曙橋から新宿への物語散歩です。

2018年11月23日に実施しました。都営新宿線曙橋をスタートし、新宿駅方面に歩きます。西口にそびえる高層ビル群を抜けて、その先の新宿中央公園と熊野神社を目指します。

アニメ「君の名は。」が大人気であることを考え、須賀神社に〈聖地巡礼〉するというオプションをつけました。「巡礼」希望者は1時間早い集合となります。でも殆どが参加しました。さすが大人気のアニメだけあります。参加者はわいわいとそれは楽しげに、アニメの場面とほぼ同じ場所を発見しては写真におさめていました。天気にも恵まれた1日でした。

曙橋駅から地上へ

駅名の曙橋とは陸橋の名前です。地上に出ると端の裏側部分が見えます。地形的には地上に出た場所が谷に相当し、橋のたもとが高台になっている訳です。曙橋は外苑東通りが靖国通りをまたぐ、その場所に架かっています。曙橋の東北側は市谷本村町、防衛省や警視庁の施設があります。一方、曙橋の南には荒木町という、かつて花街として賑わっていた街があります。

 

 

その荒木町で起きた殺人事件を追う刑事の粘り強い捜査を描くのが、佐々木譲『地層捜査』(2012・平成24)です。

 

 1995(平成7)年10月23日の夜のことでした。殺害されたのは荒木町に建つアパートのオーナー。杉原光子という70歳の独身女性です。捜査は難航を極め、捜査本部も解散しました。しかし、殺人事件の時効廃止により、再調査の命が下ります。担当することになったのが水戸部裕(みとべゆたか)という34歳の刑事です。対策室は市谷本村町の警視庁第四方面本部の中に置かれたので、物語の中で彼は曙橋を何度も渡っています。 

 

 

 被害女性・杉原光子の死因は腹部への刺し傷による失血。光子はかつて小鈴という名の芸妓でした。その後独立して芸者の置屋(芸妓を抱えておく店)を開業し、置屋を廃業してからは建物をアパートに改築、家賃収入で生活していました。土地の売却をめぐるトラブルの可能性も考えられましたが、結局捜査は行き詰まったままとなっていました。水戸部は荒木町の今昔には詳しくありません。相談役として彼に同行することとなった元刑事の加納は四谷(若葉1丁目)の出身で土地勘があります。加納や荒木町で店を開く人々から街の情報を得ていき、しだいに彼は一つの可能性に目を向けていきます。

 住吉町を歩きます

 曙橋駅があるのは新宿区住吉町です。この町名は町内居住者から名称を募集した結果定められました。「住みよい町になれ」という願いがうかがえます。他に吉野町や幸町という候補もありました。

 山口恵以子『あなたも眠れない』(2014・平成26)の七原慧子は、この住吉町で生まれ育ちました。町名の変遷や、現町名の由来についてもちゃんと心得ています。

 

 婿養子を迎えて2人の娘にも恵まれ、幸せだった彼女を不幸が襲います。飛行機の墜落事故。彼女1人だけ助かり、家族はみな亡くなりました。彼女自身も眠れない苦しみに常時さいなまれます。

 眠りを取り戻そうとした彼女は、ある確実な方法を見いだしました。誰かの秘密を握って脅迫し、眠れなくなるほどの不安を与えること。その人の不眠とは逆に、慧子は深い眠りを得られるのです。

 

 慧子は銀座の高級クラブで会計係として雇われます。後ろめたい秘密を持つ者を見つけるには絶好でした。墜落事故以来、慧子は人格が変わっています。相手が誰だろうと脅迫状を送るのにためらいはありません。

 

 慧子を慕うホステスがいました。源氏名は繭。慧子は繭と秘密の関係を持った男性をターゲットにしており、繭に対して親切にしますが、繭は慧子の本心に全く気づかず素直です。ただ、繭の素直さに触れても、慧子の心はあくまで冷ややかでした。

 

