浅草六区周辺散歩

金竜館跡と「くれなゐの紐」

 新仲見世を抜けましょう。出た先は、最も浅草らしい地域、いわゆる「六区」といわれる場所です。

 現在ROX・3Gがある場所に、かつて金竜館というオペラ常設館がありました。1922(大正11)年には「カルメン」の上演で成功を収めました。

 

 須賀しのぶの小説「くれなゐの紐」(2016・平成28)にもその頃の金竜館が描かれています。

 

 15歳の鈴木仙太郎は福井から上京し、浅草にやってきました。目的は姉捜し。姉は祝言直前の夜に投身自殺したことになっています。ただ、姉は身投げなどせず、この浅草にいるのではないかという情報を仙太郎は得ていました。姉の「自殺」は、彼の家族にも大きな不幸をもたらしています。もし姉に会えるなら、失跡の理由追及とともに、その恨みも言いたいと仙太郎は考えています。

 

 少年がたった一人、六区で生き抜くには、手段を選んでいる暇はありません。仙太郎は女の姿をしてスリをはたらきます。 ある日の金竜館でのスリ行為がきっかけとなり、彼は六区最大の少女ギャング団「紅紐団」の団長・操と出会いました。

 操と話すうち、彼女は姉について何か知っているという手応えを得ました。仙太郎は操にさらに接近すべく、入団を願い出ます。もっとも、女の姿でスリをしているとはいえ、しょせんは男。入団の審査はかなり厳しそうです。

 

 紅紐団は厳しい縦社会の集団です。年齢をはじめ謎だらけの操以上にやっかいなのが副団長の倫子(ともこ)。彼女の延々と続くお説教は、聞いているうちに心が折れそうになります。その他、ひと癖もふた癖もある連中に囲まれ、仙太郎が当初の目的を果たすことができるのか気になるところですが、物語はさらに思わぬ展開を見せていきます。

 

 物語の中に何度もその名が記される金竜館ですが、関東大震災で大きな被害を受けてしまいました。復興するも、戦後すぐに名前が変わり、現在では浅草でその建物を見ることはできません。

 

六区の観覧車と「人魚は空に還る」

 その金竜館のあった場所ですが、さらに時代をさかのぼると、そこに観覧車があった時期がありました。上野で1907(明治40)年に開催された東京勧業博覧会の会場に設置されたものが、博覧会の終了後、ここに移動して営業しました。三木笙子の小説『人魚は空に還る』(2008・平成20)によれば、約10人が収容できる客車が18台ついていたそうです。

 

 さてその『人魚は空に還る』ですが、明治の東京を舞台にする物語で、中心人物は里見高広と有村礼という2人の青年です。高広は京橋区(現在の中央区)にある至楽社という小さな出版社の編集者兼記者です。本人は口にしたがりませんが、幼くして両親を失った彼を引き取って育てた義父は、時の司法大臣・里見基博です。一方の礼は至楽社が発行する雑誌「帝都マガジン」に挿絵を載せている天才絵師です。得意とするのは美人画ですが、彼自身の顔立ちも描く美人以上の美しさです。礼はコナン=ドイルのミステリーが大好き。ただ、この時代にまだ翻訳が出ていません。礼は英語ができる高広に訳して聞かせてもらっています。気むずかしいという世間の評価を受けている礼ですが、高広には全く別の顔を見せます。

 ある時、六区の興行街に人魚を目玉の出し物とする見世物が掛かりました。ひと目人魚を観ようというお客が殺到し、小屋は連日の大盛況です。越後出身の「蝋燭座」という一座です。団長以外はみんな子供ですが、全員が全員、仮面を着けていて口以外は顔立ちがわかりません。そのため、出し物もまるでからくり人形が動いているようです。

 高広と礼は人魚を近くで見る機会を得ました。上半身は痛々しいほどやせた子供です。名を「しずく」というのだそうです。

 浜に打ち上げられた人魚を助けた貧しい蝋燭売りの老夫婦。恩返しをしようとする人魚。老夫婦を不幸が襲い、高利貸しに借りたお金を返せず、見世物小屋に売られる人魚……。小屋で上演されるのはこのようなストーリーでした。人魚は美しい声で、この物語を歌います。

