神楽坂散歩です。

 神楽坂周辺はいわゆる「文学散歩」のコースとしても知られます。尾崎紅葉・夏目漱石・泉鏡花・北原白秋など、超有名どころに関係する場所がたくさんあります。でも我々は「文学散歩」ではなく「物語散歩」としてこのエリアを歩きたい。

 物語に描かれた描写を元に町を歩いてみましょう

というのが物語散歩のコンセプトです。その視点で神楽坂を歩くのに絶好の作品がありました。

 古川日出男『サウンドトラック』(集英社・2003)

 小嶋陽太郎『友情だねって感動してよ』(新潮社・2018)

の2作品です。両方とも街の詳細な描写にあふれています。

 今回の散歩はいつもと異なり、先にこの2作品を読んでから歩いてほしい、と呼びかけました。この条件のために、申込者はぐっと減ってしまいました(笑)が、それでも9名の参加希望がありました。実に頼もしい精鋭たちです。

 もうひと作品、ほしおさなえ『東京のぼる坂くだる坂』(筑摩書房・2021)

の中にある「相生坂・赤城坂」の章も物語散歩に絶好です。この作品についての説明も当日加えましたあ。

 

 当日は晴れ。解散後しばらくして雨が降り出し、雷も鳴って驚きました。驚いたと言えば、この日の早朝に千葉県を震源とする地震がありました。そういえば夏目漱石も神楽坂を歩いているときに地震に遭って、同じ経験を『それから』の代助にさせた、ということを以前聞いたなあと思い出し、偶然にしては興味深いと感じました。 

 

神楽坂とその周辺散歩

 今回の物語散歩はこれまでと異なり、先に作品を読んでもらった上での街歩きです。古川日出男『サウンドトラック』(集英社・2003)と小嶋陽太郎『友情だねって感動してよ』(新潮社・2018)の2作品。この2作品については、中に描かれた場所を通るたびに「ここ」と言っていきますので、「こういう場所ね」と感じつつ歩いてほしいと思います。この2作品の関係地以外で紹介したい場所もあるので、それもそこに到着したら解説をしたいと思っています。

 

『サウンドトラック』とは

 一応『サウンドトラック』のアウトラインを。小笠原の無人島に流れ着いた幼い男の子と女の子(「トウタ」と「ヒツジコ」)それぞれについての物語と、新小川町に生まれた「レニ」の物語という、3つの大きな流れがあります。それらがどのように関係してくるかも読みどころの作品です。

 神楽坂に関係するのはレニの物語です。2007年、レニは13歳。作品の成立年からすると未来の物語です。7月の平均気温が37度を軽く超えるようになった東京。エネルギー事情と経済状況の変化により、低賃金労働力の需要が急増。海外からの就労者が爆発的に増えていきました。それに併せて入管法や外国人登録法も改められます。レニの住む新小川町(画像)及び東五軒町西五軒町はアラブ人の街となり、レバノンと称されました。看板には日本語とアラビア文字とが併記され、銭湯はアラブ風の公衆浴場に様変わりしています。日本語とアラビア語のバイリンガルであるレニは10歳で小学校に通うのをやめ、このエリアでたくましく生きています。レニの性別は届け出としては男ですが、本当のところは不明。男と女をエリアによって巧みに使い分けています。軽子坂牛込神楽坂駅近くでは女として、横寺町を除く大久保通りの北側では男として。どちらの性でいればよいか決めかねる場所もあります。赤城元町がそれでした。

 

軽子坂からスタート

 では、スタートしましょう。まずは集合場所から外に出た場所です。上り坂になっているのが分かりますか。軽子坂(画像)です。坂名標示柱の説明には、

 

 軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。

 

 とあります。この軽子坂も『サウンドトラック』(以降『サウンド』と略。『友情だねって感動してよ』『友情』と略)に何度か出てきていますね。軽子坂の一つ隣の坂が神楽坂です。まずはこのあたりで『サウンド』に出てくる場所を確かめましょうか。

 

MNビル(画像右のビル)…レニがイヌキという巨漢に「偵察」の目的を話す場所

 