 繭には深い交際をしている男性がいました。遠藤と言うカメラマンです。彼は自分の名を売るきっかけとしてスキャンダル写真に手を染めました。狙うはある政治家です。繭にも協力を要請しました。ところが遠藤は謎の死を遂げ、重要参考人として行方を捜索されていた繭は、何故か慧子の家で扼殺死体となって見つかりました。慧子にもただならぬ事態が起ころうとしています。

 暗闇坂にて

 曙橋を背中にして、靖国通りを西に向かうことにしましょう。ちょっと歩いた左側に、階段状になった坂が見られます。段を上りきったところに案内表示があり、この坂は「暗闇坂」というのだ、と教えてくれます。「くらやみ坂」の名を持つ坂は東京に知る限りで6つはあります。昔の江戸がいかに暗かったかがわかります。

 

 この暗闇坂が出てくるのは、京極夏彦『絡新婦(じょろうぐも)の理(ことわり)』(1996・平成8)です。

 

 連続女性殺人事件が起こります。被害者は一様に目を潰されているという猟奇的なものでした。4人目の被害者は四谷の連れ込み宿の離れで殺されました。名前は前島八千代。日本橋の老舗呉服問屋の若奥様でした。「蜘蛛の使い」と名乗る男が妻の前に現れ、夫に内緒で2人は不審な行動をとります。夫は妻の持ち物を調べ、2人をつけて密会の場所に行きます。それが、この暗闇坂でした。

 

 小泉八雲旧居跡

 今、成女学園という私立学校になっているところに、小泉八雲の住居がありました。成女学園の正門横にそれを示す石碑が建っています。でも、高いところにある上、学校の敷地内になっているので、ちょっと見にくいですね。新宿区の史跡案内の説明を見て我慢しましょう。 

 

伝説があります

八雲旧居跡の碑があるすぐ手前、靖国通りから上っていく急な坂があります。そこを上った右手にあるお寺は自証院と言います。

 天台宗のこのお寺は、寛永17年の創建。(その時には日蓮宗のお寺でした。)明治時代には牛込区内第一のお寺だったそうです。堂宇の建築に使用した材木に節目が多く、来た人の目にはごつごつとした瘤に見えて奇異であったことから、誰いうとなくこの寺を「瘤寺」と呼ぶようになりました。もっとも、その奇観を誇ったお堂も、戦災をくぐり抜けられず、焼失。お堂は再建されたものの、瘤は見られません。

 このお寺の境内に繁る木々や墓地の静寂さを小泉八雲は非常に好み、毎日のように散歩したそうです。八雲の葬式も、この寺で営まれました。

 

 

この自証院の付近は化蜘蛛の伝説が残るところです。

 渡辺綱という平安時代の武士がいました。武勇に優れ、源頼光に仕えて、「四天王」の一人として活躍した人です。京都一条戻り橋での鬼退治を初めとして、いろいろな伝説を持っていますが、この人、港区の三田に住んでいたという伝承もありました。

 昔の自証院境内はもっと広くて暗く、しかも境内には化け物が住んでいて、通行人の女をさらっていきました。そのことを聞いた渡辺綱は、化け物を退治してくれようと出かけ、かつらと薄化粧で女に化け、妖怪の出現を待ちました。

 林の前の一本の大木の傍を通り過ぎようとすると、上から一本の紐が降りてきて綱の体に巻き付き、大木の上に引き上げます。

 綱は少しも騒がず、化け物と思われる黒い塊のそばまで近づくと、体に巻き付く紐を振り切り、枝に立ち上がって懐に忍ばせていた刀で斬りつけました。

 化け物は地響きを立てて地面に落ちましたが、綱がとどめを刺そうと下に降りてみると、すでにどこかに行ってしまったあとでした。

 逃がしてはならじと近所からたいまつを借りて地面を照らすと、そこには血の痕がてんてんと続いています。それをたどっていくとやがて一つの塚のところに行き着きました。

 翌朝、村人と共にその塚を掘ってみると、体長2㍍近い大蜘蛛が死んでいました。いままでのことはこの蜘蛛の仕業でした。

 人々は化け物が退治されたのを喜びました。

 不思議はこれで終わりません。蜘蛛の死体を掘った穴から清水がこんこんと湧き出してきました。人々は疲れをいやそうと、その水を飲みました。ところがその水を飲んだ人は次々と苦しんで死んでしまいました。

