築地川公園周辺の物語散歩です。

三吉橋と『下町小僧』

 さて、今回の物語散歩は、東京メトロ有楽町線の新富町駅から始まります。地上に出ると、高速道路が下を流れている光景が見られると思います。これは築地川の跡。ただ、川はなくなっても橋は架かっています。この橋、ちょっと形が変わっていて上から見るとYの字型になっています。これが三吉橋です。今でこそ橋の下は高速道路となっていますが、以前はこの橋の下で築地川と楓川とが合流していたため、このような変わった形の橋となりました。橋の完成は昭和4(1929)年12月です。川は昭和37(1962)年に埋め立てられました。

  

  タレント・なぎら健壱の著書である『東京昭和30年下町小僧』(1988・昭和63)は、昭和30年代の下町の子供たちの様子が実に克明に記されていておもしろい本ですが、三吉橋のことが少し書かれていました。

 

 その中の、「銀座の思い出Ⅱ」の章によると、築地川が埋め立てられたのは、なぎら氏が小学校2年生の時だったそうです。残念ながら当時の築地川は汚染が甚だしく、悪臭は発する、メタンガスの泡は破裂する、で、とても残念な状況だったようです。

 

 珍しいデザインのこの三吉橋についても、「かつては東京の名所であったのが、今では話題にすら昇らなくなってしまった」と、手厳しいことが記されています。

  

旧築地川と「橋づくし」

 この三吉橋三島由紀夫が1956(昭和31)年に発表した小説『橋づくし』に描かれていることはよく知られています。その一節を記した碑も橋のたもとにあります。

 

 陰暦8月15日の夜、銀座の芸妓・小弓とかな子、料亭米井の一人娘・満佐子、そして女中のみなの4人は、築地川の7つの橋渡りというまじないを行います。家を出てから7つの橋を渡りきるまで決して口をきいてはいけないという約束で、成功すれば願い事がかなうのです。小弓(42歳)の願い事はお金。かな子(22歳)の願いは、良い旦那運。満佐子(早大芸術科)は、一度米井に来たことのある好きな映画俳優Rと一緒になることでした。彼女たちは築地川に向かいます。出発点は三吉橋、目的地は備前橋という橋です。

 ところが、三吉橋、築地橋、入船橋、暁橋、堺橋、備前橋と行くうちに、様々な理由で、一人また一人と脱落してしまいます。さて、最後まで完遂できたのはだれになるのでしょうか?

    

  上に記した橋の数は6つ。でも「7つの橋渡り」としています。この矛盾はスタート地点である三吉橋の特殊な形態がキーとなって解けます。

 

 

 我々も彼女たちと同じ方向に進んでみましょう。

 

三吉橋と『橋上幻像』

 あ、出発する前に、三吉橋に関する物語をもう一つ紹介したく思います。堀田善衛「橋上幻像」(1970・昭和45)です。

      

 物語の冒頭、語り手である「私」は、読者とも受け取れる「君」に対し、Y字型の橋の中心に立ってくれるよう、しきりに誘っています。妙な形の橋ですから、橋のことをいろいろ尋ねたくなります。するとその行為により、橋はその存在が半ば信じられたものとなり、一瞬でも橋の中心に立てば、「一つの幻像が成立する」のだそうです。我々が現実と信じているものは、我々にその存在が半ば信じられているものの積み重なりによって成立している、と「私」は言います。

 さて、いよいよ「君」がその橋の中心点に立ちました。これから三つの物語が開示されようとしています。すべて何らかの形で戦争に関係している物語です。「生」について、平成の時代に生きる我々に対しても深く考えさせる内容を含んでいます。

     

 小説内では名前が語られないY字型の橋モデルは三吉橋です。単行本版の付録にある、作者と安岡章太郎の対談によれば、作者はこの小説が出される10年以上前からこの橋を書きたく思っていたそうです。現在ではその下を高速道路が通っている三吉橋。作者は橋の下に川が流れていた時の記憶も語っています。前述の『下町小僧』の記載と同様、その水はあまりきれいではなかったようです。物語に描かれる橋周辺の風景は現在とかなり異なりますが、これも作者の記憶を反映したものです。