神楽小路・みちくさ横丁…レニが「女」としてバイトをする場所

ギンレイ・シネマ跡前…レニとイヌキが最初に会った場所。

作品では固有名詞は出ず、「名画座」となっています。

神楽坂を横切る

 さて目の前は神楽坂ですが、その直前右手には少し前まで「紀の善」という甘味処がありました。今もその名残がありますね。(画像は閉業前の賑わいです。)

 

紀の善…イヌキがレニとクロイにテイクアウトした「抹茶ババロア」をあげる。

 

 「クロイ」というのは、レニが大切にしている友人、一羽のハシブトガラスです。

 

 なお、この「紀の善」は甘味処として有名でしたが、戦前は寿司屋でした。宮内省ご用達になったこともあります。

 北原白秋、吉井勇、木下杢太郎などが東京新詩社からの脱退を話し合ったのがここでした。

 「紀の善」の並びには、1889(明治22)年に創業した文房具屋「山田紙店」がありましたが、残念ながら2016(平成28)年に閉店しています 。夏目漱石、川端康成、吉行淳之介などが愛用したそうです。また、そのはす向かいにある島金といううなぎ屋は夏目漱石も利用しました。1908(明治41)年10月10日は、弟子の寺田寅彦の留学送別会で八王子に行った帰りに寄って夕食を取っています。

 

東京理科大から若宮公園へ

 さて、神楽坂を横切って、東京理科大方向に向かいましょう。漱石『坊っちゃん』(1906・明治39)の主人公が卒業した「東京物理学校」は東京理科大の前身です。『サウンド』では、理科大はすでに廃墟となっていて、「旧キャンパス」と記されています。

 

 小路の脇に案内板が立っています。泉鏡花旧居跡北原白秋旧居跡を示すものです。泉鏡花に注目しましょう。金沢の出身の小説家で、本名を泉鏡太郎と言います。代表作に『高野聖』『歌行燈』『婦系図』などがあります。案内表示によれば、1903(明治36)年から06年にかけてここに住んだそうです。鏡花は尾崎紅葉(本名・徳太郎)という当時の大流行作家の元に弟子入りし、紅葉の家の玄関番もしたことがあります。彼は神楽坂の芸者・桃太郎と良い仲になり、同棲を始めました。それを聞いた師の紅葉は激怒。無理矢理二人の仲を裂きます。

 

この先は『サウンド』の舞台ですね。

若宮公園(画像)…イヌキが持ってきた五十番の中華まんをレニも食べる。

他に小栗横丁・熱海湯階段なども記されていましたので見に行きましょう。

小栗横丁から若宮公園へ行く小道の描写は実に的確でとても面白く感じられます。

熱海湯階段はかなり趣のある場所で、生徒もさかんに写真を撮っていました。

神楽坂から仲通りへ

 熱海湯階段を上って再び神楽坂に出ますが、横切るだけですぐに仲通りに入ってしまいます。

 『サウンド』では、若宮公園から出たレニとイヌキは小学校へと移動。そのルートとして仲通りが出てきます。

 この通りの左手にある、芸者新路かくれんぼ横丁も名前が出ていますね。2人がある目的のために入り込んだ小学校も、そのモデルと思われる津久戸小学校が、作品に出てくる位置そのままに存在しています。

 

 このまま軽子坂を上っていきましょう。右手には三念坂。直進して道が右手にカーブするあたりは和泉長屋横丁で、ともに『サウンド』に出てきています。作品ではレニの進む《道行》として出てきます。自分の住むエリアから神楽小路に出るルートなので、我々の進行方向とはちょうど逆になります。

兵庫横丁と加藤実秋作品

 同じ箇所に「石畳の料亭街を右手に見て」とあります。我々の進行方向としては左手になります。この路地は兵庫横丁と言うようです。「兵庫」とは武器庫のことで、「新宿観光マップ・神楽坂」によれば、戦国時代にあった牛込城の武器庫があったことが由来だそうです。そこに見える「和可菜」は黒川鍾信『神楽坂ホン書き旅館』(2002・平成14)でさらに有名になった旅館で、作家、脚本家、漫画家など、様々な文筆業の方々がここで多くの作品を生み出しました。「新宿観光マップ」では野坂昭如や山田洋次の名が出ていました。現在は一時閉店状態のようです。このあたり、かなり趣ある場所となっています。

