銀座物語散歩です。

銀座四丁目交差点と『マイナス・ゼロ』

  銀座四丁目交差点に出ました。晴海通りと銀座通り(中央通り)との交差点になります。三越前には待ち合わせの人が絶えません。和光は格調高いビル建築が特徴ですが、ここは以前、服部時計店のビルでした。あのセイコーですね。この時計塔は1932(昭和7)年に完成したそうです。

  

   広瀬正の傑作・『マイナス・ゼロ』(1970・昭和45)には、1932年5月の銀座が描かれていますが、残念ながら服部時計店のビルは「目下工事中」でした。

 『マイナス・ゼロ』はタイムトラベルの物語です。

 

 物語の始まりは1945(昭和20)年5月25日。13歳の浜田俊夫少年は、小田急線梅ヶ丘で空襲に遭います。彼は無事でしたが、隣人は亡くなってしまいました。この隣人は大学の先生で、自宅にドーム型の研究室を有していました。何の研究をしているのか、詳しいことは不明です。俊夫にはこの先生よりも、その娘・啓子の方がずっと気になる存在でした。しかし、この時の空襲で、啓子も行方不明になってしまいます。

  先生は臨終間際、俊夫に謎めいた依頼をしました。18年後の1963(昭和38)年の5月26日の午前0時に研究室を訪れてほしい、というのが内容です。

  俊夫はその依頼を実行しました。約束の時間に約束の場所へ行った彼が見たものは啓子でした。俊夫は31歳になっているのに、啓子は空襲の時のままの格好、女学校5年生の姿でした。

  先生の開発したタイムマシンで、空襲の時空間から飛んできたようです。先生は啓子を俊夫に託したと思われます。

  

  ところがその後、今度は俊夫がタイムマシンに乗り、過去の世界に向かうことになりました。目的とする時代は1934(昭和9)年だったのですが、どうしたことか、到着したのは昭和7年の東京でした。さらに困ったことに、乗ってきたタイムマシンを予想外の出来事で失ってしまいます。

  彼は仕方なく、その時代にしばらくとどまる決心をしました。

  

  彼が銀座を訪れたのも、そんな時です。「現在」の物の値段を知る必要を感じたからです。ただ、彼にはもう一つ、銀座を訪れる目的がありました。

                                                                 

  この物語、銀座通りの当時の様子が非常に詳しく描かれていて興味深く思います。綿密な調査の上で記したのに違いありません。ストーリーも文句なしの一級品ですし、実に「お得」な作品といえるでしょう。

 

銀座三越と『うらなり』

 1934(昭和9)年のある秋の日、銀座三越の前で人を待つ50歳過ぎの男がいました。銀座三越は1930(昭和5)年の開店、和光の前身である服部時計店は1932(昭和7)年に新しいビルが完成したばかりですから、2つの建物は、さぞかしピカピカだったことでしょう。

 

 さてこの男ですが、名前は古賀といいます。小林信彦『うらなり』(2006・平成18)の主役、そして夏目漱石『坊っちゃん』(1906・明治39)の中で、「うらなり」と呼ばれていた人物です。小説『うらなり』は、『坊っちゃん』の話を下敷きにし、古賀の目から物語を追ったものです。

 『坊っちゃん』の中で古賀は、許嫁(いいなずけ)の美女「マドンナ」を教頭の「赤シャツ」に奪われ、なおかつ遠方に転任させられてしまうという目にあっています。

 あれから約30年が過ぎました。古賀は自分に降りかかったこの一連の出来事をどうふり返るのか、これがこの小説を読む面白さの一つです。

 

 古賀が三越の前で待っていた人は堀田という男です。「山嵐」ですね。古賀は在職中、かなり堀田を信頼し、相談をしていました。しかし、あの「坊っちゃん」は、古賀にとって大して重要な人物ではないようです。名前すら忘れています。彼が自分に好意を持っていたことは知っていますが、なぜ味方をしてくれたのか、その理由は今でも理解できません。古賀や堀田が「坊っちゃん」の言動をどう見ていたか、これも読みどころです。

 

 冴えない人物と自らも任じる古賀ですが、彼も男。その後どのような女性と、どう交際したのかも書かれています。

 

資生堂パーラーと「エイプリル・フール」

 銀座通りを歩きます。右手に資生堂パーラーが見えてきました。

 資生堂の始まりについては、エドワード=サイデンステッカーの『東京 下町山の手』(1986・昭和61)に書いてありました。

 それによると、明治5(1872)年に銀座で発生した大火災の後、銀座に開業した薬屋が資生堂の前身だそうです。創立者は海軍の薬剤師で福原有信(ふくはらありのぶ)と言います。彼は薬以外に、石けんや歯磨き粉などの新商品を売り出し、その後化粧品の製造に進出しました。

