目黒区中部の散歩です。

ここでは、東横線の祐天寺駅、学芸大学駅周辺や、駒沢オリンピック公園を訪れます。さらに山手通りと目黒通りが交わるエリアを広く探っていきます。例えば目黒不動尊や林試の森公園、JR目黒駅近くを流れる目黒川の周辺などです。

目黒区立守屋図書館

 祐天寺駅から学芸大学駅に向かう間にある図書館が守屋図書館です。

 

 前章で紹介した『菜子の冒険 猫は知っていたのかも』に「祐天寺という駅の近くにある目黒の区立図書館」が出てきますが、その描写からすると、どうやらここがモデルのようです。菜子が訪れた場所です。目的は古地図や古い文献から江戸時代の目黒の様子を知るため。なぜ知りたいのかというと……どうやらお宝に関係しているようです。

 

 もうひと作品。宮沢章夫『ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット第三(2011・平成23)所収の「返却」です。

 

 現在練馬区に住む51歳の「わたし」は、都内を何度か引っ越ししています。彼の家には、引っ越し先の近くにあった図書館で借りて、そのまま返却せずにいる本が何冊もありました。それらの本を手に取ると、かつての記憶がよみがえってきます。

 

 彼が利用した図書館の中に目黒区の2つの図書館がありました。それがこの守屋図書館と、目黒区民センター図書館です。守屋図書館から借りた本は返却済みですが、区民センター図書館から借りた本は未返却のようです。

 

 ただ、それはまだ甘い方で、最も長く借りたままになっているのが八王子の都立図書館から借りた2冊。何と31年前のことになるそうです。12月のある日、彼はその2冊を返却するため、早起きして八王子に向かう…というストーリー。

 

 守屋図書館近くにある十日森稲荷神社についての描写もありました。 

 

学芸大学駅周辺

学芸大学という駅名ですが、大学はとうの昔に小金井市に移転しています。殊能将之『ハサミ男』(1999・平成11)で、殺人事件が発生するのは、この学芸大学駅の近くです。

 

 猟奇的な殺人事件が都内で2件発生していました。被害者は2人とも女子高生。凶器は共に、咽喉部に刺さったハサミです。マスコミは正体不明のこの殺人犯を「ハサミ男」と呼び、さかんに報道しました。そしてここに、その「ハサミ男」である「わたし」が登場します。自称「でぶのフリーター」。

 「わたし」は既に3人目の犠牲者となるべき人物を見つけていました。目黒区鷹番に住む女子高生の樽宮由紀子(たるみや・ゆきこ)です。「わたし」は学芸大学駅で下車して、彼女の住むマンションへ行く道を確認し、実行に向けての準備を進めていきます。

 

 猟奇的殺人犯「ハサミ男」はまた、自殺願望を持つ人間でもあります。様々な方法で自らの命を絶とうと試みるものの、その度に失敗。謎の人物「医師」にばかにされます。

 

 新しいハサミをバッグにしのばせ、殺害の機会を狙う「わたし」は学芸大学駅付近で由紀子の帰宅を待ちますが、このあと予想もしなかった事態が発生しました。

 

碑文谷公園

 学芸大学駅からそんなに離れていませんので、碑文谷公園も訪れましょう。池がありますね。「三谷の池」とも呼ばれていたそうで、立会川の水源でした。江戸時代には将軍の狩場でもあったとのこと。その後は水田かんがいの重要な水源として大切にされていた旨が案内標示に書かれています。池は「弁天池」とも呼ばれるのは、池の中島にある厳島神社に弁財天像が祀られているからでしょう。

 

 この公園は、加藤実秋の人気作『インディゴの夜』シリーズの第3巻『ホワイトクロウ』(2008・平成20)の中で舞台として描かれています。「シン・アイス」の章です。

 

 『インディゴ』というのは、渋谷にあるホストクラブの名前です。ちょっと変わったホストクラブで、ホストたちは服装もかなりカジュアル。超人気ホストの1人である「犬マン」がこの章の主役です。ファッションセンスが抜群で、本名は「マサル」。彼の自宅は、この碑文谷公園から徒歩5分ほどのマンションの12階にあります。かなり立派な部屋のようです。

 

