jr渋谷駅の東側物語散歩です。

銀座線渋谷駅と「ジングル・ベル」

 東京メトロ銀座線の渋谷駅。地上3階相当の高みに存在しますから、「地下」鉄と言って良いのか悩みます。銀座線渋谷駅は、地下に存在するお隣の表参道駅とほぼ同じ標高にあるそうです。渋谷はそれだけ低い位置にあるということですね。さすが「谷」とつくだけあります。

 

 地下鉄銀座線の渋谷駅の連想で、安岡章太郎「ジングル・ベル」(『悪い仲間』所収・1953)を思い出しました。

 

 主人公は、クリスマスの日、東横線に乗って渋谷で銀座線に乗り換え、三越前駅で待つ彼女の元に行こうとします。しかし、東横線も銀座線もトラブルが生じて電車が停まり、甚だしく遅れてしまいそうです。

 かつ、妙なことに彼は、自宅近くの駅前で耳にしたジングルベルの曲が不思議と耳について離れなくなってしまいます。その曲のリズムに合わせて右左と足が動いたりします。逆らおうと思ってもだめ。その曲は電車の中でも、日本橋近くの路上でも、はてはクリスマスが終わった翌日も、彼の耳に流れ込んできます。

 

 絶えず耳に入り込み、歩調を合わせずにはおられないその曲は、主人公にとって何を示すものなのでしょうか。

 

東口歩道橋と『リップステイン』

 東口の歩道橋に注目します。ひと言では説明しづらい、独特な形状でしたが、現在駅前再開発中のため、歩道橋自体もかなり変わってしまいました。

 

 長沢樹の魅力的な小説『リップステイン』(2014・平成26)は、この歩道橋上から物語が動き出します。

 

 専門学校生の夏目行人は、この歩道橋上で1人の制服姿の少女に目を留めました。着ていた制服が夏目の母校のものだったからです。その制服を含め、彼女の身なりは大変に汚れていました。

 姉の制服を着ているというこの少女、城丸香砂(じょうまる・かずな)と名乗りました。さらに、自分は正義の味方であり、その修行中であるのだと言います。心が壊れそうになったら助けてあげるよと言われた夏目は、まともに相手すべきではないと判断しました。

 ただ、少女のこの言葉は、次第に単なる妄想とは見なせなくなってきます。渋谷を中心に7件の強盗事件が発生中でした。犯人は捜査一課の女性刑事らによって逮捕されますが、香砂は犯人の「悪意」を除去すべく、既に7度も戦いを交えていたのだとか。

 

 夏目は香砂の姉・香歩について情報を集める中で、前年に別の場所で連続暴行事件が発生していたことを知りました。2つの連続凶悪事件と、その近くに存在する香歩、香砂の姉妹。単なる偶然の一致とは思えません。

 渋谷でまた新たな傷害事件が発生。物語は香砂の行動ばかりでなく、先の女性刑事にも焦点が当てられ、非常に厚みを持った内容で進んでいきます。結末はどのような形で現れるのか。興味が尽きることはありません。

 

東急文化会館と『虹の天象儀』

 歩道橋に上ると視界が開けますね。向かい側、現在渋谷ヒカリエの巨大なビルが建っている場所は、かつての東急文化会館です。現在のシネコンのように、1棟のビルの中に、渋谷パンテオンをはじめとする4つもの映画館が存在していました。

 そしてもう一つ、ここで有名だったものは、プラネタリウムでした。「五島プラネタリウム」と呼ばれていました。外からビルの屋上に突き出るドームが見えたものです。「パンテオン(=円形劇場)」という名も、ここから付けられたのでしょう。

 ビルの老朽化や鉄道路線工事に伴う駅前再開発のために、東急文化会館は2003(平成15)年6月で閉鎖となりました。1956(昭和31)年12月から続いた歴史の幕を閉じたのです。五島プラネタリウムは、それ以前、2001(平成13)年6月末日をもって閉館しています。

 

 瀬名秀明の『虹の天象儀』(2001・平成13)では、この五島プラネタリウムの閉館の日から物語が始まります。 

 主人公の「私」は1974(昭和49)年から五島プラネタリウムで投影機の担当をしている54歳の技術者です。閉館の翌日、機材の梱包に携わっていると、1人の少年が現れます。少年はプラネタリウムを見たがりました。投影機によって映写された星空ではなく、プラネタリウムの投影機そのものを見たがっています。44年間そこで働き続けた古い投影機を、です。「私」は少年のどこか理知的な瞳に惹かれ、鍵を開けて案内しました。「私」の説明に少年は強い興味を示すため、「私」は次第に話のレベルを上げていきます。昔、有楽町にあって空襲で焼けてしまった東日天文館のプラネタリウムの話もしました。しばらくすると少年は、古い機械を動かすと昔にタイムトラベルするような気がしないか、と、謎めいた言葉を発します。