 また、1902(明治35)年には、資生堂薬局の中にソーダ水とアイスクリームを製造・販売する「ソーダファウンテン」をオープンしました。これが現在の資生堂パーラーの始まり。「資生」というのは中国の古典から取った言葉だそうです。

 

 平井呈一の『エイプリル・フール』(1960・昭和35)という怖い小説に資生堂パーラーが出てきました。平井呈一は翻訳家として知られ、『小泉八雲全集』の翻訳が有名です。

 

 医学生の津田英二が、松濤にある兄の家を訪れると、義姉の江見子から奇妙な相談を受けました。見知らぬ男から不審な手紙が届いたというのです。差出人の男の氏名はわかりません。N・Hというイニシャルのみが手紙に記されています。

 手紙は江見子へのラブレターでした。資生堂でつい先程まで一緒の時を過ごした貴女に恋心がつのるばかりである、ぜひまたお会いしたいから、明後日資生堂に来てほしい、という内容 です。

 

 江見子には全く憶えのないことでした。その日の江見子は体調がすぐれず家から一歩たりとも出なかったので、銀座の資生堂など行けるはずがないのです。人違いとすると、江見子の名前と住所がはっきり手紙に示されているのが不思議です。悪意あるなにかの計略が潜んでいるかも知れません。あいにく江見子の夫は出張中で不在でした。そこで彼女は義弟の英二にすがったのです。

 

 英二は手紙が届いたのが4月1日と知り、単なる誰かのいたずらだと考えました。同じ人物からの同様の手紙はさらにまた来ます。そこで英二はその人物をつかまえようと、相手が江見子に来て欲しいと書いた資生堂パーラーに向かいます。

 

 さて、英二がそこで見たものとは?。

 

大阪圭吉と『銀座幽霊』

 金春通りに入りましょうか。この小路、左右は軒並みバーが並んでいますね。これがかの有名な銀座のバーです。銀座のバーを舞台にした作品はたくさんあるに違いありませんが、ここではミステリーを一つ紹介しましょう。

 

 作者の名前は大阪圭吉。1930年代に活躍した推理作家です。不幸にして太平洋戦争の犠牲になってしまい、才能を全て開花させることなくフィリピンで戦病死した人です。

33年あまりの短い人生でした。もし生きていれば、戦後も沢山のすばらしい作品を発表してくれたことでしょう。実に惜しい限りです。ただそれでも彼は既にいくつかの輝くような本格ミステリーを残していて、最近また評価されるようになり、作品集もいくつか出ました。

 

 そのうちの1冊のタイトルともなっている『銀座幽霊』は1936(昭和11)年の作品です。

 

 舞台はタイトルの通り銀座裏通りにある恒川という煙草屋でした。店の主人は40代の未亡人・恒川房枝です。娘も一人いますが、いつの間にか恋人ができたようで、その男は房枝の煙草屋に入りこむようになりました。ところがそこに新しく20代の澄子という女店員が雇われてからというもの、どろどろした三角関係に発展してしまいました。そして、殺人が発生します。

 現場を見たのは煙草屋の向かいにある「青蘭」というカフェ(今のバーのようなものと考えればよいでしょう)のホステスたちでした。

 

 ホステスたちが見たのは血まみれの剃刀を持つ房枝の姿でした。目撃者は皆、三角関係ももつれのあげく、房枝に澄子が殺されたものと考えます。現場には案の定、澄子の死体がありました。ところが房枝もまた、その家で死体となって発見されるのです。そして鑑識の結果、不思議なことに房枝の推定死亡時刻の方が、澄子の推定死亡時刻よりも前であるということがわかります。

 謎です。目撃者の証言と合わせると、先に死んだ房枝が幽霊になって澄子を殺した、としか考えられません。

 

 いったいこの事件の謎はどう解明されるのでしょう。

 

豊岩稲荷と「怪談 銀座稲荷」

 豊岩稲荷神社はその場所が注目です。こんなところに…と思わず言ってしまうようなビルの谷間に鎮座しています。しかも拝殿に行くためにはビルとビルの狭い隙間に入っていかなければなりません。文章でいくら説明してもこの空間の不思議さは実感してもらえないと思います。行ってみるにしかず、です。

 

 加納一朗「怪談 銀座稲荷」(1961・昭和36)では、この昼でさえ暗い空間に不思議な出来事が起きます。

 11月の夜でした。拝殿の前にうずくまる女の幽霊が出るという噂が起こります。幽霊というのは半年前に自殺したあるバーのホステスでした。咲子という名前のそのホステスは、死んでしまった恋人の後を追って自殺したということでした。ところが今度は咲子の勤めていたバーのバーテンが殺されてしまいます。新聞記者の島村はこの一連の事件に興味を抱いて調査をしているうちに、咲子に関してある新しい情報を手に入れました。

 

