谷中の物語散歩です。

三崎坂と『月影骨董鑑定帖』

 地下に地下鉄千代田線が走る不忍通りを渡ります。少し歩くと道は上り坂に。不忍通りを挟んで、二つの坂が向かい合う形です。こちらの坂は三崎坂と呼びます。左右に趣のある店が並んでいますね。

 

 谷崎泉「月影骨董鑑定帖」(2014・平成26)では、三崎坂から続く小道「月粋寺」という寺院が設定されています。物語の中心人物である白藤晴が住む古い平屋を訪れるためには、この寺の境内を通り抜ける必要があります。

 

 晴は30代後半の男性です。両親を早く亡くし、指物師の祖父に育てられましたが、その祖父も一昨年に世を去っています。現在定職に就かず、小間物を売って生計を立てています。この家には7歳年下の親類・宇多蒼一郎も2年近くいそうろうしています。

 ある日、梶という銀行員が訪れました。ある人物への融資の担保とした骨董品が偽物だったと梶は言いました。不思議なのは、初めの鑑定時には本物だったのだそうです。いつの間に偽物になってしまったのか。その偽物の茶碗が入っていた箱は、晴の祖父が修理をしたものでした。梶は晴の祖父が亡くなったことを知らず、何か情報を得られないかと訪ねてきたのです。

 晴はその話を聞いて非常に嫌な気持ちになりました。彼には祖父との間に何か大きな過去があるようです。非凡な彫り物の腕前を持ちながら、あえて身を隠すような暮らしぶりをしているのにも事情のあることがうかがえます。

 先述の骨董品所有者が亡くなりました。他殺です。警察は梶を疑います。目撃談があったからですが、梶には晴たちとと会っていたというアリバイがありました。この殺人もまた謎めいています。

      

 設定によれば、晴の家に行くのはかなり難しい。墓地の先、うっそうとした竹林の奥だそうです。設定にふさわしい場所、あるでしょうか。

 

 月粋寺は架空のお寺ですが、この辺りは寺町ですので、たくさんの寺院を見ることができます。その中で一つ紹介するとすれば、やはり全生庵でしょうか。1883(明治16)年創建のお寺で、明治の大落語家・三遊亭円朝のお墓があります。そして、円朝が生前コレクションをしていた幽霊画を保存しています。8月には一般公開もされますよ。

 

藍染川・蛍沢と『大江戸遊仙記』

 団子坂と三崎坂、向かい合う二つの坂の下は当然低地です。水の存在が予想されますね。今は暗渠となっていますが、以前はここに藍染川という細流が流れていました。今我々が歩いている道にもかつては橋が架かっていました。枇杷橋もしくは藍染橋と言ったそうです。それを示す案内標示がありますので、見逃さないようにしてほしいです。

 

 この藍染川ですが、現在我々が歩いている近くに、宗林寺という寺院が今もあります。江戸時代、藍染川の宗林寺周辺はホタルの名所としてよく知られていたのだそうです。蛍沢という名称もありました。今は想像もできませんが、江戸の昔は川も清らかで人も少なかったのでしょうね。

「蛍坂」という坂も近くにあります。路地の先にあるこの蛍坂、現在は片面を高いコンクリート塀に遮られた坂となっています、あまり見通しは良くありません。

 

 このホタルも、川の清らかさも明治には失われたようです。

 

『三四郎』

 

 三四郎は水の中をながめていた。水が次第に濁ってくる。見ると川上で百姓が大根を洗っていた。(五)

 

 とありました。これではホタルも住めそうにありませんね。

 

 石川英輔『大江戸遊仙記』(1990・平成2)は、中年男・速見洋介が現代と江戸時代の文化文政期を行き来するという「大江戸シリーズ」の第3作です。時代考証が綿密で、当時の状況を知るのには大変に役立つので、ストーリーの面白さとあいまって、この上なく興味深い物語となっています。この中の「蛍沢」という章で、ここ藍染川の蛍についての描写があります。この章はかなり「おとなのものがたり」であるため、詳しい紹介は避けますが、江戸時代の時刻についてなど、役立つ情報が多くあります。

 