 少年は「私」に、誰に会いたいか?と尋ねます。その後、投影機の作り出した世界を見つめながら、「私」は時を超えていきます。

 

 物語には織田作之助という実在の作家も登場し、静かな感動を与える作品に仕上がっています。画像の投影機は五島プラネタリウムで使われていた本物です。今は渋谷区こもれび大和田図書館入口前に保存されています。

 

渋谷発祥地・金王八幡宮

 駅からほんの少しのところに、我々が抱く「渋谷」の街のイメージからかけ離れた場所があります。金王(こんのう)八幡宮と言います。行ってみましょう。一見してわかるとおり、かなり立派なお社です。ここは「渋谷」の名前発祥の地と言われているところです。

 八幡宮からいただいた略記に従って、ここの縁起を紹介してみます。あくまでも伝承としてとらえてください。

 

 この神社の始まりは1092(寛治6)年にさかのぼります。桓武平氏の祖・平高望(高望王とも呼ばれます)の子孫に平武綱という人物がいました。この人は源義家に従って後三年の役で功を上げ、この渋谷を含む武蔵谷盛(やもり)の地を庄としてもらいました。その地に文武の神である八幡宮を祀ったのが金王八幡の始まりだそうです。その後、武綱の子(別の資料によると孫)である河崎重家の時に渋谷という姓を与えられました。初めは渋谷八幡宮と呼ばれていました。

 

 「渋谷」という姓をどうしてもらうことになったか、ということについては面白い逸話が伝えられています。

 

 この河崎重家が、御所の警備をしていた時、御所に賊が侵入しました。それを重家が捕まえたのですが、その賊の名前を渋谷権介盛国と言いました。堀河院は、重家に今後その渋谷という姓を名乗るようにと命じました。そこで河崎重家は渋谷重家となり、領地の谷盛も渋谷となったのです。

 

 盗賊の姓を名乗るというのは、現代からすると大変奇妙なことに思えるでしょうが、倒した敵の姓を名乗るというのは、当時は名誉なこととされていました。

 金王八幡宮の「金王」というのは渋谷重家の子の金王丸のことです。

 

 重家夫妻には初め子がなかったので、八幡様に祈ったところ、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿るという霊夢を見ました。その後、妻は身ごもり、男の子が生まれました。霊夢にあやかり、「金剛夜叉明王」の最初と最後の一文字ずつをもらって「金王丸」と名付けたそうです。

 金王丸は源義朝に従って保元の乱に参加して大きな手柄を立てました。その後義朝は平治の乱において亡くなりますが、金王丸はその知らせを京都にいる義家の妻・常磐御前に伝え、その後渋谷で出家して、義家の菩提を弔いました。後に源頼朝の強い依頼を受けて、義経討伐に赴きましたが、常磐御前の子である義経を討つという気持ちにはなれず、戦いの中で捕らえられ、命を落としたということです。

 

 境内には金王桜と呼ばれる名木があります。八重と一重の花が混じって咲くという珍しい桜です。源頼朝が奥州の戦いを終え、この社に参拝した時に、鎌倉・亀ヶ谷の館の桜を移し植えたものであるそうです。「金王桜」という名もその時に頼朝が付けたとのことです。すぐ傍らに碑がありますが、松尾芭蕉の句が刻まれています。

 

 しばらくは花のうへなる月夜かな

 

 句碑こそあるものの、実際のこの句は芭蕉がこの地で詠んだものではありません。

 

 社殿前に「渋谷城砦の石」が置かれています。渋谷氏の居城に設置されていた石垣の一部ということです。城は渋谷川の流れを堀に利用した造りだったようで、神社横にある資料館に推定模型が置かれています。

 

金王神社前交差点と『空中ブランコ』

 神社の近くに「金王神社前」という交差点がありますが、ここは奥田英朗の連作短編集『空中ブランコ』(2006・平成18)に関係する場所です。

 物語には、飛び移れなくなった空中ブランコ乗りや、尖端恐怖症のヤクザ、送球のコントロールを失った野球選手など、心に病を持った人物が登場します。

 彼らと関わるのが伊良部一郎という精神科医。ところが、総合病院の跡取りでもあるこのお医者様、かなりの変人です。体形はカバを思わせます。元は小児科医でしたが、子供の患者と同レベルでケンカするため、神経科に回されたという逸話の持ち主で、常識を逸脱した彼の言動に患者たちは振り回されます。しかし、不思議なことに彼らは、次第に今までとは違う考え方ができるようになっていきます。

