目黒区北部の散歩です。

 京王井の頭線の駒場東大前駅からスタートします。その後、目黒川に沿って山手通りを南東に移動しつつ、物語を探っていきます。特に中目黒駅(東急東横線・東京メトロ日比谷線)の周辺には多くの物語を見つけることができそうです。

 なお、前半は生徒を連れて訪れることの多い「渋谷・松濤・駒場物語散歩」とコースが重なります。

東大駒場キャンパス

 東京大学の駒場キャンパスからスタートします。駒場キャンパスが描かれる作品に小森健太朗『駒場の七つの迷宮』(2000・平成12)があります。1985(昭和60)年を舞台としたミステリーです。

 

 葛城陵治は東大の文科三類2回生です。彼は自らが所属するサークルに新入生を入れるべく、勧誘活動に励んでいました。このサークル、実態は新興宗教の天霊会です。

 キャンパスでは、陵治が所属するのとは別の新興宗教組織による勧誘も複数行われています。そういった布教活動には風当たりも強く、勧誘も一筋縄ではいきません。ところが、どういう才能なのか、大変な成功率で勧誘をしているという女性が出現しました。鈴葦想亜羅というこの女性、曜日を分けて複数の教団の勧誘をするという離れ業まで行っていました。

 想亜羅は天霊会の勧誘も手がけます。最初こそ苦々しく思っていた陵治ですが、次第に想亜羅に引かれるものを感じていきます。

 想亜羅も全て順調とはいかず、ある男子学生とトラブルが生じます。彼は少し前に妹を亡くしていました。ある新興宗教が妹の死の原因だと考えるその学生は、妹にその宗教の勧誘をした想亜羅と険悪な雰囲気になります。

 ある日、キャンパスにある南寮の一室で、その男子学生が不審な死を遂げました。現場の状況から、近くの部屋にいた想亜羅がまずい立場に立たされてしまいます。

 

 謎はその後も更に発生します。「七つの迷宮」の正体など、事件の真相以外にも魅力のあふれる物語です。今回の散歩は駒場キャンパスⅠです。

 作者は東大出身。あとがきによると、登場する建物・施設は一部を除き、当時実在したものだそうです。作品には駒場キャンパスの地図がついていますので、現在の様子と比較しながら歩くことができます。特にかつての学生寮のあたりの変化は顕著です。

 

日本近代文学館

 日本近代文学館にも行ってみましょう。1967(昭和42)年の開館です。展示を見るというより、中原文夫のホラー小説「言霊」(2000・平成12)の大事な舞台である、という視点での訪問です。

    

 52歳の谷川茂雄は歌人。祖父の代からの歌誌「流星」もちょうど百周年だそうです。

 茂雄はマルチな活躍をしている人物で、ある夜、ゲストで報道番組に出ました。話の聞き役は内藤佐知子という30歳の女性キャスター。妻と死別した茂雄と佐知子とは深い関係にありました。

 ところが、この番組の中で佐知子が急死します。爆死したように姿がこっぱみじんになるという死に方でした。

 同様の奇怪な死亡事件がまた発生します。亡くなったのは、やはり茂雄と男女の関係にあった女性。茂雄もその時彼女のそばにいました。

 警察によれば、被害者の周辺に不審な痕跡は認められなかったそうです。ただ、茂雄は、事件発生の直前、謎の人影が被害者女性の背後に現れたのを目撃しています。短歌が詠み上げられた後に悲劇が起きたことも共通です。

 茂雄の父・浩一郎も歌人ですが、現在認知症です。ある日茂雄は浩一郎が部屋で誰かと大声で話しているのを聞きました。日本近代文学館に行くように言っています。茂雄はその話しぶりが妙にリアルなので気になりました。

 謎の死亡事件はさらに続きすが、時折しっかりした意識の戻る浩一郎が茂雄に手がかりを与えます。どうやら一連の事件は歌誌「流星」の古い号に何かの関係があるようです。事件を引き起こしている凶悪なパワーはどこから来るものなのでしょうか。

      

 物語のクライマックスに日本近代文学館の詳しい描写があります。小説の刊行からかなり経っていますが、不思議な現象の起こる建物前の広場をはじめ、「あ、ここのことだ」と確かめられるところが多く存在しています。

 

西郷山公園

 山手通りを中目黒方面に進みます。右手に西郷山公園が見えてきました。「西郷山」とは西郷隆盛の実弟・従道の別邸があったことによる名称です。このあたりは高低差のある地形なので、「山」というのも納得できます。

 

