移っています。震災の後、1924(T13)年でした。この家は1945(S20)年5月25日の空襲で焼け、その後露伴は伊東に行った後、市川市菅野に移り、そこで没しました。享年81歳です。ここでの生活は、娘である幸田文の随想『父』(1949・S24)に述べられ、孫・玉の『小石川の家』(1994・H6)にも詳述されています。露伴は自宅のことを「蝸牛(かぎゅう)庵」と呼びました。「蝸牛」とは「ガタツムリ」のことです。カタツムリのように自分で背負えるほど小さい家という謙称でしょう。露伴は何度も引っ越しをしています。その場所をとって、「向嶋蝸牛庵」「小石川蝸牛庵」などと言っていました。

 

 小石川蝸牛庵の前にも二百何十年とかいわれる大榎があった。道しるべにでもしたのか、往来のまんなかに聳(そび)え、これは味もなくまっすぐ立だった。蝸牛庵が焼けたあおりで、半分は立枯れになったが、余命を保って道行く人をふり仰がせていた。(『父』)

 

伝通院と夏目漱石『それから』 

 さらに進むと右手に立派な山門が見えます。先ほど少し触れた伝通院(でんずういん)のものです。正式名称を無量山傳通院寿経寺という、浄土宗のお寺です。1602(慶長7)年に徳川家康の生母、「於大(おだい)の方」が75歳で亡くなったため、ここを菩提寺と定めましたが、その法名「伝通院殿」が寺名として通るようになりました。江戸時代には将軍家の帰依あつく、多くの学寮を具備し、規模を誇りました。今でも相当な大寺です。門前の通りの広さが往時の隆盛を今に伝えています。墓地には「お大の方」の他、2代将軍秀忠長女で豊臣秀頼の妻「千姫」、作家・佐藤春夫の墓などがあります。

 

 

 ところでこのお寺、明治の小説にけっこうよく登場します。有名どころということで、夏目漱石『それから』(1909・M42)を紹介しましょう。

 

 主人公の名は長井代助と言います。彼の友人・平岡常次郎は中学時代からの付き合いです。平岡は大学卒業後、銀行に勤め、三千代という女性と結婚した後、京阪地区の支店に転勤になりましたが、ある事情で辞職。東京に戻りました。

 代助は東京に戻った平岡夫婦ために住居を世話します。その家はこの伝通院の近くに設定されています。

 

 坂を上つて伝通院の横へ出ると、細く高い烟突(えんとつ)が、寺と寺の間から、汚きたない烟(けむ)を、雲の多い空に吐いてゐた。代助はそれを見て、貧弱な工業が、生存の為ために無理に吐(つ)く呼吸(いき)を見苦しいものと思つた。さうして其(その)近くに住む平岡と、此烟突とを暗々の裏(うち)に連想せずにはゐられなかつた。(八の三)

 

 代助は平岡と三千代のため、兄や兄嫁にお金を借りようと頼み込んだりもします。代助自身は30歳ですが、まだ職を持たず、父親から経済的援助を受けている身です。こういう人のことを当時「高等遊民」と言いました。こんな代助に、少しずつ変化をもたらすことになるのが、平岡の帰京によって3年ぶりに会った三千代の存在でした。

 三千代とは代助の学生時代に知り合いました。3年前、平岡と彼女を結びつけたのも代助です。しかし、現在、平岡の三千代に対する愛は薄くなっていました。反対に、自分にとって三千代がどのような存在であるのか、代助は次第に気づかされるようになっていきます。

法蔵院

 伝通院を右手に見つつ、その先に進むと、法蔵院という寺があります。ここは夏目漱石が若き日に身を寄せた所でした。1894(M27)年の10月、漱石28歳の時で、松山中学の英語教師になる前年です。漱石の奥さんの夏目鏡子さんのエッセイ『漱石の思い出』(1928・S3)にこうありました。

 

 当時夏目の家は牛込の喜久井町にありましたが、家がうるさいとかで、小石川の伝通院付近の法蔵院という寺に間借りをしていたそうです。たぶん大学を出た年だったでしょう。

 