 それからはこの清水のわく穴を「くもの井戸」と名付け、毒泉として恐れたということです。

        (『新宿の伝説と口碑』1968・昭和43・新宿区教委 より要約)

 

 その井戸の跡は今の自証院の道を隔てた向かい、成女学園と富久小学校との間あたりだということです。 また、渡辺綱が蜘蛛を切った場所は、この近くだったそうで、その場所は「蜘切坂」と呼ばれているとか。

 

ただ、その蜘蛛切坂、正確な場所はちょっとはっきりしません。成女学園の西にある、現在の「禿(かむろ)坂」の別名だという説もあります。自照院のある急な上り坂に、かfつて「蜘切り坂」と書かれた標柱が立っていたこともあります。もちろん元々が伝説ですから、正確な位置を探るのはあまり意味がないでしょう。伝説の面白さに興味をおぼえてくれればそれで良いです。そんな伝説があるくらいですから、かつてはこの周辺、相当うっそうとしていたのでしょうね。  

 

 

 「禿坂」という坂も、何やら怪しげです。新宿歴史博物館の「新宿の坂」という資料を見ると、「かむろは河童の意で、河童が化けた坂」などど書かれていました。

 

 町名としての新宿に入ります 

 靖国通りから左に入ります。新宿1丁目へ。花園通りを入ってすぐ左手には、花園小学校があり、南側に花園公園が見えてきます。花園公園は、この小学校と校庭を共有する形になっていて、ちょっと不思議な感じです。

 この花園公園の片隅に、明治の大落語家・三遊亭円朝の旧居跡を示す碑が建っています。円朝は、当時最も売れていた落語家で、芝居話や怪談話で一世を風靡しました。カランコロンと下駄の音をさせて恋人の所にやってくる幽霊・お露さんの登場する『怪談牡丹灯籠』(明治17・1884)は、特によく知られています。 

 

内藤新宿にて

 太宗寺(たいそうじ)は新宿にいるのを忘れるほど大きな境内を誇る寺です。このお寺で忘れてならないのが門を入って右側のお堂です。この中には閻魔様と奪衣婆(だつえば)の像が祀られています。奪衣婆(「脱衣婆」とも記します)というのは、三途の川のほとりにいて、死者の衣服をはぎ取るという恐ろしい老婆のことです。奪衣婆像ができたのは明治に入ってからですが、かなり迫力のある姿です。

 閻魔様も迫力満点。文化11(1814)年に安置されたものですが、震災で破損し、当時のままのものは頭部だけだそうです。巣鴨の善養寺と並び、東京の二大閻魔像と言われています。

 

 この閻魔像は俗に「つけひも閻魔」と言われます。

 

 境内で子守をしていた乳母が、子供が泣きやまないので「そんなに泣くと閻魔様に食べさせてしまいますよ」と、閻魔の口の方に子供を持っていった。ところが、閻魔は子どもをひと呑みにしてしまった。閻魔の口には子どもの紐だけが下がっていた。乳母は申し訳がなく、主家に帰れずついに境内の井戸に投身したという。(前出「新宿の伝説と口碑」)

 

 一説に拠れば、子どもを呑んだのは閻魔ではなく奪衣婆の像のほうだったということですが、両方の像とも伝説にふさわしい迫力で我々に迫ってきています。

 

 この、「奪衣婆が子を呑んだ」という伝説を下敷きに作られているのが、物集高音『大東京三十五区 夭都七事件』(2002・平成14)です。昭和初年の東京を舞台に、帝都で起こる不思議な事件の解明をしていくという物語で、主人公は阿閉万(あとじよろず)という雑誌記者です。早稲田鶴巻町に住む「縁側探偵」真直瀬玄蕃(まなせげんば)の知恵を借りて、事件の謎を解いていきます。この奪衣婆の話は、「其ノ五 子ヲ喰ラフ脱衣婆」に出てきます。