 

 「義父のズラ」の一編では、破壊衝動に悩む患者に対し、羽目をはずした行動をするように勧めました。具体的な行為として伊良部が提案したのは、患者が高校時代にやりたかったというイタズラ。先述の「金王神社前」の交差点に関係する、あるイタズラでした。

 

鎌倉道

 金王八幡前の交差点から並木橋の方に向かいます。

 もう少しで並木橋の交差点という、一つ手前の路地を右折すると、左手に「鎌倉道」を示す標識が立っています(写真)。

 標識によると、標識の立つ細い路地は鎌倉時代から続く、古い軍道の名残だそうです。西は遠く神奈川県にまで続き、東は代々木八幡から大宮八幡の方に向かっていたそうです。

 案内標識の後半を示します。

 

 大永4年(1524)に、相模の北条軍がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、その時の戦火が渋谷地域にも及び渋谷館(やかた)(金王八幡宮・東福寺周辺)が焼失したと伝えられます。

 

渋谷川と『インディゴの夜』

 並木橋の交差点を渡って、渋谷駅方面に戻りましょう。並木橋から下を見ると、川が流れているのがわかります。これ、渋谷川といいます。その下流は古川と名を変えて広尾や古川橋を流れ、交通情報でよく耳にする一の橋から芝公園横を抜け、浜離宮の南、浜崎橋で東京湾に注いでいます。

 

 渋谷駅から歩いて5分、明治通りから入って渋谷川に架かる小さい橋を渡ったすぐのところ、古いビルの2階にホストクラブ「インディゴ(indigo)」があります。

 ただし、このクラブは現実のものではありません。加藤実秋『インディゴの夜』(2005・平成17)に登場する店の名前です。作者の加藤実秋はこの作品で第10回創元推理短編賞を受賞しました。

 

 インディゴはホストクラブですが、「クラブみたいなハコ」で「DJやダンサーみたいな男の子が接客」するというオリジナリティをもっており、繁盛しています。話の主人公である「私」高原晶はフリーライター。文京区にある大手の出版社で編集をしている「塩谷さん」とともにこの店のオーナーです。この店のホストやお客にさまざまなトラブルがふりかかり、それを「私」やホストたちが解決に乗り出していく、という内容になっています。

 ある時にはお客の1人が自宅のマンションで死亡し、ある時にはホストの1人が義理で預かった少女が行方不明になり、またある時には主人公自身が廃人同様にさせられようとしたり…。

 単行本の中におさまっている4つの話はそれぞれがまたとても個性的です。そしてホストたちも大変に個性的。渋谷の「アブナイ」雰囲気がかなり細かく描かれているのでちょっと勧めづらい作品ではありますが、読み進むうちに人情味と正義感ある登場人物たちの言動におもわずほろりとします。ミステリーとハードボイルドの融合かと思いきや、根底にあるのは人情。人情話の新しいスタイルなのかとも思わせます。続編が次々と出されているのも、そのあたりに理由がありそうです。

 

 なお、先ほど訪れた金王八幡宮も作品の重要な舞台として登場します。金王八幡宮では、金王桜の根本にある碑の下で、インディゴにかつて勤めていたホストの死体が発見されます。(「夜を駆る者」の章)

 

東横線改札と『ピンクとグレー』

 金王神社から六本木通りに出ます。信号を渡った先の高層ビルに入りましょう。渋谷クロスタワーと言います。1975(昭和50)年完成の、地上32階地下3階(塔屋2階)のビルです。以前は東邦生命ビルと言っていました。

 

 このビルの3階テラスに、歌手・尾崎豊のレリーフがあります。尾崎豊は青山学院高等部の出身。在学時代、ここからよく夕日を眺めていたそうです。

 

 アイドルグループNEWSのメンバーである加藤シゲアキの書いた小説『ピンクとグレー』(2012・平成24)では、かつて地上にあった東横線の改札や美竹公園など、渋谷駅周辺の場所がふんだんに何度も描かれていますが、ここもその一つです。

 

 大貴と親友・鈴木真吾との出会いは9歳にまでさかのぼります。大貴の父親の転勤で住むことになった横浜。ほんのささいなきっかけで、大貴と真吾は気のおけない仲になりました。

 