 

 ここで別の作品を一つ紹介します。加藤実秋『ご依頼は真昼のバーへ』(角川書店・原題『黄金坂ハーフウェイズ』2011)です。

 3代続いて神楽坂に住んでいる今村隼人(いまむら・はやと)は就職浪人中。福岡の大学を卒業後、神楽坂に戻ってきました。再会したかつての同級生・田部井楓太(たべい・ふうた)から1軒の立ち飲みバーを紹介されたところから物語が動き始めます。「えんま坂」の坂下近くにあると設定されているこのバーは「HOLLOW(ホロウ)」といい、会員制で営業時間が8時から16時までというのが変わっています。このバーで知り合った神楽坂の芸者から頼まれたことがきっかけとなり、隼人は神楽坂の街で起きた謎の解明に乗り出すことになってしまいました。それぞれの章で発生する出来事とは別に、隼人は過去に何か大きな事件に遭遇しているようです。それは身近な人の死に関係していて、隼人の心の闇となっています。その内容が読み進むに従って、次第に明らかになる仕組みです。

 その中に旅館「和可菜」をモデルにしたと思われる記載がありました。そこでは別名「モノ書き旅館」と言われている、とあります。似ていますね。

 

毘沙門天の善国寺

 そのまま兵庫横丁を進みましょう。細い道と交差しますので、右に折れて階段を下ります。下ったところに小さな公園がありますね。寺内公園と言うそうです。ここにも案内表示がありますので見てみましょう。

 それによると、ここには鎌倉時代から行元寺という寺院があったそうです。神楽坂の花柳界発祥に関係する、とか、そうそうたる有名人がこのあたりに住んでいたとか、かなり有用な情報が記されています。行元寺は現存しますが、区画整理で品川区へ移ったそうです。

 先の十字路まで戻って、今度は右に折れます。少し進むと神楽坂の通りです。目の前には寺院。神楽坂と言えばここ、というくらい有名なお寺、毘沙門天を祀る日蓮宗の善国寺です。16世紀末に馬喰町に建立され、18世紀末に類焼でこの地に移転しました。『坊っちゃん』の中にも、

 神楽坂の毘沙門の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまった

とあります。もちろん、この「毘沙門」というのがここです。

 

ヒキタクニオ作品と神楽坂

 次にこの作品を紹介しましょう。ヒキタクニオ『上を向いて歩こう』(講談社・2008)です。

 この物語の主人公・桐山(きりやま)の営む会員制の湯屋「花鳥風月」は、善国寺の裏手、石畳の敷かれた小路の先(画像)に設定されています。店の規模はごく小さなものです。神楽坂らしく、元々は大店の旦那が芸者衆の専用にと作った湯屋でした。その後持ち主が転々とし、現在は桐山が所有しています。改装の時に、カウンターバーもしつらえ、雰囲気の良い湯屋になりました。

 自ら酒肴を作り、カウンターにも立つ桐山は明るく気さくですが、三白眼で少し強面の雰囲気です。それもそのはず、桐山は以前、裏社会で生きていた人間でした。10年程前に廃業し、湯屋を始めたのです。

 湯屋の客も個性的です。たとえば定年退職1年目の藤本(ふじもと)。彼は神楽坂界隈の一方通行路をすべて頭に入れていて、違反する車がいないか、日夜自発的な監視をしています。違反車両には警笛を鳴らし、バックさせます。周りは彼に「一通大臣」なるあだ名を奉りました。正義感に燃えたその指導は徹底しており、時に相手に「逆ギレ」されることにもなります。通りかかった桐山に救われたこともありました。

 なぜ藤本はそうまでして一方通行指導に燃えるのでしょうか。それにはちょっぴり哀しい理由が関係していました。

 