 

 五歳になる女の子が、太宗寺の境内でお兄ちゃんと一緒にかくれんぼをしています。ところが、オニになった少女の目の前で、お兄ちゃんが消えてしまいます。でも彼女はあわてません。隠れ場所に確信があるのでしょう、なにやら嬉しそうに閻魔堂の扉を開けて中を見ました。

 ところが中は大変なことに。血でしょうか、一面にどす黒い液体が飛び散り、奪衣婆の口からは黒っぽい兵児(へこ)帯のような代物がだらりと垂れ下がっています。

 

 太宗寺の境内入ってすぐ右に、大きなお地蔵様の座像があります。これは、江戸六地蔵の一つで、正徳2年(1712)建立の大きな座像です。江戸六地蔵は、深川の地蔵坊正元という僧の発願により、各街道の入り口にそれぞれ置かれたものです。自伝的要素の強い夏目漱石『道草』(1915・大正4年)の中に描かれていることはよく知られています。

 

 また靖国通りに出ます。新宿2丁目です。通りに面して二つの寺院が隣り合っています。東側のお寺正受院に入ると、すぐ右手に可愛いお堂があります。このお堂の中にも奪衣婆の像が安置されています。中を覗けるので見てみましょう。綿を頭にのせた老婆の像が見えると思います。このお寺の奪衣婆は江戸時代初期の作と言われ、当初は咳止めや子供の虫封じに霊験あらたかとされましたが、後に諸病、金銭の願掛けなど様々の願をかなえてくれるということで、多くの参詣者を集めました。賽銭をあげる人が寺から溢れるほどの賑わいを見せ、寺社奉行がこれを邪教として禁止したこともあったそうです。

 

 

 

 隣のお寺は成覚寺といいます。このお寺の境内に、恋川春町の墓があります。江戸時代中期の戯作者・狂歌師で、本名は倉橋格といい、静岡県の生まれです。上京して小石川春日町に住んだので、筆名を春町としました。戯作というのは、簡単に言ってしまうならば娯楽小説のことです。そのうち絵を中心にした絵本を草双紙と呼びました。恋川春町自身が文章を書き、絵まで描いたところの、『金々先生(きんきんせんせい)栄花夢(えいがのゆめ)』(1775・安永4)という作品は、絵本ですが大人を読者対象とし、世相・風俗を機知的に風刺したもので、草双紙を文学に高めたという評価を受けています。この本は表紙が黄色かったため、これ以後の草双紙を「黄表紙」と呼びました。

 

 恋川春町のお墓に並んで、通称「旭地蔵」というものがあります。この地蔵の台座の下部には、18名の男女の戒名が刻んであります。このお地蔵さまは1800(寛政12)に、玉川上水に入水した人たちの供養に建てられたもので、男女ペアで刻まれている7組は、心中した人たちであると言われています。

 

 内藤新宿は文字通り宿場町ですから、当然たくさんの旅籠ができました。旅籠は旅人の様々なニーズに応えます。性的欲望のはけ口を求める客も多かったのでしょう。「飯盛女」という名称で、雑用もするものの、売春をも行う、という女性が置かれました。多くは家が貧乏で売られてきた女性たちでした。当然労働は過酷なものになります。体をこわして亡くなった女性も多かったことでしょう。 

 この成覚寺はかつて「投げ込み寺」といわれ、年季途中で亡くなった飯盛女を弔ったところでした。

 この寺にある「子供合埋碑」は、亡くなった不幸な飯盛り女たちを慰める為に建てられた供養碑(1860年・万延元年造立)です。「子供」というのが飯盛女・遊女のことで、これは、遊女とは抱え主の子供である、という考えからきているそうです。

 