 

 この人魚が大変な高額で売られるという情報が入ります。買い取ったのは大富豪の奥方。いよいよ引き取られるという時、人魚は、座長への最後のお願いとして、「しずくは観覧車に乗りたい」と言い出しました。

 このあと不可思議が起こります。

 物語には高広の知人として、小川健作という長身の新進作家も登場しています。

 

浅草演芸ホールと『異人たちとの夏』

 六区ブロードウェイ商店街を歩きます。左手に見える浅草演芸ホールは落語の定席(じようせき)です。ほぼ年中無休で落語を聞くことができます。山田太一の小説『異人たちとの夏』(1987・昭和62)の中で、主人公の原田英雄が浅草演芸ホールに来たのは8月、48歳になった日のことです。

 

 彼はこの時、かなりの空虚感に襲われていました。妻と離婚したことに加え、十年来の仕事仲間が、ある重大な理由から彼に絶交を告げたからです。生まれた場所でもある浅草で、彼は心の癒しを求めようとしました。

 寄席の中で、彼は1人の男と知り合いました。英雄よりも若いその男は、彼を年下扱いにします。そんな扱いを受けても英雄は不思議と腹が立ちません。それどころか、まるで自分の父親に会っているかのような気になって、嬉しく感じます。

 英雄の父母は彼が12歳の時に交通事故で亡くなっています。父は浅草の隣・田原町に住む寿司職人でした。

 

 男は自分のアパートに英雄を誘います。それは田原町にありました。また、英雄を迎えた男の妻は、英雄の記憶にある母その人でした。

 死んだはずの父母が目の前にいる。幻なのでしょうか。でも確かに彼らはそこにいるのです。困惑はするものの、自分を我が子として歓待する彼らの暖かい心が忘れられず、田原町のその部屋に英雄は何度も足を向けます。

 彼らとの交際は、やがて英雄の外見に不吉な変化をもたらしました。英雄は、彼らと別れるか命を失うかという選択を迫られます。

 

瓢箪池跡と「下町アパートのふしぎ管理人」

 浅草公園を整備する過程でできあがった人工池が「瓢箪池」です。池はとうの昔に埋め立てられ、今はJRAの場外馬券売場になっています。

 

 大城密「下町アパートのふしぎ管理人」シリーズは、現代を舞台にした物語ですが、その第2作(副題「浅草六区には神様がいる」〈2017・平成29〉)には、瓢箪池の神が登場します。

 

 神様は言いました。瓢箪池の記憶が人々から薄れていっている現在、神としての自分の力もこの上なく弱まっているのだと。人から忘れられると、神も死ぬのだそうです。瓢箪池の神は、自分の死が間近だと悟っています。彼は死ぬ前に、自分の望みをかなえてほしいと、物語の主人公に頼みました。

 

 物語の主人公はフリーカメラマンの若者・泉岳喜市。彼は浅草にある「メゾン・シグレ」という古いアパートの住人です。彼は、ここの管理人の時雨霞に恋しています。

 喜市の幼なじみでもある霞は霊能力の持ち主です。彼女はその力を使い、浅草の街を魔物から守っています。霞の家はアパート以外に「時雨湯」という銭湯も経営していますが、これらの建物や銭湯の煙突も魔物との戦いにおいて重要な役目を持っているのだそうです。加えて、喜市を初めとするアパートの住人も、単なる偶然でそこにすんだわけではなさそう。

 さて、瓢箪池の神様の願いですが、一風変わったものでした。あるいは浅草らしいと言うべきか。この願いをかなえるためには、霞の協力が必要なようです。

 

新世界ビル跡と「百萬円煎餅」

 瓢箪池は戦災で大きな被害を受けた浅草寺再建の資金調達のため、1950年代初めに埋め立てられました。跡地にできた建物も変遷がありますが、「新世界」という複合娯楽施設は、屋上に塔を持ったユニークな外見でした。