コーヒー乱歩と『上野谷中殺人事件』

 三崎坂の途中に「コーヒー乱歩」という喫茶店があります。正確には「歩」の右肩に小さな「○」がつきます。猫がいる喫茶店でもあるようです。猫好きの人はぜひ。

 

 この喫茶店は内田康夫『上野谷中殺人事件』(1991・平成3)の中に「蘭歩亭」として登場します。

 

 年の瀬もおしつまったある日、谷中霊園で男性が首をつっているのが発見されました。発見時にはすでに亡くなっていました。岩手県出身の寺山という26歳の独身男性です。この人、実は警察からマークされていた人物でした。同じ月の25日、不忍池近くの神社で42歳の会社員が絞殺されるという事件があり、寺山はその事件の参考人として警察から事情を聴かれていた人間でした。

 なぜかというと、絞殺された被害者のポケットから、寺山のものである写真が出てきたからでした。被害者がなぜ寺山の持ち物である写真を持っていたのかは不明です。警察の追及に、寺山はその写真を上着の内ポケットに入れていたのだが、どこかでなくした、と言いました。落としたとすれば、財布を出した時だろうと。彼が財布を出した場所としてあげたのが蘭歩亭でした。

 ところが、「一度来た客の顔は忘れない」という店のマスターは、寺山の顔を見たことがない、と言います。

 

 寺山かマスターか、どちらかが嘘をついているのでしょうか。あるいはそれ以外の可能性があるのか。寺山の死は自殺なのか、という謎もあります。事件は不忍池JR上野駅の再開発問題も絡んできそうな雰囲気があります。探偵役のライター・浅見光彦の推理に期待しましょう。

 

『ぐるぐる七福神』と長安寺

 この物語散歩では何度か紹介している柚木麻子楽しい小説『ぐるぐる七福神』(2011・平成23)。都内に各所にある七福神を主人公が巡る物語です。最初に紹介されるのは谷中七福神です。

 

 主人公の船山のぞみは32歳独身の派遣社員です。怪我で入院することになった祖母の家を母と一緒に掃除していると、谷中七福神の御朱印を見つけました。なぜか御朱印の数は6つ。寿老人の御朱印だけありません。なんとなく気になったのぞみは、7つめの御朱印をもらおうと、谷中七福神に向かいます。

 

 目指すは寿老人を祀るお寺・長安寺ですが、せっかくなので谷中七福神を祀るお寺全てに行くことにしました。最初に降りたのはJR田端駅。谷中と言うには少し遠いようですが、この駅から歩いて行ける場所に福禄寿が祀られているお寺・東覚があるのです。そこを出発点に、てくてく歩いて次の場所に向かいます。のぞみのルートでは長安寺は3番目のお寺に相当することになります。

 

谷中霊園と『五重塔』

 谷中霊園は1872(明治5)年に官有地となった旧天王寺境内の大部分と、隣接寺院の墓地や徳川家墓地の一部等を合わせてできたものです。著名人も多く眠っています。ただ、高校生にもよく知られた文学関係者、となるとちょっと見当たらないようです。

 

 ですが、小説の舞台としては大事な場所があります。23区内では珍しい駐在所の裏手にあたる一角です。柵に囲まれたエリアがありますね。天王寺の五重塔がかつて建っていた場所です。

 

 寛永21(1644)年に創建、火事で焼失後、寛政3(1791)年に再建されました。この時の話を下敷きとして、文豪・幸田露伴『五重塔』(1892・明治25)を書きました。作品では、天王寺ではなく感応寺としています。

 

 腕は確かなのに、その腕前を見せる機会もなく、周囲から「のっそり」と渾名され、見下げられていた大工の十兵衛が、谷中感応寺の五重塔建立の話を聞きつけます。是非とも自分にやらせて欲しい、と寺に直訴しますが、寺は当時の名匠・川越の源太に任せるつもりでいました。源太は十兵衛にとっても大恩ある親方に当たります。でも、いくら相手が源太であったとしても、この仕事はどうしても請け負いたい、一世一代の大仕事としてやらせて欲しい、そう十兵衛は思います。悲願成就にむけて愚直に突き進むしかない十兵衛です。ただ、そこには多くの苦難が待ち受けていました。

 