 そしてもう一つ、このお寺には「白糸塚」と呼ばれるものがあります。この塚には、ある男女の悲話に関係して造られたものです。

 時は江戸時代、内藤新宿にある橋本屋という店の遊女・白糸と青山に住む侍・鈴木主水(もんど)とが情死をしたそうです。

 この心中事件を下敷きに俗謡や歌舞伎の演目が生まれ、大流行します。それぞれ微妙にストーリーが異なりますが、今その一つを要約して下にあげておきます。

 

 白糸と主水との関係に悩む妻の「お安」は、夫に意見しますが聞き入れられず、思いあまって男の姿に身を変え、白糸に直接頼みに行きます。白糸は主水が妻子持ちであることを初めて知らされて大いに驚き、お安の気持ちをくんで主水と別れようとします。ですが、白糸に惚れ込んでいる主水は、白糸の話に耳を貸しません。ついにこのことが藩に知られ、主水は扶持を召し上げられてしまいます。お安は二重の悲しみにうちひしがれ、ついに子どもを残したまま自害してしまいました。それを聞いた白糸も、お安に申し訳が立たないと自らの命を絶ちます。そして、鈴木主水も二人の後を追うように割腹自殺を遂げるのです。

 

 

 新宿3丁目

 新宿3丁目に入ります。ここで紹介したい場所は新宿末広亭です。

 浅草・上野・池袋・新宿と、都内に4カ所ある落語の定席の中でも、新宿末広亭は最も古風で味わい深いたたずまいを見せています。

 昭和の時代、名人と言われた落語家の一人に8代目桂文楽がいました。杉村顕道「ウールの単衣を着た男」(1962・昭和37)では、その文楽の高座から物語が始まります。これもコワ~イ物語です。

 

新宿3丁目交差点にでましょう。目の前にはアールデコ調の装飾を持つ伊勢丹新宿店がそびえています。1933(昭和8)年完成のこの建物、どっしりとしたたたずまいはやはり格別です。

 

 伊吹有喜『BAR(バール)追分』(2015・平成27)で、タイトルとなっている店に行き着くための大きな目印が伊勢丹新宿店です。そのため伊勢丹の名は小説に何度も出てきます。また、その売り場は登場人物たちの話題にもなっています。 

 

新宿駅が近づいてきました。

花園神社は新宿の総鎮守です。寛永時代までは現在の伊勢丹の場所にありましたが、その後この場所に遷りました。以前は「稲荷神社」と称していました。花園という名は、社地が尾張藩下屋敷の花園であったという伝承に依るもののようです。社殿は1965(昭和40)年に建てられました。

  

 

 浅田次郎『鉄道員(ぽっぽや)』(1997・平成9)の表題作は、高倉健主演で映画化されましたし、小説集の中の「角筈(つのはず)にて」という作品もドラマになりました。この「角筈にて」に花園神社が出てきます。角筈というのは、このあたりの旧地名です。

 

  

 花園神社本殿左手の階段を下りて「新宿ゴールデン街」へ。最近は飲み屋さん以外の店も現れていたり、初めての人でも入りやすいように工夫したりと、かなり門戸が広くなったように思われます。24時間営業のラーメン専門店もあります。

 

 新宿ゴールデン街は、作家・文学者との縁も深く、「物語散歩」としてそそられるエリアです。

 辻真先はゴールデン街に「蟻巣(ありす)」というスナックを設定し、小説の中に登場させていますが、『残照 アリスの国の墓誌』(2016・平成28)で、その店がついに閉められることになってしまいました。

 

新宿西口へ

 大ガードから新宿西口に出ます。目を奪われそうな摩天楼群がそびえています。ここは以前、淀橋浄水場があったところです。かつて正門があった場所は新宿エルタワーの前で、記念碑が建っています。

 

 さてその新宿エルタワー。切り立った崖を連想させるような独特の外見をしています。

 

 新宿エルタワーの23階にハローワーク新宿の西新宿庁舎があります。岡崎大五『北新宿多国籍同盟』(2010・平成22)の冒頭に、ここを訪れる主人公・児玉翔(こだま・かける)の姿が描かれていました。

 