 彼は仕事帰りに碑文谷公園に立ち寄って一服するのが習慣でした。公園での顔見知りもいます。「タクミ」という青年。彼らは名前以外、相手のことを何も知りませんでしたが、タクミは実はホームレスでした。なぜそれが分かったかというと、ホームレスの1人がこの公園で死んでいたからです。厳島神社脇の茂みでした。死体を見つけたのが彼ら。どうやら他殺のようです。

 

 死んでいたホームレスはタクミも知っている人物。ただ、かなり素行が悪い男でした。疑われたのがホームレスのリーダー格だった「アキオ」でした。タクミはアキオが殺人などする人間ではないと信じています。なんとか彼の疑いを晴らしたく思ったタクミは、「犬マン」ことマサルに協力を求めました。

 

 碑文谷公園が描かれる作品をもう一つ。藤田宜永『探偵・竹花』シリーズ第4作『孤独の絆』(2013・平成25)の中の「晩節壮快」の章です。

 

 前年に還暦を迎えた独身の探偵・竹花は大田区の介護付き有料老人ホームを訪れました。仕事の関係です。ホームの入居者である2人の男性が3日前に姿を消しました。1人は車椅子を利用しています。事情を聞くに計画的な行動のように思われました。別の入居者は、自分の金が無くなった、あいつらの仕業だ、と主張しています。

 

 竹花は入居者の1人からちょっとした手がかりを聞きました。疾走したうちの1人の男性は、前の月にホームを去った女性と深い付き合いがあったというのです。女性の現在の住所は目黒区碑文谷1丁目。姉と住んでいるそうです。

 

 竹花は車で碑文谷に向かいました。姉と暮らしているというその女性のアパートを訪れてみると残念ながら留守のようです。車をコインパーキングに置き、しばらく碑文谷公園で暇を潰すことにします。弁天池の端のベンチに腰を下ろし、煙草に火を付けました。既に還暦を迎えている竹花は、老人ホームの入居者たちが身近な存在であるように思えてきます。自分は自らの終末をどういう形で迎えるのだろうか、などとも考えてしまいました。

 

 少しの時間が流れました。ここでの時間つぶしは決して無駄ではなかったようです。 

 

駒沢オリンピック公園

 公園繋がりで駒沢オリンピック公園に行きます。世田谷区と目黒区にまたがる、約41万平方㍍の広さを誇る公園です。施設も充実し、屋外球技場も屋内球技場もあり、野球場も硬式用・軟式用それぞれがそろっています。また、全長約2.1㌔のジョギングコースもあります。

 

 山口洋子『東京恋物語』(1985・昭和60)の1編「駒沢公園」で、ジョギングをする1人として40代の会社員田倉が描かれています。既婚者で子供は2人。友人の医者に勧められ、健康改善のために仕方なくジョギングを始めました。そのうち、ジョギング中に会う女性が気になってきました。長い髪を揺らしながら軽々とした足運びで走る女性です。何度か会ううち、会釈するようになり、片手を挙げて挨拶を交わすようになっていきました。田倉は更に関係を深めたいと思います。女はほぼ毎日、ジョギングを欠かしません。ただ、途中で不意に公園を去ってしまうこともあります。理由はわかりません。

 

林試の森公園

 またまた公園繋がりで、少し離れていますが、林試の森公園に移動しましょう。駒沢オリンピック公園と同じく、二つの区にまたがっている公園です。こちらは品川区と目黒区です。旧林野庁林業試験場の跡地で広さは約12万平方㍍です。

 

 お笑いコンビ・キングコングの西野亮廣が著した『グッド・コマーシャル』(2010・平成22)では、主人公・芥川健一が借りたアパートはこの林試の森公園に面しているという設定です。

 

 文章で生計を立てようとした芥川でしたが、その夢はかなっていません。ある作家のゴーストライターを引き受けたことが仇となり、結果として1000万円もの借金を抱えこむ羽目に陥りました。地道に返す道を取らず、一気に大金を得ようとします。選んだ手段、それは犯罪でした。

 金のありそうな家に押し入り、人質を取って立てこもる計画です。身代金をせしめた後の逃亡方法もしっかりと考えてありました。その逃亡方法を取るには、ある条件が必要です。その条件を満たす家が見つかり、いよいよ計画決行の時がやってきました。

 