 前川麻子『パレット』(2005・平成17)の一色尚美の通う渋谷区立の中学は、公園からそれほど離れていません。尚美もこの西郷山公園を何度も訪れています。彼女は生まれも育ちも渋谷。公園の施設の変化も、ちゃんと記憶しています。

 小説の中でこの公園は、尚美が恋人と初キッスをした場所として、また、幼なじみの水原絵麻とかき氷を食べた場所として描かれています。

 

 尚美の恋人はかなり年齢が離れています。交際が深まる中で、尚美がどのような心の動きを取るかは、物語の重要な読ませどころとなっています。そしてさらに作品を魅力的にしているが、絵麻という女の子です。大変な美少女で頭脳明晰。分析力も優れていて、成熟した思考は尚美に影響を与え続けます。この物語に欠くべからざる存在です。

 

鎗ケ崎交差点付近

旧山手通りが駒沢通りに達するところが鎗ケ崎交差点です。微妙に目黒区からは外れているようですが、駒沢通りを南下すればすぐに目黒区になります。

 

 この近辺は高橋健太郎『ヘッドフォン・ガール』(2016・平成28)に描かれていました。

 

 カズこと桃乃井一馬(もものい・かずま) は1976年生まれ。中目黒に住み、映像の音声録音と編集の仕事をしています。

 

 ある日、小さいときに会っただけという従兄弟から突然の連絡がありました。中野に住む佐和子という「一番上のおばさん」が行方不明だとのこと。捜索願を出して欲しいというのが依頼。迷惑にも思っていた一馬でしたが、中野の家に行き、中を見ているうちに気持ちが変わっていき、伯母に会ってみたいような気持にもなります。一馬は二階に古いスライド映写機があるのを見つけました。一枚だけスライドが入ったままになっているようです。映写機のスイッチを入れ、映写していると、不思議なことが起こりました。

 

 鎗ケ崎交差点付近については、物語に委しい描写があります。深夜に一馬がある女性と一緒に歩いていたところです。二人とも酔っています。向かう先はそれぞれの家のはずだったのですが…。

 

目切坂

 目切坂は代官山交番近くにある坂です。案内標示には、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』を引いて、「石臼の目を切る職人が住んでいた」という坂名の由来を示しています。この他にも諸説あることも記されています。坂上には1818(文政元)年建立という地蔵尊も安置されています。

 

うつみ宮土理『代官山わかれ道』(1991・平成3)の「白い枠の鏡」では、目黒川に架かる桜橋そばに1軒のカラオケスナックが設定されています。主人公の美容師、坪田絹子は常連客。店を出ると、坂道を上り地蔵尊を見つつ、代官山駅近くのマンションに戻るそうなので、前述の目切坂や地蔵尊はここがモデルではないかと思われます。

絹子には実質上の夫婦と言える男性・清三がいます。絹子が代官山に店を開けたのも、陽気な財産家である清三が大いに関係していました。2人の関係に別の女性の影がさします。清三の女好きは絹子もよく知っていましたが、これまでの浮気とは違うような何かを絹子は直感します。

 

目黒川

 目黒川に出ます。高度処理を行った再生水が流れ、桜の季節の美しさはひとしおです。

 

 白石一文「かけがえのない人へ」(『ほかならぬ人へ』〈2009所収)にも、中目黒駅付近の目黒川で夜桜を鑑賞する男女が描かれています。女性の名は福澤みはる。3ヶ月後に結婚を控えています。結婚相手は同僚のエリート社員・水鳥聖司です。彼女には聖司とは別に、深い関係にある男性がいました。11歳年上の黒木信太郎です。みはると夜桜を見ていたのも黒木でした。

 黒木はみはるの直属の上司でした。社内随一の実力者と言われています。一度切れた二人の仲でしたが、彼女の婚約成立後に再燃しました。

 黒木は聖司と異なり、いわゆる「濃い」性格。みはるは聖司を憎からず思っているものの、結婚についてはあまり前向きではありません。とは言え、婚約後に黒木とまた関係するようになった理由も分からないようです。ただ、みはるには黒木の言葉「俺もお前もどこにもいない、ただ、誰かの中に住んでいるだけだ」が心に残ります。

 

中目黒駅

東急東横線と東京メトロ日比谷線が乗り入れる中目黒駅吉野万理子『今夜も残業エキストラ』(原題『エキストラ!』2008年)に描かれています。

 

 この駅を利用するOL・紺野真穂は、ホームから見える街が気になるようです。彼女の視線の先にはマンションがありました。

 彼女は現在、恵比寿ガーデンプレイス近くにあるベンチャー企業に勤めています。元々彼女にとって就職は、強い目的意識があってのものではありません。地元に戻って結婚、という事態を避けるための就職でした。今も明確な答えを得られずにいます。