 天王寺の五重塔は、高さ約34㍍、総ケヤキ造りで彩色せず、力強い印象を与える姿だったそうです。関東大震災や空襲にも耐えましたが、1957年7月6日未明、放火心中事件の巻き添えとなり、全焼してしまいました。心中をしたのは48歳の洋服職人と23歳の女性です。年の離れた恋をあの世で成就させようとしたのでしょうか。しかし、その短慮は大変に残念な結果を遺しました。その後、再建が望まれていますが、資金面などの関係で未だに実現されずにいます。

 

谷中霊園と『七面坂心中』

 水沫流人(みなわ・りゅうと)の小説『七面坂心中』(2007・平成19)にも谷中五重塔焼失のてんまつが語られていますが、これは事実とは切り離して楽しむ物語です。

 

 主人公の済(わたる)は失業し、その後の収入を得るために、風俗業のチラシまきの仕事をしています。マンションなどの郵便受けにチラシを入れるという、条例違反の仕事です。ある夜、偶然入り込んだ谷中の墓地で、綾羽(あやは)と名乗る一人の美しい女に声をかけられました。女の言葉は謎めいていますし、和服姿で長い髪、そして夜の墓地です。不気味以外の何ものでもありません。恐れて逃げる済でした。

 その後、済は谷中の墓地で、花屋の老婆から天王寺五重塔が焼失した理由を聞く機会を得ました。

 老婆は火災の時の様子をよく覚えていましたし、心中した男女のことも詳しく知っていました。男は職人で女は既婚者。女の亭主はまだ生きている、と済に教えます。済はこの老婆の話を聞いた時には既に異界に足を踏み入れていたのかもしれません。この後、様々な不思議が起こります。

 また別の日、千駄木の飲み屋で済は心中事件の女の名が呉羽(くれは)だということを知りました。綾羽に呉羽。似ています。やがて彼は、墓地であったあの謎の美女と再び会うことになります。その正体は?

 

 作品では「火」に関係の深い、伝説的なある女性のことも語られており、この物語のスパイス的な役割を果たしています。

 

七面坂と『巷談本牧亭』

 さて、この後は大変に賑やかな通りに出ます。谷中銀座商店街です。ここでは集団行動は無理。解散後、自由に味わってもらうとして、関係する作品を少し紹介しておくことにします。

 

 まずは安藤鶴夫『巷談本牧亭』(1963・昭和38)。谷中銀座に降りる石段には「夕焼けだんだん」というかわいい名前が付いていますが、その南に位置する坂は七面坂といいます。坂上の延命院の七面堂にちなんだ名称です。

 この物語は、講談の定席である上野の本牧亭をめぐる、様々な人間模様を描いた作品です。

 その登場人物の一人、講談師の桃川燕雄(ももかわえんゆう)の住まいは、この七面坂の坂下にありました。

 借家です。正確には彼は居候で、借り主は日雇い労働者の川崎福松でした。

 戦時中のこと、空襲で焼け出された燕雄は、避難した場所で福松に声を掛けられました。以前、燕雄の講談をよく聞いていたそうです。この福松も被災者でしたが、どこへも行くあてがないという燕雄の言葉を聞くや立ち上がり、まもなくこの七面坂の家を見つけて燕雄を案内しました。

 この後、二人の共同生活が始まります。二人とも50代後半ですが、生活費を稼ぐのは福松でした。燕雄は根っからの芸人なので、他の労働ができないのです。福松はそんな燕雄を邪魔にすることなく、すべてをきちんと半分にして彼に提供します。

 終戦。復興の足音高まる中、講談の定席である本牧亭ができ上がり、燕雄にも出演依頼がきました。収入が安定すれば、福松への恩返しも可能です。

 芸の実力は十分の燕雄でした。しかし彼はあることから、本牧亭に出演できなくなってしまうのです。

 再び福松の居候になった燕雄。そんな彼を訪ねて、一人の芸人がやって来ました。この芸人の出現は、燕雄の生活にまた大きな変化を与えることになります。

 

 作品には七面坂界隈の描写がとても詳しくなされています。時が移ろっても変わらぬ雰囲気の場所もありますよ。

 