 こっそりと忍び込み、住人の女にピストル(おもちゃです)を向けて脅す。ここまで順調だった展開が、この後どんどんと意外な方向にずれて行ってしまいます。予想外の第一は女がピストルを向けられて喜んだことでした。

 

 彼のアパートには老婆の幽霊が出るそうです。メインのストーリーの陰になって、ごく軽い扱いですが、彼女も何か別の物語を持っていそうでちょっと気になりました。

 

前田司郎『夏の水の半魚人』の(2009・平成21)初めの方にも林試の森公園が描かれていました。

 

主人公の名は魚彦。ちょっと変わった名前です。彼のお母さんが名付けました。お母さんの初恋の相手から来ているそうです。お母さんの言う「ロマンチック」な初恋の相手とは、魚のハマチでした。

 

 魚彦は学校の課外授業で「リンシの森公園」に行きました。友人の今田くんが言うには、「リンシの森」とは「林試の森」ではなく、「臨死の森」が本当なんだとのこと。

 

 課題の写生を終えた魚彦は公園の森を歩き回り始めました。森は次第に深くなっていき、道もなくなってきました。魚彦は自分が道に迷ったことに気づきます。大声を出しても無駄なようです。耳を澄ませた彼に、なぜか「海の音」が聞こえてきました。なんだろう? 彼はその音を頼りに歩き始めます。自分が土を踏む靴の音で「海の音」が遮されそうですが、何とか音の方向に近づいて行っているようです。やがて…。

 

 海彦クンは「リンシの森公園」について「ここは品川区で」と言っていますが、目黒区にもまたがっていますので、彼が迷い込んだところはひょっとしたら目黒区だったかもしれません。なので紹介してしまいました。

 

目黒寄生虫館

 目黒通りと山手通りが交差する大鳥神社交差点、その近くに目黒寄生虫館があります。カップルの意外なデートスポットとして有名になりました。外見はごく普通の綺麗なビルで、「え? ここが?」と、ちょっと意外な気持になりました。入館料は無料で、寄付にご協力くださいとあります。

 

 三秋縋(みあき・すがる)『恋する寄生虫』(2016・平成28)に描かれている場所です。

 

 主人公・高坂賢吾(こうさか・けんご)は9歳の時に母を亡くしました。母の葬儀後、彼に異変が起こり、極端な潔癖症となります。大学卒業後就職しますが、退職。その後、職を転々とするうちに心を病んで賃貸マンションにに閉じこもります。27歳の時です。閉じこもりつつ、マルウエアの開発に没頭しています。

 そんな彼はある事情により、佐薙(さなぎ)ひじりという17歳の高校生と接触します。髪をプラチナブロンドに染め、大きなヘッドフォンにミニスカート、耳にはピアスという出で立ち。彼女は高校生ですが学校には行っていません。本の虫であり、寄生虫関係の本に特に興味を持っています。

 

 冬、2人は新幹線に乗って上京し、目黒の寄生虫館に行きました。単に寄生虫観察のみが目的ではありません。

目黒不動瀧泉寺

目黒不動尊を安置する瀧泉寺は、808(大同3)年建立といわれる天台宗の寺院です。その名が示すように、不動堂に至る石段左脇の崖に設けられた竜の像の口から水が絶え間なく流れ落ちています。ここは独鈷の滝と呼ばれています。

 

 吉岡道夫『「春日大社の秘密」殺人事件』(1993・平成5)の第一章にも、独鈷の滝など瀧泉寺の境内の様子やその歴史が描かれていました。

 

 作家・春日部亮介は、瀧泉寺の近くに住んでいる関係で、寺は毎日の散歩コースです。ある日、境内で彼の作品の読者だという美女と出会いました。

 その後、奈良に行くと言って家を出た春日部の行方が知れなくなります。時を同じくして、春日部の妻のもとに、首と後ろ足が切り取られた馬の埴輪が送られてきました。埴輪には「宗我」という紙片が貼り付けられています。

 

 猟奇的な事件が発生しました。千葉県の蘇我で、首のない死体が発見されたのです。死体は若い女性でした。春日部は奈良で美女と一緒にいたという情報が入りました。瀧泉寺の美女が思い浮かびますが、死体の女性と同一でしょうか。首のない女性と首のない埴輪に関連はあるのか。また、春日部が新聞に連載中の小説は古代の蘇我氏に関する内容でした。3つの「そが」の一致は何を示すのでしょう。春日部の行方は?