 新宿エルタワーの足下の植え込みに「策(むち)の井」跡があります。徳川家康が鷹狩りの際にこの水でむちを洗ったという伝承があります。かなり前、偶然このあたりを通りかかって案内表示を発見。その時にはまだ水が見られたような、かすかな記憶があります。

新宿野村ビルディング

 新宿野村ビルディングのすぐ下を通ります。このビルの入り口近くに、以前「ミニ・サンクチュアリ」という小さな森がありました。もちろん、森と言っても人工のものです。でも、けっこう鬱蒼としていて、ちゃんと「森」の雰囲気を漂わせていました。

 中村邦生「この道、通りゃんせ」(2006・平成18)では、この「森」が重要な役割を果たしています。

 

 秋の日、西新宿に数名の男女が集まりました。彼らは大学で同じサークルに所属した仲間たちです。卒業から40年ほど過ぎていますが、仲の良さは変わりません。その中の1人・平野耕司はこのあたりで幼少年期を過ごしました。これから彼の故郷をめぐるツアーが始まるという訳です。

 青梅街道に出て、街道沿いの成子天神社境内にある富士塚を目指します。その途中、平野は野村ビルの「ミニ・サンクチュアリ」に仲間を案内しました。この植え込みの中に近道があるのだそうです。

 その近道というのは何やら不思議な空間でした。どこか現実と異なっているのです。やがて到着した富士塚も、なぜか本物の山のような険しさす。

 植え込みの中に広がっていた空間は、どうやら平野の記憶の中の世界であるようです。彼らは異次元に存在する新宿の街を歩き続けているのでした。

 

 

 この物語では、西新宿にかつてあった「策の井」や、神田川に架かる淀橋などに関する伝説(後述)も語られていますので、物語散歩にはうってつけです。

 

新宿三井ビルディング

 野村ビルの斜め向かいは新宿三井ビルディングです。黒が基調のこのビル、シックながら洗練された雰囲気が感じられます。新宿を舞台にした作品を多く出している菊池秀行の作品から一つ紹介します。『東京鬼譚』(1992・平成4)という作品があります。SFではなく、都内の各所を舞台に設定した幻想小説です。その中の「墓碑銘」を。

 

 「私」の妻祥子は不思議な女性で、一緒に生活していながら「別のところ」にいつもいるようで、彼女自身も他の人とは違うと意識しています。そういう彼女の前に、彼女と同様の雰囲気を持つ若者が現れます。二人とももちろん生きています。しかし生死とは別の世界に生きているのです。そして二人はある日「私」の前から姿を消してしまいました。どこに行ったのか。彼らの住む世界はどこにあるのか。「私」はかつて祥子を尾行したことがありました。その時彼女は新宿西口の高層ビル街で若者に会ったのです。 

 

「私」はまたそこに行ってみました。そして、彼は三井ビルの近くで重要なものを見つけました。

 

 

京王プラザホテル

 山内マリコ「東京23話」(2015・平成27)の中心は23の短い物語。東京23区の全てが取り上げられています。ユニークなのがストーリーの語り手たちで、多くは「区」自身が自らの区についての物語を語るという形になっています。それぞれの区の話題は様々。人物であったり庭園であったり団地であったり。

 その中で、新宿区に関する章の語り手は「区」ではなく京王プラザホテルでした。

 

 淀橋浄水場の敷地を利用して、西新宿に次々と高層ビル立ち並んでいきます。1971(昭和46)年完成の京王プラザホテルはその先頭。先輩の立場として、自分よりもノッポの後輩ビルが現れていく様子を、後輩ビルたちの言葉をも交えながら語っていきます。

 

 彼に続く後輩は新宿住友ビルディング。三角柱の形が個性的です。先輩として温かく迎えたのですが、帰ってきたあいさつはかなりぶっきらぼうでした。シラケ世代なのかな、と想像します。でも実はやはりそれなりの理由があったようです。

 

 この作品には、23区以外に武蔵野市や東京都が語るという章も「特別収録」として入っています。内容も本編に負けず劣らず面白い。 

 