神楽坂の名店

 このあたりには「文学散歩」として知られた場所が多くあります。善国寺の隣には、田原屋(画像)という店がありました。1914(大正3)年に牛鍋屋として開業し、のちに洋食屋になったお店です。1階はフルーツショップでした。夏目漱石、菊池寛、佐藤春夫、永井荷風などが通いましたが、2002(平成14)年に閉業しました。

 向かいの文房具店相馬屋は江戸時代創業とも言われる歴史ある店です。紙漉きから紙問屋へ、そして戦後に文具店になりました。多くの文豪がここの原稿用紙を使いました。

地蔵坂と西條奈加作品

 相馬屋の向かいの道を入りましょう。かなり急な上り坂です。地蔵坂と言います。『サウンド』では「若宮町の庚嶺坂(ゆれいざか)と岩戸町(いわとちょう)の地蔵坂に挟まれた西南地域」である「小(プチ)フランス」の説明に出てきました。

 坂名標識の説明を記します。

 

 この坂の上に光明寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。これに因んで地蔵坂と呼ばれた。また藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。

 

 坂のある道は、藁店(わらだな)横町とも言うようです。ここにはかつて「和良店亭(わらだなてい)」という寄席があったそうです。漱石は少年時代にここに通ったと語っています。

 

 

 

 落語(はなし)か。落語はすきで、よく牛込の肴町(さかなまち)の和良店へ聞きにでかけたもんだ。(「僕の昔」)

 

 横にお寺がありました。光照寺です。戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があった旨の史跡表示があります。ただ、城内の構造については記録がないため、詳細は不明だそうです。「城」とはいうものの、「住居を主体とした館であったと推定される」そうです。

 

 この坂について、一つ作品を紹介します。西條奈加『無花果の実のなるころに』(東京創元社・2011)です。

 

 物語の語り手「僕」こと滝本望(たきもと・のぞむ)は中学生の男子。神楽坂は本多横丁の中ほどにある小さな履き物店で、祖母の「お蔦(つた)さん」と暮らしています。父親が札幌に転勤になり、母親も一緒に北海道に行ってしまったからです。「お蔦さん」は元芸者。豊かな人生経験から来るものでしょう、彼女の言葉は説得力があり、物語の中で大きな存在感を示しています。探偵としても優秀。物語の中で発生する奇妙な出来事に関して謎解きをします。

 

 新宿区で「蹴とばし魔」と呼ばれる通り魔が出没していました。自転車によって通行人に近づき、思い切り蹴とばしてそのまま逃げ去ります。女性ばかり5人が被害に遭い、腰骨を折る被害者もいました。5人目はこの地蔵坂で襲われました。

 

 望のもとに驚くべき知らせが届きました。望の小学校時代の同級生・洋平が職務質問を受け、自分が「蹴とばし魔」であると認めたというのです。「蹴とばし魔」は犯行時、いつも黒のパーカー姿でしたが、職質を受けた時、その証拠のパーカーも洋平は手に持っていました。

 望は洋平の性格をよく知っていました。彼は誰かをかばっている、そう望は思います。さて真相はどうなのでしょう。「お蔦さん」の鋭い人間観察が光る一編です。

 

横寺町と稲垣足穂

 先を急ぎましょう。地蔵坂を抜け、カーブした坂を下ると大久保通りに出ます。地下鉄の駅がありますね。都営大江戸線の牛込神楽坂駅です。我々は大久保通りを渡ります。目の前に公衆トイレがあり、その右横に大変に狭い上り階段があります。これ、袖摺坂と言います。道幅が狭いので、すれ違う人の袖と袖が摺れるから、という納得の理由です。

 

 この坂の上、進行方向右手にかつて、小説家の稲垣足穂(1900~77)が住んでいました。1938(昭和13)年のことです。このあたりは横寺町(よこでらまち)という地名です。

 稲垣足穂は、独特の作品世界を構築した人で、代表作に『一千一秒物語』(1923・大正12)があります。一種のショートショートと言えますが、その内容は幻想的とも神秘的とも幻惑的とも、なんとも表現しづらいです。