 彼らの仲の良さは、共に同じ大学の付属中学を受験したことにも表れています。結果は合格。これで大学まで同じ学校です。

 渋谷クロスタワーのこの場所は、第四章の冒頭に出て来ます。大貴と真吾は17歳。9月のことでした。この場所に来た2人は月末の文化祭について話をしています。彼らはバンドを組んで参加することになっていましたが、真吾は「やめようよ」言い出します。尾崎豊のレリーフに記された「十七歳の地図」を見つめる真吾は、尾崎と自分とでは才能が違いすぎると思っていました。特に尾崎は彼らと同じ高校の先輩であり、その曲は彼らとまさに同い年の時に書かれたものだったからです。

 

宮益坂と『大金星』

 渋谷駅周辺に存在する坂の中でも宮益坂は道玄坂と並び、知名度の高いものでしょう。坂の途中には御嶽神社というお宮があり、坂の名の由来となっています。

 

 水野敬也の小説『大金星』(2008・平成20)ではこの宮益坂の路上が舞台の一つです。

 

 主人公・御手洗歩は地方から上京してきた学生です。格闘系のゲームでは大変な実力者で、高校生の時に全国大会で優勝したという経歴の持ち主ですが、社交性に乏しく、特に異性との交際については全くの奥手。自分に自信が持てません。渋谷に来ても彼の行く先はゲームセンターか漫画喫茶です。

 4月のある日、御手洗はハチ公前の交番付近で、最も会いたくない人間に会ってしまいました。笠原明人(あきと)。同じ私立男子高校に通い、御手洗を小馬鹿にし、「パシリ」として使っていたイケメンです。その後笠原は推薦で慶應に入学、容姿でも大学でも御手洗とは圧倒的な差がついています。そんな「天敵」笠原は、御手洗に自分の企画したイベントサークル「GARDEN」のことを得意げに告げ、去って行きました。

 言いしれぬ敗北感に襲われた御手洗は宮益坂交差点付近のゲーセンへ。ゲームに勝っても面白くありません。地上に出たところで、彼は1人の男に会いました。太っていて短足、ファッションセンスもなく、渋谷にはまるで似合わない外見です。空腹で動けなくなったこの男に、御手洗はビッグマック3個をおごってあげました。花村春男というこの男、強烈な九州なまりで、古今東西の格言をちりばめながら話します。語る内容や取る行動は何とも異様で、御手洗はついて行けないものを感じます。

 春男は「渋谷の潜在能力は宮益坂にあり」という妙な理論を振り回し、行動を開始しました。御手洗が見るに、それは「義太夫」という飼い犬の豆柴を使ったナンパに他なりませんでした。春男の理論は相当なものですが、実践は全く効果無し。それでも春男の辞書に「めげる」という言葉はないようで、実践を繰り返します。

 

 しばらく経った後、宮益坂に立つ御手洗の姿がありました。目的は路上ナンパです。春男とのやりとりの中で、なぜかそういうことになってしまったのです。御手洗にとっては自分を変える第一歩。もちろん失敗ばかりですが、その中でも得るものはありました。

 

 御手洗は春男に誘われ、新宿で行われる合同コンパに参加します。それはあの笠原明人のサークル「GARDEN」が企画したコンパでした。

 

宮益坂交差点と『東京二十三区女』

 宮益坂の交差点ですが、この付近の地下には先ほど見た渋谷川暗渠となって流れているはずです。渋谷川がまだ見えていた頃、ここには宮益橋という橋が架かっていたそうです。その遺構の一部が地下にまだ残っているという報告もウェブで見ることができます。

 渋谷川はこの少し北方でY字に分かれているようです。流れから言えば、2つの川が合流して1本になっている、と言うべきでしょう。もちろん暗渠となった今は見ることができませんけれど、暗渠の上は道路となっているのでさかのぼることが可能です。我々の進行方向から言うと左手の川は、JRのガードをくぐってさらに西へ。この川は宇田川と言います。宇田川町の宇田川です。

 長江俊和『東京二十三区女』の1編「渋谷区の女」に、ここが出て来ました。

 物語の中心人物はフリーライターの原田璃々子です。彼女は霊感が強く。何かを探し求めて東京を巡っています。JR信濃町駅で下車した璃々子は、何かに吸い寄せられるかのように外苑西通りを進み、青山へ、そして渋谷へと歩きます。璃々子の先輩である島野仁も彼女に付き合います。島野は大学で民俗学を教えたこともある人物で、璃々子が訪れる場所の歴史について非常に詳しい。渋谷川の暗渠化についてなど、いろいろと璃々子に教えています。