 

 小説には瀧泉寺だけでなく、近くにある羅漢寺の五百羅漢も紹介されています。確かに見どころが多いエリアです。

 

海福寺

 羅漢寺のすぐ近くに海福寺という黄檗宗の寺院があります。1658(明暦元)年に深川にできましたが、明治時代に目黒に移り、現在に到ります。境内には1807(文化4)年に起きた永代橋崩落事件の犠牲者供養塔があります。

 

 小林信彦『ムーン・リヴァーの向こう側』(1995・平成7)の冒頭近くにこのお寺が描かれています。

 

 原透は39歳のバツイチでコラムニストです。ある雑誌に「東京の光と影」という連載を受け持つことになり、第2回「目黒区」の取材として目黒不動から海福寺へと歩きました。原を案内しているのは永井里佳という女性です。彼女は海福寺にある永代橋崩落事件の供養塔にも詳しい。

 

 永井里佳は27歳のフリーライター。原は友人・竹井の便宜によって彼女に案内をしてもらいましたが、その後竹井から話を聞くと、里佳はフリーの生活に疲れて田舎に帰るかもしれないとのこと。里佳の書いた記事をいくつか目にしていた原は才能があるのに惜しいと思いました。里佳から事情を聞いた原はその仕事の悲惨さに同情し、松濤にある自宅の離れを提供することにしました。現在独身の男と女が一つの敷地に住む。想像が進むこともありますが、少々違う要素があるようです。

 

 里佳からさらに目黒区に関する資料も提供され、筆が進んだ原でしたが、その内容に関してある問題が生じました。

 

 読んでいく中で一番気になるのは、冒頭に示される大きな謎です。原のところに掛かってきた電話の内容。花屋からで、里佳の一周忌の花輪のサイズを尋ねる内容でした。いたずら電話ではないようです。そしてこの時の原の認識として、里佳は行方が不明であるようなのです。一体、この冒頭はその後の内容とどう繋がるのでしょうか。

 

太鼓橋・目黒川

 目黒川を渡ります。橋は太鼓橋という名称です。ここは古川日出男『LOVE』(2005・平成17)の最初の章である「ハート/ハーツ」の冒頭で描かれています。

 

 『LOVE』は、少々変わった雰囲気の小説です。各章において複数の人物が入れ替わり立ち替わり登場し、物語を織りなしていきます。章ごとに独立した話になっていますが、互いに無関係というわけではなく、人物を介して重なる部分もあります。

 

 物語は「僕」「あたし」「おれ」という人物が語り手となり、他者の言動を語ることで進行します。それらの語り手は誰なのか、それも読み進む楽しみの一つとなります。

 

 作品の中には様々な地名が、あるいは番地が具体的な形で登場します。「ハート/ハーツ」の最初にも「下目黒一丁目」「下目黒一丁目と二丁目の、境界」などという記載があります。この「境界」というのは目黒川のことです。物語の「カナシー」こと「椎名可奈」は、行人坂を下ったところにある外資系の会社に勤めています。ある日の昼休み、彼女はオフィスを出て目黒川の方に向かいました。昼食をとるなら逆側に向かった方がいいのですが、この日の彼女は食欲がなかったのです。いつもは来ないコース。目に入るものが意外と新鮮に感じられます。太鼓橋の方を眺めたら鵜も飛んでいて、思わず声も出てしまいました。そのまま目黒川をじっくり観察していると、誰かに腰のあたりをつつかれました。びっくりして振り向くと、そこに一人の少年がいました。

 

ホテル雅叙園東京

 2017(平成29)年に「ホテル雅叙園東京」と名称変更がなされましたが、「目黒雅叙園」という旧名称はまだまだ強く記憶に残っています。敷地には八百屋お七伝説に関わる「お七の井戸」(画像)があります。

 山内マリコ『東京23話』(2015・平成27)では東京23区それぞれに関する物語が記されています。目黒区の章のタイトルは「昭和の竜宮城」。語り手は目黒区自身です。話題は「目黒雅叙園」の歴史と施設。「目黒区」は良い語り部のようで(笑)、「彼」の語りを楽しみながら雅叙園の歴史や見どころを学ぶことができます。