 

中央区湊と『ポーカー・ブルース』

 築地川から少し離れます。入船橋から東に歩くと、中央区湊という地名が見られます。亀島川やかつての桜川が隅田川に合流する場所で、昔は江戸湊に入った大型船がここで荷揚げをし、その荷はここから小型船で江戸市中に運び込まれました。今は風景も変わりましたが、納得の地名です。往事の繁栄は容易に想像できます。

 

 樋口修吉『ポーカー・ブルース』原題『たそがれトランプ』1995・平成7)は、どの章もトランプによるばくちが物語の展開に大きく関わっています。

 

 岩佐慎二は中学生の時、戦争で両親を失いました。湊町(旧町名)の長屋出身の彼は、裏の運送店の次男坊・小原に職を紹介してもらい、戦争直後を生き延びます。終戦から6年後、小原は湊町に自分の店「オハラ」を開きました。バーを兼ねた軽食堂です。慎二も「オハラ」で働くことになります。小原は慎二より10以上も年上。人生経験も豊かで、世間の裏もよく知っているようです。店には地元の人をはじめ、キャバレーのダンサーたちも来るようになりました。常連客は店の奥の部屋で、トランプを使ったばくちに興じたりもします。

 ある日の開店前、2人の美女が入ってきました。2人は姉妹で、妹の方が気分が悪くなったので休ませてほしいとのことでした。上品な雰囲気を持つ2人に、慎二も小原も心が大いに動きました。妹の気分も直り、4人は楽しく語らいます。とても良いムード。ただ、常連たちが使うトランプやチップを姉妹に見られてしまったのだけはちょっと気まずかった。

 数日後、何と姉妹からお礼と共に映画へのお誘いがありました。この後、なかなか面白い展開が待っています。

 

 95年版のあとがきで作者は、湊町が土地勘のある場所である旨を述べています。記憶を補うための調査もきちんと行われているため、当時の世相や築地近辺の様子を大変詳細に知ることができます。

 

鉄砲洲と『鉄砲洲稲荷』

 かつての桜川河口南側から隅田川にかけての地域に「鉄砲洲」という俗称があります。江戸時代から続く呼び名で、今も残っています。

 

 「鉄砲洲」の名が現役であるということについては、特に湊1丁目にある鐵砲洲稲荷神社の存在が大きいと思われます。その歴史を平安時代までさかのぼれるという古い神社です。境内には富士塚もあります。

 車谷長吉『妖談』(2010・平成22)は、タイトル通り、様々な意味あいでの「妖しさ」が味わえる掌編小説集ですが、その中に「鉄砲洲稲荷」の一編がありました。

 

 駒込千駄木町に住む「私」は、ある晴れた日、神田神保町の方へ向かいました。「簡単な道」を嫌う「私」は地下鉄を利用せず、歩きます。

 気づくと、背中に赤ん坊を背負った女が歩いています。女はなぜか涙を流していました。女も「私」同様に、交通機関を利用することなく歩き続けています。

 やがて女は万世橋を渡り、日本橋の方向へ。「私」は神保町の方へ行くのをやめ、女の後をつけてみようと思います。彼女は京橋を左に折れ、桜橋から八丁堀、入船町へ。もう少しで鐵砲洲稲荷、という所で立ち止まりました。

 女は背中から赤ん坊を下ろして抱くと、「私」に近づき、少しの間預かっていてほしいと依頼します。女の目には涙の跡がありました。赤ん坊は女の子で、目を開けて「私」を見ています。女は「私」に赤ん坊を預けると一軒の家に入っていきました。

 しかし、そのまま女は家から出てきません。赤ん坊も泣き出し、困った「私」はその家の戸を開けてみました。

 

明石小学校と『薔薇とビスケット』

 鉄砲洲稲荷社から南に戻りましょう。佃大橋の通りを渡って歩くと学校らしき建物があるので寄ってみます。中央区立明石小学校です。立派な新校舎が建っていますが、その旧校舎は、関東大震災を教訓として建てられた「復興小学校」の一つでした。完成は1926(昭和元)年。その老朽化を巡り、保存か解体かで議論が起こったのは記憶に新しいところです。思えばそれは東日本大震災の発生以前のことでした。