新宿住友ビルディング

 西新宿ビル群の中の「三角ビル」といえば、「ああ、あれね」とすぐに思い浮かぶ人も多いでしょう。先ほどの『東京23話』の中でも出てきた新宿住友ビルディングです。1974(昭和49)年の完成。残念ながら2017(平成29)年3月に閉鎖されてしまいましたが、このビルには無料展望室が存在していました。そこが出てくるのが笹本祐一の「妖精作戦PARTⅢ カーニバル・ナイト」(1985・昭和60)です。

 

 榊裕(さかき・ひろし)は全寮制の星南学園男子部に在籍する高校2年生です。彼が交際している女子部の小牧ノブの「超高層ビルで陽が沈むところを見てみたい」という要望をかなえようと、2人で新宿に向かいました。迷いながらなんとか日没前にここの展望台にたどりついたようです。

 

ヒルトン東京

 この先、道の左右に有名なホテルが、そのどっしりとした姿を現します。左手がハイアットリージェンシー東京、右がヒルトン東京。2008(平成20)年までは東京ヒルトンと言っていました。永井するみ「プレゼント」(2001・平成13年)描かれるのは、東京ヒルトン時代のこのホテル。場所は1階のティールームです。

 

新宿中央公園へ

 ビル群の先は、新宿中央公園という大きな公園となっています。この公園の北側に、太田道灌と美少女・紅皿との出会いの場面を描いた彫刻「久遠の像」が置かれています。

 第41回江戸川乱歩賞受賞・藤原伊織『テロリストのパラソル』(平成7・1995)の冒頭、爆破事件が起こるのが、この中央公園でした。

 

 

 学生運動をしていた時の爆弾事件が元で、身を隠し続けている元東大生の主人公「私」。今は中年のバーテンです。ある晴れた日の朝、この公園の入り口近くにある枯れた芝生で日なたぼっこしようと横になりました。そんな彼の目の前で爆発が起こり、彼の元恋人と、彼の元友人で爆弾事件の張本人であった男が殺されます。「私」自身は指紋をその場所に残してきたために、容疑者として追われてしまいます。いったい真犯人は誰か。また、その場にいて爆死した二人と爆破事件との関連は何か。というのが読みどころの小説。

 

もう一つ、新宿中央公園が何度も描かれる小説を。伊岡瞬『ひとりぼっちのあいつ』(2015・平成27)です。

 

 桜の花の頃です。25歳の宮本楓太は、この公園にある「新宿ナイアガラの滝」近くで仕事をさぼって休んでいました。

 向かいのベンチには40歳前後の男が、炊き出しでもらったと思われるうどんをすすっています。直後、楓太は奇妙な光景を目にしました。男のうどんに入っていた天ぷらが宙に浮いているのです。楓太は男が手品を使っているのだろうかと考えました。

 実はそれは、その男の持つ不思議な力による現象でした。男の名は大里春輝(はるてる)。

 

 空中に物体を静止させる能力です。静止させられるのは軽い物に限りますが、それでも普通の人にはない、れっきとした超能力です。それを春輝は小さい頃から身につけていました。小学4年の時、ある理由によりその力を友人に見せたその日から、彼の人生には孤独の影が忍び寄っていきました。新宿中央公園は、そんな彼の人生に関係が深い場所となります。

 

十二社熊野神社

 中央公園の奥は、熊野神社となっています。社伝によれば、応永年間(1394~1428)に地元の長者によって創建されたもので、江戸時代には熊野十二所権現と呼ばれたそうですが、普通は「十二社(じゅうにそう)」と呼んでいます。「十二社熊野神社」とも呼ばれますね。

 もう今は跡形もないのですが、江戸時代には、この神社の近くに大きな滝があって、名勝となっていました。残念ながら滝はとうの昔に失われています。

 その滝を舞台の一つにしたのが、先ほど旧居跡を訪ねた三遊亭円朝の落語『怪談乳房榎』(明治21・1888刊)です。この大滝に男性の幽霊画出現します。 

 