 この新世界のビルは三島由紀夫「百萬円煎餅」(1960・昭和35)にも描かれています。

 

 主人公は健造と清子の若夫婦。「おばさん」との待ち合わせの為に「新世界」のビルに赴きました。約束は夜の9時です。しっかりとした貯蓄計画をして日々を過ごしている2人。ほのぼのとした語り口がとても好ましいです。ラストの「落ち」は非常に鮮やかです。

 

「十二階」跡と「押絵と旅する男」

 浅草の有名なランドマーク「十二階」があった場所、これまでは標示も何もない、ただの路地の一角でしたが、2017(平成29)年の2月、その跡地に建設工事が入った時、地下から大量のレンガが出てきました。もちろん「十二階」に使われていたものです。今さらながら「あ、ここは『十二階』の跡だったんだ」と気づいた人も多くあったようです。歴史的建造物のレンガが欲しいと集まった人も多くいました。2018年10月現在、在りし日の十二階を描いた絵が外壁に大きくデザインされたテナントビルとなっています。足元にはそのレンガが何個か敷石のように埋められています。

 

 この十二階ですが、正式名は「凌雲閣」といい、1890(明治23)年11月の開業で、10階までが八角形総煉瓦造り、11・12階は木造で展望台がありました。日本最初のエレベーターもありました。高さは52メートル。1923(大正12)年の関東大震災で崩壊するまで、長く浅草六区のシンボルでした。

 

 この「十二階」の展望台が重要な役割を果たすのが、江戸川乱歩の「押絵と旅する男」(1929・昭和4)でした。

 

 魚津で蜃気楼を見た帰りの車中で、主人公「私」は押絵を持った年齢不詳の男と出会いました。押絵には、着物姿の美しい女性と、その女性にしなだれかかられている男性とが描かれています。とても色気のある場面ですが、押絵の男性の顔は老いており、若い女性と釣り合いません。押絵を持った男は、「私」に奇妙なことを語ります。押絵の中の男性は、彼の実の兄であるというのです。なぜ人間が押絵の中に入ってしまったのでしょうか。

 この悲劇は、男の兄が十二階の屋上から遠眼鏡(とおめがね)で下を窺っている時に、ある美しい女性を見つけたことから始まりました。ついうっかりレンズから目を離した間に、女性を見失ってしまった兄は、それから十二階に日参し、幻の女性を探し出そうとします。

 ついにその女性を見つけ出すことができたのですが…。

 

「十二階」跡と『啄木鳥探偵處』

 十二階があったあたりは、いわゆる私娼窟と言われたところで、あまり良い雰囲気とは言えなかったようです。ここにあった私娼窟に足繁く通ったのが天才歌人として名が知られた石川啄木です。

 

 その石川啄木が探偵役を務める小説が伊井圭『啄木鳥探偵處』(1999・平成11)。郷里の先輩である言語学者・金田一京助をワトソン役に据え、探偵啄木が難事件を次々に解き明かしていきます。事務所代わりに使われるのが本郷弓町・喜之床の2階でした。実際に啄木が家族と共に住んでいた場所です。

 

 第一話の「高塔奇譚」では、夜の十二階の上層に妖しい人影がゆらめくという出来事が紹介されます。それは幽霊なのか? その話の真偽を確かめるべく、啄木は金田一を誘って、夜の浅草に歩を進めます。物語の語り手は金田一です。

 

 金田一や啄木の前に、不思議の影はやはり姿を現しました。啄木はいよいよ興味をひかれ、この謎を解くために行動を開始します。

 

楠木誠一郎作の『十二階の柩』

 楠木誠一郎『十二階の柩』(1996・平成8)の冒頭で、こんな内容が語られます。

 

 1910(明治43)年のことでした。凌雲閣を「亜細亜の曙」と名乗るグループが占拠します。その時、建物の中には20人ほどの客がいましたが、彼らはすべて犯人たちの人質となってしまいます。ところが建物の中に1人だけ、犯人の目を逃れた男がいたのでした。そして、人質の中には、男の妻と娘が…。

 

