松濤から駒場東大前へ

松濤と『エイプリル・フール』

 Bunkamuraを左手に見つつ進むことにしましょう。

 この先に広がるのが松濤の住宅街です。高級感あふれる住宅が数多く存在することで知られています。つい今しがた見てきた渋谷宇田川町あたりの喧噪とはうって変わった閑静な雰囲気に包まれているのがわかります。

 

 松濤を舞台としている作品を調べてみましょう。すると、ちょっと面白いことに気づきました。なぜかミステリーの世界でこの松濤が登場することが多いようです。たくさんありますので、ここでは2つだけをご紹介するにとどめます。

 

 まず平井呈一『エイプリル・フール』(1960・昭和35)を紹介します。平井呈一は翻訳家。『小泉八雲全集』の翻訳が特によく知られていました。この作品は翻訳家である氏が書いた幻想小説です。

 

 医学生の津田英二が、松濤にある兄の家を訪れると、義姉の江見子から奇妙な相談を受けました。見知らぬ男から不審な手紙が届いたというのです。差出人の男の氏名はわかりません。N・Hというイニシャルのみが手紙に記されています。

 手紙は江見子へのラブレターでした。銀座の資生堂でつい先程まで一緒の時を過ごした貴女に恋心がつのるばかりである、ぜひまたお会いしたいから、明後日資生堂に来てほしい、という内容です。

 江見子には全く憶えのないことでした。その日の江見子は体調がすぐれず家から一歩たりとも出なかったので、銀座の資生堂など行けるはずがないからです。人違いとすると、江見子の名前と住所がはっきり手紙に示されているのが不思議です。悪意あるなにかの計略が潜んでいるかも知れません。あいにく江見子の夫は出張中で不在でした。そこで彼女は義弟の英二にすがりました。

 英二は姉の話を聞いて一笑に付します。手紙が届いたのが4月1日。単なる誰かのいたずらだと考えたのでした。しかし、同じ人物からの同様の手紙はまた来ました。そこで英二はその人物をつかまえようと、相手が江見子に来て欲しいと書いた資生堂に向かいます。

 英二はそこで何を見るのでしょうか。

 

松濤と『邪宗門の惨劇』

 比較的新しいところで、吉村達也『邪宗門の惨劇』(1993・平成5)を取り上げます。推理作家・朝比奈耕作シリーズの一つで、この松濤に建てられている洋館を舞台とするミステリーです。もちろんその洋館は実際にあるものではなく、小説の中だけの架空の建物ですが。ツタのからまるその洋館はまるで「ドラキュラの住まい」のような外観だそうです。

 

 朝比奈耕作は中学3年生の時の同級生から招待状をもらってこの洋館に来ました。同級生の名前は熊谷須磨子。耕作は29歳、卒業後、今に至るまで全く交流の無かった昔の同級生からの招待状をもらい、首をひねります。

 どうしても会いたいから来てほしい。

 ただし他の人は誘わず、一人で来てほしい。

 自分は北原白秋が好きなので、白秋論でも交わしたい。

 長く秘めていた恋を告白したい、という意図ではない。

等のことが手紙に書かれている上に、白秋の詩『金魚』も引用されていて、読めば読むほど謎めいています。

 

 実は手紙をもらった翌々日は卒業後初めてのクラス会が行われることになっていました。あるいはその関係かとも想像します。

 ところがここに謎が出てきました。クラス会の発起人である人物に電話をすると、熊谷須磨子は死んだはずだ、と言います。

 謎が解決されないまま、耕作は指定された日時に洋館を訪れました。すると、通常の家の3階ぶんの高さはゆうにあろうかという洋館です。ノックをしても誰も出ません。インターフォンのたぐいも全くありません。仕方なく扉を開けようとすると、扉には鍵はかかっておらず、開くことができました。耕作は中に入っていきます。

 

 すると洋館には先客が2名いました。2人とも須磨子と同様、耕作の中学3年生の時の同級生です。皆同様に須磨子から招待状をもらってここに来たそうです。

 ところがここで2人から重大なことを聞かされます。外から簡単に入れた洋館ですが、内側からはどうやっても外に出られないというのです。

 そして惨劇の幕が開かれようとしています…。

 

山手通りと「ドライ・クリーニング」

 松濤を抜けた先の大通りは山手通りです。これから我々はこの通りに沿って歩き、東京大学の駒場キャンパスをめざします。

 

 このあたりのどこか、山手通りに面した場所に、吉田修一「ドライ・クリーニング」『空の冒険』所収2013・平成25)の主人公・新井文子(あやこ)の営むお店「WHITE DELI」があります。「青と白を基調とした明るい雰囲気の店舗」で、カフェのようにも見えるとのことです。

 

 普通のクリーニング屋さんではなく、洗濯代行サービス。通常は自宅の洗濯機で洗ってしまうようなものを預かって洗い、きれいにたたんで返す、というのが仕事内容です。

 文子は子供の時から服をたたむのが好きでした。彼女は口が悪いという悪い癖があるのですが、洗濯物をたたんでいると、心が落ち着いて、言葉に適度なブレーキがかかるそうです。