 

目黒行人坂・大円寺

 JR目黒駅から目黒通りの一つ南側を目黒川に向かって下る急坂が行人坂です。坂の途中には五百羅漢で知られた大円寺があります。ここは江戸三大火の一つである1772(明和9)年の行人坂火事の火元であると言われ、五百羅漢は火事で亡くなった人の供養のために作られました。

 大円寺は、山手七福神(「元祖山手七福神」とも)の大黒天をまつる寺です。高木彬光『七福神殺人事件』(1987・昭和62)の舞台になりました。名探偵・神津恭介(かみづ・きょうすけ)の、昭和最後の事件です。

 

 山手七福神を含め、東京とその近郊には七福神が多くまつられています。そのいくつかが、「標的」に選ばれました。

 最初に事件が起きたのは八王子でした。布袋尊をまつる信松寺の境内に1人の男の死体が置かれていたのです。死体の上には「布袋尊」と書かれた紙片が乗せられていました。

 

 これを初めとして、神奈川県三浦、東京都板橋、茨城県取手で死体が発見されます。恵比寿神、毘沙門天、弁財天に関係するお寺の境内でした。死体の上にはやはり、七福神の名を記した紙片が……。しかし、被害者同士の繋がりを見出すことはできません。

 これらの事件は、恭介にも見過ごせないものでした。それぞれの事件が発生する前に、犯人とおぼしき人物から殺人の予告状が届くからです。

 

 第5の「大黒天殺人」は、ここ大円寺で起きました。しかも被害者は恭介が前の夜に会ったばかりの人間です。犯人のこの挑戦に、恭介はどう立ち向かうのでしょうか。

 

 作品において、「大黒天殺人」の死体が発見されるのは、大円寺の本堂前にある大銀杏の根元です。犯人が死体を遺棄するにあたっての動きも推理されていますが、実際の境内の様子がしっかりと踏まえられています。

 

大鳥神社から目黒川へ

 大鳥神社の前から目黒通りを進み、目黒川を渡るとすぐ、道が大きく二手に分かれる場所があります。ここは小山薫堂「セレンディップの奇跡」『フィルム』所収・2006)の中で描かれる場所です。

 

 41歳の誕生日を迎えたカメラマン・堀井豊。誕生日はめでたいものでしょうけれど、彼にとってはそうでもないのか、ため息をついています。それもそのはず、少し前に恋人の乃梨子から電話で一方的に別れを告げられたばかりだからです。自宅に戻りたくない彼は行く当てもないまま、たまたま彼にバスの行く先を聞いた老婆と共に、目黒駅行きのバスに乗り込みました。彼は大鳥神社前のバス停で降ります。実はそのことについてはちょっとしたアクシデントがありました。

 

 堀井は目黒通りを目黒駅方面に向かいます。目黒川を渡り、道が二手に分かれたところで、地面に這いつくばる女子中学生を見ました。どうやらコンタクトレンズを落としたようです。視力の良い堀井はコンタクトレンズを探すのが得意。コンタクト愛用者である乃梨子のピンチを何度も助けたことがあります。早速手伝ってあげることにします。情けは人のためならず、ですからね。

 

権之助坂

 岡康道・麻生哲朗『坂の記憶』権之助坂という、一風変わった坂名の由来が書かれていました。前出の行人坂が急坂で不便だったために新しく開かれた坂だそうです。菅沼権之助という名主が罪を得て連行される際に、この坂で「自分の家を眺めたい」と後ろを振り向いたことから名が付いたとのこと。

 

 『坂の記憶』でこの権之助坂を舞台にした一編は「坂道を駆け上がれ。」です。タイトル通り、権之助坂を息を切らせて駆け上る男性「ボク」の姿が描かれています。駅で「キョーコちゃん」が待っているのだそうです。合コンで知り合った仲。自分で企画したものではありません。というより彼は補欠的なランク。人数合わせのために呼ばれるような位置にいます。彼がつきあい始めた相手も同じような立場であるようです。でもお互い良い雰囲気になっています。ちょっとしたミスから今日のデートに遅れそうな「ボク」ですが、うまく間に合うと良いですね。