三百坂と手塚治虫

 学芸大学付属竹早小学校の塀に沿って歩きます。その横手を上る坂がありますが、この坂を三百坂と呼びます。変わった名前ですが、案内板にその由来が書かれていました。江戸時代、この坂道の裏手に松平讃岐守の屋敷がありましたが、そこでは変わったことが行われていました。

 殿様が江戸城に登城の時、雇われ初めの徒侍(かちざむらい=下級武士)は屋敷の玄関前で麻のかみしもを着てその行列を見送りますが、見送ったあと、すぐに着替えて行列に追いつくことが求められました。この坂を上りきるまでに追いつかない場合には罰金として毎回三百文を徴収されたのです。このことから、この坂が三百坂と名づけられたのでした。

 

 このエピソードが語られるのが、手塚治虫の歴史漫画『陽だまりの樹』です。毎回毎回三百坂を全速力で走り、行列に追いつく十五俵二人扶持の若侍・伊武谷万二郎とその走りっぷりを微笑しながら見つめる若い蘭医師・手塚良庵。二人の出会いを『陽だまりの樹』の冒頭ではこのように描きました。この二人を主人公に、幕末から維新にかけての動乱の世を描いた大作です。

 ところでこの手塚良庵という医師は実在の人物で、手塚治虫のひいおじいさんにあたる人なのでした。良庵は後に父の名を受けついで良仙と名乗りますが、その名は江戸の古地図にも出ています。

 

極楽水

 極楽水は「ごくらくみず・ごくらくすい」2つの読み方があるようです。江戸時代に出された江戸案内、『江戸名所記』(1662)、『紫の一本』(1683)、『江戸名所図会』(1883)などにことごとく登場する、江戸を代表する名水でした。『江戸名所記』によると、昔、伝通院を開いた了誉上人がこの地に来たときに、竜女が形を現して上人に会い、仏法のことを尋ねました。上人はその求めに応じて法を説きましたが、竜女はそのお礼にとこの名水を出したといいます。

 

 この湧水は昭和の時代まで豊富な水量を誇っていましたが、惜しいかな、高層マンション建設によって、完璧に姿を消してしまいました。今では水のない池と弁天様の社が残るばかりです。

 

田山花袋の小説『蒲団』(1907・M40)の冒頭にこの湧水のことが描かれています。

 

 小石川の切支丹坂から極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとして渠(かれ)は考えた。

 

この「切支丹坂」については後で紹介します。

 

 なお、この近くには泉鏡花『外科室』の舞台となった小石川植物園徳永直『太陽のない街』の関係地である共同印刷がありますが、進行方向とは逆になりますので、今回は見ることができません。

 

石川啄木終焉の地

 極楽水のあったマンションの正面は、やけに広い道路です。やや勾配があるので、これを「播磨坂」といいます。江戸時代、ここに松平播磨守の屋敷があったからです。でも実は、この坂非常に新しく、環状3号線の一部として切り開かれたものでした。坂の「年齢」と名称の持つ雰囲気とがこれだけ合わない坂も珍しい。

 

 この道路を渡ったすぐ先に、石川啄木終焉の地があります。最初に見た、本郷の「喜之床」から1911(M44)年にここに移った啄木は、翌年、極度の貧困の中、結核により死去しました。27歳の若さでした。今はかわいらしい展示室ができています。

 

木内昇『茗荷谷の猫』

 そろそろ昼休憩の茗荷谷駅が近づいてきましたね。一度解散して昼食後に再集合してもらいます。昼食をとれる場所はたくさんあるので、良い店を探してください。

 茗荷谷の名前を冠した小説木内昇『茗荷谷の猫』(2008・H20)があります。連作短編集で、その中の一篇にタイトルの「茗荷谷の猫」があります。時は大正10年代の初め、主人公の文枝が住むのが茗荷谷となっていますが、場所の詳しい描写はありません。ただ、彼女のところをしばしば訪れるちょっと謎めいた画商・緒方の言葉として、付近の様々な坂名が出てきます。

 また、「隠れる」の章では、先ほど訪れた菊坂付近が描かれています