 これまた代表作の一つである自伝的小説『弥勒』(1946・昭和21)の第二部「墓畔の館」に、横寺町に住んでいた時の様子が描かれています。

 

 主人公の江美留は作者の分身と考えられます。彼は横寺町にある古い家の2階に一室を借りて住み始めました。酒好きの彼にとって、近くにある酒場で飲ませる濁り酒や焼酎は何よりの幸せでした。その酒を彼は断つことになりました。金がないからです。部屋にあるものは売り払われ、夜具は古カーテンで間に合わせるという有様です。

 そのような状況に陥ったことについて、江美留は後悔をしていません。断酒そして断食。それらは主人公の観察力や感受性をこの上なく研ぎ澄ませて行きました。部屋の窓ガラスにある気泡の一つに分光器作用を見いだしたり、電灯に集まる小虫から箴言を得たり。どん底まで沈みきったとするなら、その後のふるまいは全て浮揚に通じる、と彼は思います。そんな彼に酒食をふるまう知人がいて、この時期の断酒や断食は長く続きません。酒は彼に不敵ともいえる、妙な自信を生じさせます。が、それは大きな反動となって、翌日の彼を苦しめます。

 

 この後、江美留の状況はさらに極端の度合いを強めていきます。彼の思索はどこまで深まっていくのか、タイトルにある「弥勒」はどのような形で出現するのか。

 

 稲垣足穂は大の酒好き。近くには稲垣足穂が通っていた飯塚酒場(縄のれん)がありました。その後、飯塚酒店になり、やがて閉店。店は閉ざされてもその建物だけはしばらく残っていました(画像)が、現在はもう建物自体が消えています。このあたりはお寺が多いですね。坂道は朝日坂というそうです。『サウンド』でも横寺町と朝日坂について軽くですが描写があります。

 

横寺町と尾崎紅葉

 先に紹介した明治の作家・尾崎紅葉の旧居跡がありますので見てみましょう。鳥居さんという人の家です。尾崎紅葉はこの地に、1891(明治24)年から1903(同36)年に亡くなる時まで住んでいました。紅葉はここを「十千万堂(とちまんどう)」と呼びました。泉鏡花が玄関番をしていたと前に書きましたね。1891(明治24)年、泉鏡花18歳(満年齢)の時でした。鏡花はここで師匠・紅葉と貴重な多くのふれあいをしたそうです。

寺町と大佛(おさらぎ)次郎作品

 

 横寺町というくらいですから、お寺が多いです。明治の地図を見ると、本当にたくさんの寺院が並んでいます。当時は横寺町以外に、通寺町(とおりてらまち)という地名も見られます。徳川家光の時代、外堀を掘るにあたって移動させられた寺院が多いそうです。

 

 

 大佛次郎(1897~1973)の小説に「怪談」という短編があります。1929(昭和4)年に発表されたフィクションです。そこには、牛込の通寺町に一件の家を借りた男が味わうことになった、非常に不気味な体験談が記されていました。

 

 江戸時代の末期でした。日本橋近くに本宅を持つ清兵衛は、茶屋の女・お村と関係を持ち、この寺町に別宅を借りました。もちろん本妻には言えない秘密です。小さいけれど古くはなく、日当たりも良い。家賃もごく普通でした。気に入った2人はさっそく引っ越し、仲間連中と家で祝宴を張りました。やがて客も引き上げ、家に静寂が戻りますが、清兵衛の心は寂しさとは無縁でした。横に愛しい女性・お村がいるからです。

 やがて2人は床に入りました。深更、寝入っていた清兵衛は浅く目覚めました。寝具の外に出していた自分の腕を、お村がそっと握ったように感じたからです。相手のその手が大変に冷たいのが気になって、清兵衛は自分の胸元に引き寄せました。

 次の瞬間、清兵衛ははっきりと目覚めました。

 その氷のように冷たい手は、手首だけで、肘から先がなかったからです。

 