 

 この日は雨が降っていました。アルバイトの米谷くんが集配から帰ってきた時は雨も本降り。彼もびしょびしょです。傘はあったのに「面倒だから」使わなかったという米谷くんに、文子は、あなたがぬれるのはかまわないけど、お客様から預かったものを濡らすのは困ると言ってしまいます。本当は彼の労をねぎらうつもりだったのですが、口から出たのは別の言葉でした。文子の悪い癖がここでも出てしまったようです。

 

東大駒場キャンパスと『駒場の七つの迷宮』

 東京大学の駒場キャンパスに入ります。ここはかつて帝大農学部があったところで、ハチ公の飼い主である上野英三郎博士の勤務先でした。上野教授の自宅は、今のbunkamuraあたりにあり、そこからだと農学部は歩いてすぐですね。

 駒場キャンパスを紹介するのに絶好の作品がありました。小森健太朗『駒場の七つの迷宮』(2000・平成12)です。1985(昭和60)年を舞台としたミステリーです。

 

 葛城陵治は東大の文科三類2回生です。彼は自らが所属するサークルに新入生を入れるべく、勧誘活動に励んでいました。このサークル、実態は新興宗教の天霊会です。

 キャンパスでは、陵治が所属するのとは別の新興宗教組織による勧誘も複数行われています。そういった布教活動には風当たりも強く、勧誘も一筋縄ではいきません。ところが、どういう才能なのか、大変な成功率で勧誘をしているという女性が出現しました。鈴葦想亜羅というこの女性、曜日を分けて複数の教団の勧誘をするという離れ業まで行っていました。

 想亜羅は天霊会の勧誘も手がけることになります。最初こそ苦々しく思っていた陵治ですが、次第に想亜羅に引かれるものを感じていきます。

 想亜羅も全て順調とはいかず、ある男子学生とトラブルが生じます。彼は少し前に妹を亡くしていました。ある新興宗教が妹の死の原因だと考えるその学生は、妹にその宗教の勧誘をした想亜羅と険悪な雰囲気になります。

 ある日、キャンパスにある南寮の一室で、その男子学生が不審な死を遂げました。現場の状況から、近くの部屋にいた想亜羅がまずい立場に立たされてしまいます。

 

 謎はその後も更に発生します。「七つの迷宮」の正体など、事件の真相以外にも魅力のあふれる物語です。

 駒場キャンパスにはⅠとⅡがあります。今回物語散歩したのはⅠの方です。

 作者は東大出身。あとがきによると、登場する建物・施設は一部を除き、当時実在したものだそうです。作品には駒場キャンパスの地図がついていますので、現在の様子と比較しながら歩くことができます。特にかつての学生寮のあたりの変化は顕著です。

 

日本近代文学館と『言霊』

 ここまで来たなら、少し足を伸ばして、目黒区駒場にある日本近代文学館にも行ってみましょう。1967(昭和42)年の開館です。展示を見るというより、中原文夫のホラー小説「言霊」(2000・平成12)の大事な舞台である、という視点での訪問です笑。なので、中には入りません(!?)

    

 52歳の谷川茂雄は歌人。祖父の代からの歌誌「流星」もちょうど百周年だそうです。

 茂雄はマルチな活躍をしている人物で、ある夜、ゲストで報道番組に出ました。話の聞き役は内藤佐知子という30歳の女性キャスター。妻と死別した茂雄と佐知子とは深い関係にありました。

 ところが、この番組の中で佐知子が急死します。爆死したように姿がこっぱみじんになるという死に方でした。

 同様の奇怪な死亡事件がまた発生します。亡くなったのは、やはり茂雄と男女の関係にあった女性。茂雄もその時彼女のそばにいました。

 警察によれば、被害者の周辺に不審な痕跡は認められなかったそうです。ただ、茂雄は、事件発生の直前、謎の人影が被害者女性の背後に現れたのを目撃しています。短歌が詠み上げられた後に悲劇が起きたことも共通です。

 茂雄の父・浩一郎も歌人ですが、現在認知症です。ある日茂雄は浩一郎が部屋で誰かと大声で話しているのを聞きました。近代文学館に行くように言っています。茂雄はその話しぶりが妙にリアルなので気になりました。

 謎の死亡事件はさらに続きすが、時折しっかりした意識の戻る浩一郎が茂雄に手がかりを与えます。どうやら一連の事件は歌誌「流星」の古い号に何かの関係があるようです。事件を引き起こしている凶悪なパワーはどこから来るものなのでしょうか。

      

 物語のクライマックスに日本近代文学館の詳しい描写があります。20年近く前の小説ですが、不思議な現象の起こる建物前の広場をはじめ、「あ、ここのことだ」と確かめられるところが多く存在しています。