真梨幸子「鸚鵡楼の惨劇」(2013・平成25)にも、この熊野神社横に滝があったと描かれています。時は1962(昭和37)年。小学6年生だった「僕」の遊び場の一つです。もっとも「僕」が「ドウドウ滝」と呼ぶこの滝の正体は、どうやら排水路のようですが。

 

 「僕」の家は、熊野神社近くで洋食屋を営んでいました。店の出前先の一つに「鸚鵡楼」という料亭がありました。花街の中にある店です。花街とは何なのか、「僕」にはよくわかりませんが、何かそこに秘密めいたものが存在することは察していました。

 

 「僕」がその夜、出前を持って行った先は芸者置屋。2階にある芸者の部屋まで持って行きました。そこは鸚鵡楼のすぐ裏。彼は直後、見てはならぬものを見てしまいます。それは鸚鵡楼の一室で行われていた情事。女性はまだ子供です。それは間違いなくこの芸者置屋に住んでいる同級生のミズキでした。

 あまりの衝撃に彼は目をそむけられません。「花街」の秘密を知らされた一夜となりました。

 その少し後でした。鸚鵡楼で3人もの死体が見つかった事件が起きたのは。 

 

十二社の池跡

熊野神社の西は崖になっていて、下に下りられます。そこに「十二社池の下」というバス停があります。十二社は熊野神社のことですが、池というのはかつてこの付近にあり、景勝地としても知られた大小二つの池のことと思われます。

 大沢在昌『新宿鮫 風化水脈』(2000・平成12)では、主人公の刑事・鮫島は自動車の窃盗団を追っています。組織的な窃盗で、盗んだ車は海外に輸出されるようです。高級車ばかりが狙われ、特に新宿は他の地域に比べて被害が集中していました。盗んだ車を運び込む場所が、どこか近くにあるはずだと鮫島はにらみました。偽造ナンバーに付け替える等の細工をして、その後の移動における危険度を下げる、そんな作業をする場所です。やがて鮫島は、かつて十二社池があったという地の近くに可能性のある場所を見つけました。

 

 

 この作品では、十二社の池を初め、新宿の歴史が多く語られています。池が存在した頃からあったという家が描かれますが、実際に西新宿4丁目を歩くと納得できます。

 

都庁舎 

 さて、ひときわ異彩を放つ都庁舎のビルを眺めましょう。丹下健三設計になる東京都庁舎、特に第一本庁舎の双頭のフォルムは実に個性的です。この外見は、あるいは2本の角を持った鬼を連想させるかもしれません。そして、荒俣宏のシム・フースイシリーズ3『新宿チャンスン』(1995・平成7)では、強力な鬼神がこの地に出現します。 

 

 新都庁舎の着工は1988(昭和63)年4月ですが、作品の舞台になっているのも着工間もない頃の新都庁舎建築現場です。

 

コクーンタワー

 新宿中央公園から再度高層ビル群を眺めると、ひときわ目立って見えるビルがあります。平成20(2008)年10月完成の「コクーンタワー」です。最も個性的と言えるのではないでしょうか。学校法人モード学園が運営する3つの専門学校(東京モード学園・HAL東京・首都医校)の総合校舎ですが、その外見は確かにコクーン(繭)を想像させます。誰もが納得する名称です。 

 

 神永学「天命探偵 真田省吾」シリーズの2作目・『スナイパーズ・アイ』(2009・平成21)に描かれるコクーンタワーは完成前のものですが、物語の中で大変重要な役割を担って登場します。

 

淀橋浄水場跡ふたたび

 新宿中央公園の南側に六角形の屋根を持った建造物があります。「六角堂」と呼ばれていますが、これは先ほど説明した淀橋浄水場の中にあった四阿(あずまや)です。浄水場のあった時代を今に伝える貴重な建物となっています。また、六角堂の足下に使われているレンガの飛び石も、淀橋浄水場に使われていたレンガを再利用したものだそうです。

 三木笙子『竜の雨降る探偵社』(2013・平成25)の第二話「沈澄池のほとり」にこの六角堂が描かれています。この章は、かつての淀橋浄水場が重要な舞台となって展開します。