文学散歩的名所あれこれ

 銀座6-6-7は、以前滝山町といっていた地域の一部で、ここに朝日新聞社がありました。今、工事中の建物の前に、石川啄木のレリーフがついた碑が建っています。『一握の砂』(1910・明治43)に収められた歌が刻まれています。

  京橋の滝山町の

  新聞社

  灯ともる頃のいそがしさかな

 

  一生を貧困に苦しんだ歌人・石川啄木(1886~1912)は24歳のとき、この朝日新聞社に就職し、校正係をしていました。

 

  「文壇バー」として有名になったルパン島崎藤村や北村透谷が通った泰明小学校『君の名は』で知られた数寄屋橋跡の碑など、銀座は文学散歩的名所がたくさんありますが、時間の関係で割愛し、「物語散歩隊」は最後のポイントであるソニービルに向かうことにします。

 

 

マキシム=ド=パリと「数字錠」

  フレンチレストランとして有名なマキシム=ド=パリは、1966(昭和41)年のオープンで、ソニービルの地下3階にありました。ランチコース6300円から(!)というように、高級感たっぷりの店でしたが、2015(平成27)年6月30日で閉店しました。

 

  在りし日のマキシムといえば、島田荘司のミステリー短編集『御手洗潔の挨拶』(1985・昭和60)の中の「数字錠」が思い出されます。

  

  1979(昭和54)年の年末、東京四谷の看板業の社長が殺害されます。占星術師で探偵の御手洗潔は、密室で行われたその殺人事件に興味をもち、推理を始めます。ちょうど引っ越しのための荷造りの最中でもあった御手洗は、社に勤める17歳の少年・宮田誠と親しくなり、彼に荷造りを手伝ってもらいました。そのお礼にと、御手洗は宮田誠が一度は行ってみたいと夢見ていた銀座の高級レストラン「MP」に招待するのでした。クリスマス・イブの日でした。

 

ビルの地下にあることや、正装したボーイがいること、描写されている内装の豪華さなど、どれをとっても、この「MP」がマキシム=ド=パリをモデルとしていることはまちがいないでしょう。実名では登場しませんが、頭文字だけでもすぐわかってしまうのは、店の知名度と風格のなせるわざだと思います。

 

有楽町マリオンと『魔術はささやく』

  東京高速道路の下・銀座インズを通って向こう側に抜けるとそこは有楽町です。有名な有楽町マリオンが見えます。ここに映画を見に行った人、いますか? でも、このあたりに江戸時代、南町奉行所があったことは意外と知られていません。北町奉行所は、現在の東京駅の八重洲出口近辺でした。

 

 ここマリオンからくり時計で有名です。そして、このからくり時計に関連して、2つの作品を紹介したいと思います。まず最初は宮部みゆきの『魔術はささやく』(1989・平成元)。

 

 若い女性が3人、死んでいきました。自殺、轢死、そして交通事故による死亡。交通事故を起こしたのは個人タクシーの運転手でしたが、日下(くさか)守少年にとっては信じられないことでした。運転手の浅野大造は守の保護者です。守に両親はいません。父は4歳の時に失踪し、母は亡くなっているからです。そして父は公金横領を犯していたのです。浅野大造は守の伯父でした。事故など起こしたことのない優良ドライバーでした。大造は青信号で女性が出て来たと主張し、守もその言葉を信じますが、それを証明してくれる人が出ず、苦しい状況。しかし、そこに救援者が出現するのです。

 

 この物語、大きなヤマ場が2つあります。その最初の1つが起きるのがここ、有楽町のマリオンでした。

 

マリオンと『月曜日の水玉模様』

 マリオンの大時計下は待ち合わせのよい目印になります。加納朋子『月曜日の水玉模様』(1998・平成10)の萩広海も、この大時計の下で人待ちをしている1人です。彼が待つのは、丸の内に勤めるOL・片桐陶子。アーモンド型の目を持つ、笑顔が印象的な美人で、この物語の主人公です。

                   

 2人は同じ時刻の満員電車に乗って通勤しています。それがきっかけの1つとなり、お互い知り合うようになりました。広海は次第に陶子に心ひかれていきます。この日のマリオンでの約束も、広海が誘ったものでした。

 陶子は仕事がながびき、急いで待ち合わせ場所へ向かいます。30分の遅刻でしたが、めでたく落ち合うことができました。

 

 その後、食事の時に広海は、某会社で部内会費が36万盗まれたという話をします。疑われたのは1人の女子社員ですが、本人は強く否定しているとか。陶子は話を聞いているうちに、その一件とこの日自分が遅刻した原因との間に、関連性があることがわかりました。 

 

 陶子は仕事のできるOLですが、加えて大変秀逸な推理力の持ち主でもあります。彼女の優れた頭脳が広海の持ち出した話の謎を解くべく、活動を始めました。はたして真相は?