泉岳寺・高輪物語散歩

2019年3月14日に実施しました。都営地下鉄泉岳寺駅に集合し、泉岳寺から桂坂を上って二本榎通りに出、そのまま北上。慶應義塾大学に入ってゴールです。周辺の物語散歩地図はこちらです。沢山作品が入っていますが、コースや時間の都合で全ては紹介しきれませんでした。

提灯殺しのガード

 都営地下鉄泉岳寺駅から出発します。高輪大木戸跡を見た後は、〈提灯殺し〉の異名を持つ高輪橋架道橋をくぐって、その先に出ます。

運河の流れる場所

 高輪橋架道橋をくぐった先には運河が目立ちます。レインボーブリッジ゙もちらりと見えます。このあたり一帯、かつては「芝区」と言っていました。落語「芝浜」を紹介します。

港南3丁目

 少し歩いた先、港南3丁目には、ちょっと興味深い場所があります。新幹線の引き入れ線が、首都高速羽田線や東京モノレールと次々に交差するという地点。出口裕弘『東京譚』(1996)所収の「遠い祭り」の章に、この場所が描かれています。

泉岳寺

 高輪橋架道橋を戻り、泉岳寺に向かいます。赤穂事件についてよく知らない生徒もいるので、簡潔に説明したあとで一旦解散して自由見学をします。宮部みゆきのエッセイ『平成お徒歩(かち)日記』諸田玲子「高輪泉岳寺」(『異色忠臣蔵大傑作集』所収 1999)、牧野信一の「泉岳寺附近」(1932)を紹介します

二本榎通りへ

 泉岳寺を出た後は、坂を上って尾根道に出ます。高輪消防署二本榎出張所の、とてもインパクトのある外観には生徒もびっくりのようです。1933年完成の、地上3階建ての建築です。

北に歩きます

 少し北に歩いたところにある日蓮宗の承教寺に入ります。歴史ある古刹で、開山は1299(正安元)年だそうです。場所は現在の虎ノ門あたりです。その後、1653(承応2)年に現在地に移りました。

 山門の手前に非常にユニークな動物の石像が一対置かれています。狛犬とはあまりにかけ離れたその姿、一体何なのでしょう。顔は立派なヒゲをたくわえた人のようで、胴体はひづめらしきモノがあるからウシでしょうか。いずれにせよ奇妙です。

「首から上が人間で、胴体が牛」という妖怪がいます。その名は「くだん」。漢字で書くと「件」です。この「件」という妖怪は、人語を操り、未来を予言した後、3日で死ぬのだとか。それを踏まえた小説に内田百閒「件」(『冥土』所収・1922)があるので、ここで強引に紹介。その他、甲賀三郎『強盗殺人実話』(1929年刊を2018年に再編集)の話もします。

 

天神坂

 さらに北に歩きます。進行方向左手がわに下る坂道の一つに天神坂があります。昔、この坂に天神様が祀られていたことによる命名だそうですが、今となってはその場所も不明になっているそうです。

 物集高音『大東京三十五区・夭都七事件』(2002・平成14)では、この坂で摩訶不思議な事件が起きたと語られます。「坂ヲ跳ネ往ク髑(どく)髏(ろ)」の章です。坂の途中で立ち止まって紹介です。

 

高松小学校裏

 天神坂から横手に入って進みます。行き着いた先は港区立高松中学校です。中学校の敷地を含むここ一帯には、かつて肥後熊本藩細川家の中屋敷がありました。

 ここでもう一つ落語の紹介をします。「井戸の茶碗」という人情噺です。3代目古今亭志ん朝の口演をもとにあらすじを紹介。

 高松中学の裏山にあたる箇所に、校庭とは別に仕切られた、樹木の覆う一角(画像)があります。ここは忠臣蔵の重要人物大石内蔵助良雄(くらのすけ・よしたか/よしお)がその最期を迎えた場所です。細川家に預けられていた時の大石良雄を描いた芥川龍之介「或(ある)日の大石内蔵助」(1917)も紹介します。