 今の会社には、仕事のできる、はつらつとした先輩社員がいました。2歳上の大賀諒です。真穂はすぐに異性として意識してしまいます。そんな彼女にチャンスが。真穂は大賀と同じチームで仕事をすることになりました。ぜひ距離を縮めたいところです。

 

 真穂は大賀の住まいが中目黒駅近くに立つマンションだと知りました。中目黒は、東横線で通っている彼女の乗換駅にあたります。ホームに立つと心のときめきさえ覚えています。

 

中目黒駅周辺

 中目黒駅付近に実在するお店がいくつも出てくる小説を紹介します。狗飼恭子『東京暗闇いらっしゃいませ』(2015・平成27)です。

 

 主人公は溝口夏十(みぞぐち・なつと)。27歳の女優です。自他共に認める美女でありながら、芽が出ずにいます。真面目すぎるという彼女の性格もその大きな原因でした。そんな彼女をある日最悪の出来事が襲いました。役を降ろされ、恋人にも振られるというこの上ない悲劇。恋人からは手切れ金として200万円をもらいますが、そんなことで心の傷は癒えません。呆然と中目黒から代官山まで歩いた彼女、中目黒の商店街でふと見つけた映画館に入りました。

 

 この後、ちょっとした出来事が起こり、彼女はその映画館「楽日座」でアルバイトすることになりました。 映画館を一人で切り盛りしていたのは数納永治(すのう・えいじ)という冴えない独身男性。副支配人だそうです。映写技師であり支配人でもある黒沢は失踪中だとのこと。働き手を求めていました。給料は客の入りによる歩合制と言われます。客が多ければ収入も多い(1日の売り上げの10%)のですが、この映画館、客が入りません。営業努力に問題があると考えた夏十は、色々なアイディアによる集客作戦を実行していきます。まずは清潔とは言いかねる場内の掃除からです。

 

 物語には和菓子の喜風堂、珈琲豆専門店グラーノ、ツタヤ中目黒店、中目黒駅前郵便局などの名前が出てきます。

 

目黒川と山手通りの間に

 THE BURGER VOWSというハンバーガー屋さんがあります。新宿散歩でも紹介した原田ひ香『ランチ酒』(2017・平成29)の「第二酒 中目黒 ラムチーズバーガー」に出てくるお店のモデルと思われます。

 

 ちょっと変わったお助け商売「見守り屋」のスタッフである主人公・犬森祥子(いぬもり・しょうこ)は、川の近くに住むことにあこがれを抱いています。そんな祥子にとって、目黒川の川沿いは好ましい風景の一つでした。顧客に頼まれ、その人の自宅で認知症の症状が出ている飼い犬の「見守り」をしてひと晩を過ごした彼女、午前11時過ぎに顧客の家を出ました。山手通りに面するカフェ風のお店に入りました。麦酒の種類も豊富なようで、お酒を飲む祥子にはちょうど良い。ラムチーズバーガーとブルックリンラガーを注文しました。オーダーしたビールの量は1パイント(約500ミリリットル)で、一口すすった祥子はその強い苦みを大いに気に入りました。間もなくラムチーズバーガーも届きました。店員さんによると、お客はそれを食べる前にひと手間をかけるようです。

 

蛇崩川緑道

 中目黒駅の近くには蛇崩川緑道が延びています。この近辺は深沢美潮『菜子の冒険 猫は知っていたのかも』(2000・平成12)に描かれているエリアになります。

 

 飯倉菜子は16歳の高校2年生です。夏休みの終盤のある日、彼女は逃亡癖のある猫・ルカナンを追っていました。烏森神社小川坂の近くで探していると、古い日本家屋に行き着きます。米谷キヌという有名な偏屈ばあさんの家でした。そこで無事ルカナンをつかまえたものの、裕美はちょっとだけ見たキヌの様子がいつもと違うのに気づきました。菜子に対する怒り方が妙に中途半端だったのです。いつもなら頭をホウキでたたきまくってもおかしくない程だったのに。別人がキヌばあさんになりすましているのではと疑いました。

 

 次の朝、飼い犬の散歩で蛇崩川緑道を歩いていた菜子はまたキヌを見ました。ケチなキヌなのになぜかタクシーで外出。菜子はさらにキヌの家の塀の上にあるものを発見。先ほどの人物は絶対にキヌ本人ではないと確信するに到ります。

 

 蛇崩川という一風変わった名称の理由についてもこの物語の中で説明されていました。