 ラスト近くにストーリー上の大きな展開があるおはなしです。

 牛込通寺町はのちの町名変更で神楽坂6丁目となりました。清兵衛の妾宅は赤城神社の近くに設定され、家のすぐ裏は畑だとあります。もちろん、今は畑など全くありません。このにぎやかさでは想像力を働かすのも難しいです。早稲田通りは、神楽坂下からずっと商店が並び、にぎやかです。清兵衛が妾宅の場所として適切と考えた頃とはかなり雰囲気が違います。

 

『友情だねって感動してよ』とは

 『サウンド』同様、ここで一応『友情』について紹介しておきます。6つの短編からなる物語で、この作品には東京メトロの神楽坂駅近くの赤城神社とあかぎ児童遊園がモデルと思われる場所が頻繁に登場します。6つの作品相互の繋がりは人物的にはあまりありません。特にそれぞれの主人公となる人物についてはそうです。ただ唯一、公園や神社に出没する謎の男だけは作品全体にわたって現れます。

 

第三玉乃湯から白銀公園へ

 神楽坂の通りにまた出ます。少し坂を下って大久保通りとの交差点に出て左折、『サウンド』の物語世界にまた踏み入りましょう。以下の場所が次々に現れます。

 第三玉乃湯 瓢箪坂 成金横丁 白銀公園

 すべてイヌキにとんでもない危機が迫る場面となっています。緊迫感のある表現が続いています。瓢箪坂とは面白い名前ですが、途中でいったんくびれ、さらに盛り上がっているので、その形をヒョウタンの形にたとえたものだそうです。

 白銀公園(画像)は、『サウンド』でレニがクロイのパートナーのむくろを埋めた場所としても記されています。また、『友情』では本のタイトルと同じ名前の最終章で、クラスメートをボールペンで刺して停学になった湯浅を主人公の「僕」が発見する場所として描かれています。

 

赤城神社に入りましょう

 さてその先がいよいよ『サウンド』『友情』共に超重要箇所となる赤城神社です。『友情』では「青木神社」となっていますが、ここをモデルにしたことは明かでしょう。先ほど紹介した『ご依頼は真昼のバーへ』でも出てきます。その作品の中では「高城神社」となっています笑。

 

 赤城神社は群馬県赤城山麓の大胡氏が南関東に出た時に勧請した社です。大胡氏は北条氏に招かれて16世紀前半に牛込に移住したという説がありますが、15世紀初めに赤城神社に奉納したという大般若経の写本があるので、すでにその頃には赤城神社はあったのではないかとも考えられています。

 

 主祭神は「磐筒雄命」(いわつつおのみこと)と「赤城姫命」(あかぎひめのみこと)の二柱です。磐筒雄命は『古事記』にも出る神です。赤城姫命は大胡氏の息女ではないかとされています。

 

 見て分かるとおり、カフェがあったりマンションがあったりと、かなり神社らしくないたたずまいの境内ですね。現代的、と言うべきでしょうか。隈研吾氏の設計です。これについては『友情』の中でも何度も触れられています。特に「象の像」の中に出てくる、

 

 その神社には、本来そこにあるべき大事な何かが去ってしまったあとのがらんとした抜け殻のような空気がある

 

 という表現は示唆的です。『ご依頼は真昼のバーへ』にも、「カフェやギャラリーを併設した高級分譲マンションが建った」とありました。ただこちらでは「神楽坂の新たな観光スポットとなった」と、このイノベーションをどちらかと言えば好意的に捉えているようです。

 

神社のHPには、

六十五年後には集合住宅を取り除き、再び境内の緑地を深い森として蘇らせ、静寂な御神域を守っていく息吹の長いプロジェクトです。是非ともあたたかく見守っていただきたいと考えます

 というメッセージがありますので、長い目で見ていくべきなのでしょう。

 

 

 赤城神社の裏手にまわると、この神社がかなりの高台に作られていることがよくわかる場所があります。もとは幼稚園があったそうで、それを示す碑も建っています。『サウンド』にもそのことは書かれていますが、それよりもここはクロイとレニの敵である「傾斜人」の住む場所となっていることですね。大変残念なことに、現在その崖に当たる部分の工事を行っているので、近づけません。下からまわって見上げてみることにしましょう。