 「渋谷区の女」の章では、璃々子の行動とは別に、宮益橋跡に向かう男性が描かれます。10年前に失踪した母の行方を捜している彼は、ある日、送信者不明のメールを受信しました。そこにはあなたの母が会いたがっているから宮益橋跡に来てほしいという内容でした。次に届いたメールには、宮益橋跡に行くための方法が記されていました。彼はそれに従うことにします。

 画像は渋谷川に架かる稲荷橋です。2007(平成19)年の撮影。現在では再開発で姿を変えましたが、この写真の頃はここから暗渠に入ることができたとのことです。

 

明治通りと『少女達がいた街』

 明治通りに沿って歩きます。左手に見えるビルの地下に「Grandfather’s(グランドファーザーズ)」という店があります。LPレコードでロックを聴きながらお酒を飲むという、ロックバーです。かつてはロック喫茶というものもありました。このビルの地下に存在したロック喫茶「めいじどうり」です。

 柴田よしきの小説『少女達がいた街』(1997・平成9)では、1975年と96年という2つの時代を中心に物語が展開します。特に75年の方は「物語散歩」に行きたくなるような記載がふんだんにあります。

 

 75年。渋谷を自分の街だととらえるほどに親しんでいる「ノンノ」は、私立の高校に通う16歳です。ロックの好きな彼女は渋谷のロック喫茶「めいじどおり」や「アナザーサイド」を利用しています。

 ノンノは寂しい子です。両親は事故死し、寝たきりの祖父との2人暮らしです。経済的には裕福ですが、彼女は自分のこれからに対する不安をいつも抱いています。

 彼女は渋谷のロック喫茶で見かけた「ナッキー」という女の子と、次第に深く交際するようになります。同い年のナッキーはすでに社会人でした。ノンノには、自分に似た外見を持つ同い年のこの少女が、はつらつと自分の未来を見つめているように思えました。強く引かれていきます。

 ノンノには恋心を抱いている人がいます。彼女の通う高校でアルバイトの講師をしている北浦巽です。彼女の目下の楽しみは、武道館で行われるディープ・パープルのコンサートに行くこと。北浦と一緒に行く予定です。

 そんな彼女に、起きて欲しくないことが襲いました。祖父の死です。天涯孤独になったノンノ。悲しみの克服には時間が必要でした。ところが、時の移ろいの先にノンノを待っていたのは、さらに残酷な一つの知らせでした。

 

 物語に出るロック喫茶「めいじどおり」のモデルはおそらく「めいじどうり」でしょう。

 

 かつての店主さんによれば、開店と閉店の時間にビートルズの「アビイ・ロード」をかけていたことと、明治通りに面したビルにあったことが店名の由来だそうです。

 

宮下公園と『マトリガール』

 宮下公園は、JR渋谷駅の北方、線路に沿って広がる南北に長い公園です。前回の再整備が行われたのが2011年。フットサル場やスケート場のある、きれいな都市公園になりました。宮下公園という名前は、その場所の旧地名に基づいています。ただ、2018年の今回の散歩では、更なる工事のため、全く見ることができません。「渋谷物語散歩」では、この公園を休憩場所にしていました。眺めの良い場所もあり、小休止するには格好の場所だったのですが…。

 

 藤村美千穂『マトリガール』(2014・平成26)の中に、この宮下公園は何度も出てきます。いずれも物語の展開において重要な場面です。

 「マトリガール」とは女性麻薬取締官のこと。この物語の津森美月が選んだ職業です。

 大学時代のある夜、美月は渋谷で麻薬依存者に襲われ、ナイフを突きつけられました。その人物は麻薬による妄想か、美月を盾にして殺し屋から逃れようとしているようです。幸いその場に居合わせた刑事・倉科耕司によって、危機を免れました。

 美月がその後、麻薬捜査官になる決意をしたのも、この日の出来事が関係しています。その面接を受けた日、彼女はまた渋谷を訪れました。

 かつての事件現場に立った美月はその後宮下公園へ。公園前の屋台で彼女は倉科と偶然の再会をします。自分の決めた進路を倉科に告げた美月。屋台の店員に盛り上げられ、ビールで倉科と乾杯をしました。

 晴れて麻薬捜査官になった美月。仲間は個性的な人ぞろいです。中でも奥居という男性は軽いムードで相手の懐に入り、重要なことをしゃべらせるのが得意です。この奥居が麻薬にからむ、ある事件を調べる中で、情報をもとに訪れたのがこの宮下公園でした。その事件には美月も大きく関係していました。

 そしてさらに、物語の謎解きに大きく関わるところでも、この宮下公園は描かれます。