 このストーリー、ブルース・ウィルスの出世作である映画「ダイハード」によく似ています。表紙の見返し部分には著者の「この物語は『ダイハード』を見おわったときには完成していました。」という言葉もありますから、似ているのも当然でしょう。もちろんこの作品は「ダイハード」の単なる翻案ものにとどまらない面白い作品に仕上がっています。

 この明治43年と言えば、社会主義者が時の権力によって大弾圧を受けた「大逆事件」が起こった年。この一大事件を大胆にストーリーにからめ、石川啄木はもちろん、永井荷風、北原白秋といった作家・詩人たちを重要人物として登場させるという絢爛豪華ぶりは、読む者をのめり込ませてしまいます。

 

 物語の中で、石川啄木は北原隆一(白秋)を誘って、十二階に上ろうとしています

 

花やしきと「不憫惚れ」

 花やしきは浅草の遊園地。知名度も高いですね。日本一古く、かつう怖いと言われるローラーコースター(1953・昭和28)は健在ですし、2010(平成22)年に一度閉館したお化け屋敷もリニューアルしました。本当のお化けが出る、という都市伝説までも生まれたお化け屋敷だっただけに、嬉しいことです。

 

 立松和平の作品の中に花やしきが登場するものがありました。『不憫惚れ』(2006・平成18)です。サブタイトルは「法昌寺百話」。台東区下谷に実在する法昌寺に関係する人たちの物語という設定です。法昌寺は法華宗の寺院で、境内には下谷毘沙門天堂があり、また、昭和のコメディアンたこ八郎のたこ地蔵がまつられています。

 

 このお寺で毎月3日に営まれる毘沙門講に来る人の中に、中川という64歳の男性がいました。「菊花」の章において、彼はやはり毘沙門講の参加者である十郎と佐田と共に、隅田川の花火を見に行こうとします。

 ところが地下鉄は花火見物に行こうとする人で異常な混雑ぶり。電車の中で十郎にも佐田にもはぐれてしまいました。浅草に着いても混雑は変わりません。やっと出た地上で空を見上げると、低いビルの上に大きな菊花型の花火が上がりました。

 花火は次々に上がっていきます。夜空を鮮やかに染めて輝くその巨大な花火を見ているうちに、彼は遠い過去の日の出来事を思い浮かべます。それは彼が6歳の時のこと。東京の夜をB29が襲い、焼夷弾をまき散らしていった日のことでした。

 気づくと彼は浅草寺の境内にいました。ここでも花火は見えます。数え切れないほどの花火が。彼は境内を離れました。歩いているうちにたどり着いたのが花やしきの前。この日は入場無料になっていました。

 

 彼は観覧車の切符を買い、若いカップルたちに混ざって長い列に並びます。ただ、観覧車に乗ろうとした目的だけは、他の若者たちとは違っていました。

 

 中川が乗った観覧車とは、Beeタワー(上写真)のことだと思われます。45㍍の高さを誇る、大変に目立つアトラクションでしたが、残念ながら2016(平成28)年に廃止となりました。

 

花やしき付近と「舞踏病」

 花やしきの近辺を重要な舞台として描かれるのが島田荘司の短編ミステリー「舞踏病」(『御手洗潔のダンス』<1990・平成2>)です。『占星術殺人事件』(1981・昭和56)でデビューした島田氏。彼の生み出した名探偵・御手洗潔がここでも活躍します。

 

 浅草2丁目で定食屋を営む陣内巌の元に、近くに住む男性から、2階の1部屋を1ヶ月だけ家賃70万で貸して欲しいという依頼がありました。住むのはその男のお爺さんだということ。近くに住んでいるのに、なぜこんなに高い金を払ってまで、わずかひと月の引っ越しをさせたがるのでしょう。加えてこのお爺さんには、謎の奇癖がありました。そして、ついに死体が…。

 

 名探偵・御手洗潔の出番です。

 

 さて、陣内巌の定食屋「陣内屋」ですが、本文では、とても詳しく番地が示されています。そんなに詳しすぎて大丈夫なのかとびっくりするくらいです。もちろん、実際に存在する地番です。行ってみたくなります。