 

赤城神社周辺をめぐります

 ぐるっとまわるついでに、『サウンド』に出てくる場所を見ましょうか。まずは相生坂。レニはクロイのパートナーを埋めようとする場面。レニは白銀坂から相生坂を下って白銀公園に出ます。

 相生坂を下りきる直前左手に、真清浄寺という法華宗のお寺があります。HPによれば、元和2(1616)年に京都西陣に建立され、明治の東京遷都でここに移ったそうです。この門前に祀られている地蔵尊は『サウンド』に出てきます

 

『東京のぼる坂くだる坂』

ここでほしおさなえ『東京のぼる坂くだる坂』について紹介します。

 

 主人公の蓉子は学術書の編集者です。蓉子の父は彼女が8歳の時に家を出ていきました。彼女はその後、母と2人で暮らしました。

 父は坂が好きな人で、特に名前のある坂の近くを選んで住んでいました。父が亡くなった後、蓉子は父の住んだ近くにある坂道をたどるということを始めました。

 

 その中の15番目の章は「相生坂・赤城坂」です。蓉子は我々が進んでいるのとちょうど逆のルートを進んで赤城神社に来ています。『サウンド』に描かれたのとほぼ同じ光景を蓉子も見ているわけです。特に赤城神社の裏手の描写は『サウンド』と比較してみると大変興味深いです。(画像は相生坂)

 この小説にはイラスト地図もついていて、我々が訪れた場所もしっかり記されていて、なんだか嬉しくなります。

 

 赤城坂(画像)に出ます。かなり勾配のきつい坂です。坂を下って直進すると神田川です。その近くに『サウンド』で、レニが初めてクロイを見た歩道橋がありますが、ちょっと距離がありますので見に行くのはやめ、坂を上ることにします。ここはアニメ映画『天気の子』の「聖地」の一つでもあります。

 

 赤城坂の坂上から右折する細い道が二本あります。高低差が少しあります。上の方の道を歩くことにしましょう。この道は、イヌキが猿の面をつけた凶漢たちに襲撃され、逃げた時に使ったルートです。やがて左手に道が現れます。神楽坂通りまで通じていることが分かります。少し勾配があります。標示はありませんが、ここは「朧(おぼろ)の坂」と言うそうです。イヌキはこの坂を使えば神楽坂通りに出ることができたのですが、既に敵に塞がれて抜けられませんでした。「ほんの数メートル脇に、営団東西線の神楽坂駅入り口があるというのに」です。彼は仕方なく道を直進します。

 

あかぎ児童遊園に入ります

 『サウンド』では走る居貫の近くにありながら利用されることはなかったのが「あかぎ児童遊園」です。その入口だけが描写されました(画像)。

 でもここは『友情』においては本当に重要な舞台の一つです。

 

 二つの並行する小道の間に作られたこの公園、その二つの道の間の高低差を象の滑り台によって解消するという面白いデザインとなっています。ただ、この象さん、頭部だけで体がありません。そしておめめもちょっと表情に乏しい。それらについては『友情』の中にも何度も触れられていて、ひょっとしたら作者さんの創作意欲をかき立てなのではと思ったりもします。もちろんここで遊ぶ子供たちはそんなことは全く気にならないようで、思いっきり滑り台を楽しんでいます。『友情』にあるように、動物の形をした椅子? がいくつもあります。

 

さて、ゴールが近いです

 いよいよこの散歩もクライマックスです。公園から道に戻り、先を進みます。『サウンド』には比丘尼坂(画像)が記されます。

 

 居貫の逃走もクライマックスです。彼はどこにたどりついたのでしょうか。実際に見てみましょう。

 

 『サウンド』ではまだ「営団東西線」となっていますが、今は「東京メトロ」の神楽坂駅、ほんのすぐ先ですので、そこまでご案内して解散としましょう。

 お疲れ様でした-。