 

  時は1938(昭和13)年。明石小学校は旧校舎の時代です。その丸い柱や、アーチ型に美しい曲線を描く窓などを眺めながら呆然としている若者がいます。彼の名は竜崎徹。桐衣朝子『薔薇とビスケット』(2013・平成25)の主人公です。

 彼が驚いているのも無理からぬこと。彼は2009(平成21)年からこの時代にタイムスリップしてしまった人間だからです。明石小学校の校舎、新しさが全く違います。

 

 彼は明石町にある特別養護老人ホームに勤める介護福祉士です。働き始めて5年。老人たちのケアで失望を多く経験しました。彼は今、心をあえて鈍感にしています。自分の気持ちの奥を探るのは危険だと思うからです。

 ふとしたきっかけで来ることになった過去の時代。銀座の芸者置屋で、徹は介護士としての技術を使い、老主人を助けました。先方は大喜び。徹はその置屋に居候することになります。そこには、千菊という、19歳の美しい芸者がいました。徹は彼女に引かれていきます。

 徹はあることに気づきました。彼が今まで生きてきた「現代」で老人だった人は、今彼が来たこの時代でも当然存在している、ということです。それも若者として。それならば、彼には是非とも会いたい人がいました。言いたいことがあるのです。

         

 明石小学校の新校舎は旧校舎の外見の特徴を踏まえたデザインです。また、小学校前の歩道際に設置されたベンチは、旧校舎の階段に使われた石材の再利用だそうです。エリアの歴史を語るモニュメントが学校付近にいくつもあり、歩いて楽しい場所です。

 

芥川龍之介生誕の地

 明石小学校の向かいにある施設。これは聖路加国際大学そして聖路加国際病院です1902(明治35)年、アメリカの宣教師であり医師でもあったトイスラーが創立したものです。当初は小規模な診療所でしたが、後に病院となりました。帝大医学部の有力教授たちが援助して有名になり、明治末年に国際病院の指定を受けました。この建物があったためにこの辺り一帯が戦災を免れたといいます。

 

 

芥川龍之介の生家が以前、ここ聖路加大学の一角にありました。龍之介の実父、新原(しんばら)敏三(としぞう)は外国人居留地のあったこの地で、耕牧社という牧場を持ち、外国人相手の牛乳販売業を営んでいました。龍之介は、1892年3月1日にこの地で生まれましたが、生後7ヶ月後ごろ、生母が心を病んでしまったので、母の実家である両国・回向院前の芥川家にひきとられました。JR両国駅から歩いて7分くらいのところになります。

 

その他の見どころ

 芥川生誕の地の碑のすぐ隣に、赤穂事件の重要人物である「浅野内匠頭(たくみのかみ)邸跡」の碑が建っています。

 案内表示によると、ここ一帯、八千九百余坪はすべて赤穂藩浅野家の上屋敷だったそうです。もちろん、聖路加大学や病院いっさい含みます。しかし、その土地も1701(元禄14)年の一件で全て取り上げられてしまいました。

 ちなみに討ち入りの日は元禄15年12月14日です(但し旧暦。新暦では、1703年1月30日とされます)。

暁橋と「橋づくし」

 芥川生誕の地の反対側は、築地川公園です。ここは以前、築地川の支流である合引川(南支川)が流れていました。川が1971(昭和46)年に埋められた後、川筋は「あかつき公園」となりました。川があった時に架かっていた橋は、まだ在りし日の形を一部とどめています。暁橋です。

 先述の三島由紀夫の「橋づくし」、作品の登場人物たちがこの暁橋にたどり着く頃には、既に3人になっていました。

 

第五の暁橋の、毒々しい白い柱がゆくてに見えた。奇抜な形にコンクリートで築いた柱に、白い塗料が塗ってあるのである。(「橋づくし」より)

 