 

伊皿子

 伊皿子交差点。不思議な名前です。交差点を左折すると下り坂。魚籃坂といいます。

 ここでもう一度、物集高音に登場してもらうことにします。昭和の初めを舞台とする作品に『奇想天外探偵小説・血食』(1999)があります。サブタイトルを「系図屋奔走セリ」といいます。「系図屋」とは依頼人の系図を調べることを専門とする職業です。「系図屋」こと「忌部系譜探偵社」の場所は、魚籃坂を上った伊皿子台地の上近くに立つ、周囲からは場違いに見える西洋館の中にあるそうです。

 

薬王寺

 魚籃観音堂と境を接して、もうひとつ寺院があります。日蓮宗の薬王寺です。この境内の奥、墓地の片隅の井戸に注目します。

  江戸時代の女流俳人に加賀千代女(1703~1755)がいます。その名の通り、加賀の国松任に生まれました。その最もよく知られている句に

  朝顔につるべ取られてもらひ水

がありますが、この句に詠まれた井戸はここのお寺の「朝顔の井戸」だと言われています。千代女は松尾芭蕉と共にかなり人気のある俳人で、伝説化された部分も多くなっていますから、この井戸も千代女にまつわる伝説の一つと理解しましょうと説明。

 

亀塚

 北に進みます。このあたりは歩くのに楽しいところで、さりげなく面白いものがあります。右手にある三田台公園には縄文時代における、このあたりの人たちの暮らしぶりが復元住居として示されています。説明板によれば、1978年にこの近くで縄文、古墳時代の住居跡と貝塚断層が発掘されたので、当時の生活環境を理解してもらおうと再現したということだそうです。

 

 そしてその少し北にある公園には小高い土の盛り上がりがあり、亀塚と呼ばれています。

 この亀塚の隣には最初のフランス公使宿館が置かれた済海寺があります。このあたりは、平安時代の古典『更級日記』に出てくる「竹芝寺」のあった地であると言われています。

 

聖坂

 亀塚公園前の道は、聖坂という下り坂によって尾根の形の終了を迎えます。

 この坂は渡辺淳一『桜の樹の下で』(1988)に出て来ました。危うい大人の恋愛を描いた作品です。タイトルにあるように桜が重要な役割を果たします。桜は美の象徴であると同時に、はかなさ、破滅、死の象徴でもあります。この作品には、桜のこのようなイメージが濃密に重なり合っていきます。

 

元和キリシタン遺跡

 港区三田3丁目、札の辻交差点に近い場所に元和キリシタン遺跡を示す碑が立っています。大変に悲しい歴史が秘められた遺跡です。1623(元和9)年12月4日、徳川家光は50人ものキリシタンを処刑しました。火あぶりによる処刑であったそうです。

 碑の下部には「智福寺境内」と記されています。処刑地とみなされる場所にこの寺院が建てられたということを示していますが、智福寺自体は既に三田にはなく、1966年に練馬区上石神井に移っています。

 

 遠藤周作の短編集『哀歌』(1965)所収の「札の辻」では、まだ三田に智福寺があった時のことが記されていました。

ゴールへ

 亀塚前の道から桜田通りに降りる坂に幽霊坂があります。途中にお化粧地蔵で知られる玉鳳寺があります。

 幽霊坂はこのお寺の正面で丁字路になっていますので、そちらに曲がります。しばらく進むとまた丁字路になるので左折。すぐ右手には、故寺山修司が映画を作る際の拠点とした事務所「人力飛行機舎」の建物があったのですが、いつの間にかなくなってしまいました。

 島崎藤村はこの近くにある明治学院で学びました。その時の経験を元に、小説『桜の実の熟する時』(1919)を書いています。主人公・岸本捨吉の歩く道として、この辺りのことが書かれていますので紹介し、慶應義塾大学に着いたところで解散です。