谷中商店街と『東京ロンダリング』

 次は原田ひ香『東京ロンダリング』(2011・平成23)です。

 不動産業者の依頼を受け、借り主が自殺をしたなどのいわくある物件にひと月住む。それが主人公の内田りさ子の仕事です。それにより不動産屋は借り手にそこで起きた事実を伝える義務が消えます。おおっぴらに言える仕事ではなく、長く行える仕事でもありません。でもりさ子はかなり続けています。自らの不倫がもとですべてを失い、仕事のための作り笑いしかできないりさ子だからこそ続けられているのです。

 彼女の新しい「仕事場」は谷中でした。日暮里駅から谷中銀座を通った先にある、「乙女アパート」という名の古い古い建物です。

 

 いつも通り淡々と任務を果たすりさ子。ただ、これまでと少し勝手の違う部分もありました。積極的に話しかけてくる人の存在です。アパートの持ち主の老婦人と、りさ子の利用する定食屋の息子でした。二人ともりさ子の仕事が何であるかを知っています。もっとも、二人の気持ちがどのようなものであれ、りさ子にとってはうっとうしさを感じるだけのことでした。

 

 ある時、りさ子は「本職」以外に別の仕事をすることになりました。期間限定のこの新しい仕事、固く閉ざされたりさ子の心を和らげるきっかけとなるかどうか、読みどころです。

 

 作者にうかがったところ、作品中の店は実在のものではないが、いくつかは実際の店を参考にして創作した、とのことでした。メンチカツの店に目がとまったそうです。

 

谷中商店街と『純喫茶トルンカ』

 

 八木沢里志『純喫茶トルンカ』(2013・平成25)のタイトルになっているのは、とてもおいしいコーヒーを出してくれる、小さな喫茶店です。あ、もちろん架空の話。お店のある場所は詳しく描写されていませんが、谷中銀座の途中にある路地を入った突き当たりです。マスターとその娘である高校生・雫(しずく)ちゃん、そしてアルバイトの青年・奥山修一が店のスタッフです。

 

 ある日の午後、修一がお客の女性に注文のコーヒーを持って行ったところ、その女性は修一をまじまじと見たかと思いきや、いきなり彼の手を握りしめ、「我々は前世で恋人同士だったんです」と言い放ちました。

いきなりそんなことを言われて驚かないはずはありません。修一も、その言葉を聞いていた雫もあっけにとられます。その女性・雪村千夏によれば、前世とは18世紀、市民革命で揺れるパリでのことだそうです。

 「前世」での出来事を話し出す千夏。リアリティのある内容で、聞いていた雫など、涙を流し始めました。

 

 その女性、日を改めてまたトルンカを訪れます。これ、一体どうなるのでしょう。

 

谷中商店街と『谷中レトロカメラ店の謎日和』

 

 もう一つ、柊サナカ『谷中レトロカメラ店の謎日和』(2015・平成27)を。

 前述のトルンカが喫茶店なら、こちらはカメラ店です。今宮写真機店と言います。中古のクラシックカメラ専門店です。デジタルカメラは扱いません。店もクラシックで、小さくて古びた木造の2階建て。ただ、3代目店主の今宮龍一だけは「クラシック」ではなく、まだ34歳。くるんくるんの癖毛がよく目立ちます。

 

 この写真機店に、ある日から山之内来夏(やまのうち・らいか)という24歳の女性がアルバイトとして働き始めました。彼女はクラシックカメラが縁となって、この店を知り、アルバイトすることになりました。

 クラシックカメラに興味を持つのは大人だけではありません。小学生の古田聡もマニアのようです。20も年齢の違う龍一と聡とがカメラ談義に花を咲かせている姿、来夏の目にはほほえましく映ります。

 ところがある日、聡の母親が店にどなりこんできました。どうやら聡は中学受験をするらしい。母親にとって、聡のカメラ好きは受験の妨げ以外の何物でもないようです。それがもとで聡とトラブルになり、聡は部屋に閉じこもり、家具を放り出したりしているのだとか。そんな中、塾の友人を介して、聡から今宮写真機店宛てにプリントの束が届けられました。何のメッセージだろう、とプリントを見た来夏は思わず首をかしげます。ただの小テストだったからです。

 わかりました。メッセージはどうやらそのプリントの裏にあるようです。ただ、来夏にわかったのはそれだけ。内容は謎でした。でも龍一は何かつかんだようです。