 現在一部が残っている暁橋は、中央区教育委員会の資料(『中央区の橋・橋詰広場』・1998)によると、1927(昭和2)年3月の竣工。三島が見たものと同じはずです。「橋づくし」には、暁橋の外見について、「毒々しい」「奇抜な形」と描写されていました。同様に感じられるか、実際に見てみてください。

 

 「橋づくし」によれば、彼女たちが次に渡るのは堺橋だそうです。暁橋のすぐ前だと書かれています。かなりちゃちな(失礼)橋だったようで、「緑に塗った鉄板を張っただけ」と記されています。

 この橋はすでに取り外されてしまって、見られません。ただ、築地川公園の一角にこの橋の親柱が一本だけ残っていましたが、2015年現在工事中のため見られないのが残念。

 ゴールはすぐそこにある備前橋です。行ってみましょう。

 

「七つ橋渡り」と『汐留川』

 ところで、この「橋づくし」に出てくるこの「七つ橋渡り」ですが、他の作品の中にも出て来ていました。それは杉山隆男『汐留川』(2001・平成13)です。(画像は堺橋の親柱)

 

 主人公の達也は築地で料理屋を営んでいます。今日は小学校のクラス会。すでに卒業以来40年経っています。達也は自分の店が会場になっているため、忙しく立ち働いていますが、幹事の曾根幹子との会話がきっかけで、小学校時代の回想に入っていきます。

 

 彼等の小学校は数寄屋橋のすぐ近くにありました。(泰明小学校がモデルかもしれません。)小学校時代、達也には淡い恋心を抱いた少女がいました。彼女は転校生で百合といいました。家は銀座の裏通りにありました。お母さんは花街に生きる女性のようで、父親の姿は見えません。百合も達也に好意を寄せているようですが、達也は自分も百合を憎からず思っているにもかかわらず、素直にふるまえません。そうこうしているうちに、百合はまた引っ越しをすることになりました。川崎です。引っ越したならば、会えるかどうかわかりません。

 達也は百合のために、彼女がやりたがっていたことを実行させてやろうとしました。それは「築地川にかかる七つの橋を全部渡」ることでした。「橋づくし」と同じですね。百合は「銀座の金春芸者さんの間で昔から」言い伝わってることで、「お千代」という姐さんが教えてくれたのだと説明します。

 達也の家は、当時まだ流れていた汐留川(新橋の下を流れていた川です)の上にバラックを建てて、おでん屋を営んでいました。川は彼にとって親しい存在です。

 土曜の朝、達也は新橋の貸しボート屋のおじさんに頼んで、一艘のボートを借りました。それに百合を乗せて学校まで行き、帰りにまた百合を乗せて築地川に出、橋渡りをしようという計画です。さて…。

   

 「橋づくし」とはまた違った味わいを持つ佳篇です。読後感もとてもよいものがありました。

 

備前橋と『御宿かわせみ』

 もう一つ、これらの橋を扱った作品を紹介しましょう。NHKでテレビドラマ化された、『御宿かわせみ』です。平岩弓枝作のこの時代小説は熱烈なファンが多いことでも知られていて、文春文庫でそのシリーズを読むことができます。その中の第5巻に「三つ橋渡った」(1982・昭和57)という作品があります。

 

 赤ん坊を使った押し込み強盗が起こります。店先に赤ん坊を捨てておき、気の毒に思った店の者が赤ん坊の世話をするのを利用するのです。父親と名乗る男がしばらくして現れ、捨て子をするに至った事情を涙ながらに訴えます。気の毒に思った店の者は親切な対応をして男に赤ん坊を返すのですが、実はそれは男の作戦でした。しばらく経った夜、店の前でまた赤ん坊の泣き声がします。「先日の赤ん坊では」と思った店の者が気を許して戸を開けた途端に、男とその仲間が押し入って強盗をするという卑劣なやり方です。 

      

 大川端で旅籠屋「かわせみ」を営む主人公「るい」と、その恋人「東吾」。2人がこの事件をどう解決するかが読みどころです。謎解きにおいて、今我々が歩いているこの付近が関係してくるのですが、あまりに作品の「キモ」にあたる箇所ですので、これ以上の紹介はやめることにします。

(画像は備前橋です)