井の頭公園の物語散歩です。

 吉祥寺周辺もたくさんの物語の舞台となっているエリアです。生徒を連れて行ったこともありますし、成蹊大学で非常勤講師をしている知人の好意で、年に1回、成蹊大学の学生さんを連れて、井の頭公園の物語散歩も行っています。大学の講義(授業)の一環なので、割ける時間は小一時間程度。井の頭公園の池を半周して、そこを舞台とした物語を紹介します。普通に歩いていれば10分ほどの距離ですが、関係する物語がたくさんあるので、あっという間に時間が経ってしまいます。どのような物語に描かれているのかは、どうぞ地図をご覧下さい。

「井の頭」って何?

 集合場所になったここ井の頭公園の「井の頭」って何でしょう。気になったので調べてみました。「井の頭」の名は、公園の中心をなす、この井の頭池に由来するようです。その命名者は、三代将軍徳川家光と伝えられています。その意味としては「上水道の水源」「このうえなくうまい水を出す井戸」という二つの説があります。もともとこの池には色々な名前がありました。池の中に湧き水が七ヵ所にあって、旱魃にも涸れなかったところから、「七井の池」とも言われていましたが、家光が湖畔の「こぶし」の木に「井の頭」と刻み付けてから、池の名前も「井の頭池」というようになったそうです。ちなみに現在、丸井の横から井の頭公園に続く小道を「七井橋通り」と言い、その先、井の頭池にかかる橋を「七井橋」(下写真)と言っています。

 この井の頭恩賜公園は、大正2年(1913)に日本最初の郊外公園として決定され、大正6年(1917)に開園されました。今年が2019年ですから、すでに開園から100年以上が経っていることになります。 また、井の頭池は、初めて江戸にひかれた水道、神田上水の源でもあります。明治31年(1898)に「改良水道」ができるまで、重要な役割を果たしていました。「恩賜」という表現は、大正6年に皇室から下賜されたものであるということによります。

 

井の頭公園と『LAST(ラスト)』

 ここで石田衣良『LAST(ラスト)』(2003・平成15)をご紹介します。石田衣良は成蹊大学の卒業生なので、吉祥寺作品の中に登場させることも目立ちますが、この作品もその一つです。様々な事情でギリギリの状況に追いつめられた人々の文字通りラストの選択・行動を描いた短編集で、この中の「ラスト・ジョブ」の章に、吉祥寺と井の頭公園が出て来ます。

 

 主人公は橋本真弓。32歳の主婦です。夫・俊介そして一人娘の美香と武蔵境にあるマンションに住んでいます。これまで順調な業績をあげていた夫の勤める建築資材会社が何と倒産してしまい、生活設計に大きな狂いが生じてしまいました。夫はリストラの後、同じ会社に再雇用されましたが、収入は激減、年収400万を下回ってしまいます。住宅ローンの返済に追われ、家計を任されている真弓は進退窮まります。ディスカウントストアで働き始めるものの、借金は次第に増え、今では複数の消費者金融会社を使って借金のはしご。借りた金額は既に300万を超え、利息はかさむばかりで破綻は目に見えています。しかし、それ以外の方法を見いだせないのも事実なのです。

 吉祥寺駅北口前のコーヒーチェーン店でつかの間の休息を取る真弓の携帯にメールが入ります。出会い系サイトのメールでした。以前にも受信したことがあるメールです。その時にはすぐに消してしまいましたが、消す瞬間、画面にあった「¥」のマークに目が行ってしまいます。そしてこの日、真弓はそっとメールを開いてみることにしました。

 男性からのメッセージを読んでいった彼女は、武蔵野市に住むというある男性の写真とメールに目がとまります。その男性は「事情があって」うまくガールフレンドができないそうです。割り切ったつきあいでかまわないから、デートして欲しい、と求めています。

 

 真弓はこのメッセージに返信を出します。そしてその後、出会うことになりました。もちろん、「割り切ったおつきあい」以外の何ものでもありません。ここのところ、生活に追われておしゃれをする余裕がなかった真弓でしたが、元々モデルのように背が高く、スタイルが良い女性です。この日はばっちり決めて出かけていきました。男性との待ち合わせの場所は井の頭公園の池の端です。

 

 さて、真弓のこの「ラストジョブ」、どう展開するのでしょうか。

 

井の頭公園と『月曜の朝、ぼくたちは』

 次は井伏洋介『月曜の朝、ぼくたちは』(2008・平成20)をとりあげましょう。

 この物語は、JR飯田橋駅の近くにある軽子坂からスタートします。登場人物の一人、八木が脱サラして開いたレストランバーが設定されているのが軽子坂でした。開店パーティがもたれ、祝福のために学生時代の仲間が集まりました。

 彼らは既に30歳前後になっています。学生時代と同様、うち解けた口調で話をする彼らですが、心の中にはそれぞれ抱えているものがありました。仕事の上での悩みを抱える者、まだ定職についていない者、健康をこわしている者など、問題も様々です。

 栞もその一人です。彼女は少し前、このパーティにも参加している昔の友人に頼まれて参加した合コンで、銀座にある有名宝飾店の社長の息子に見初められ、プロポーズを受けていました。事の急な進行に彼女はとまどっています。そんな彼女の心に、学生時代深いつきあいをしたことのある男性・正樹のことが浮かんでくるのです。

 7年前の12月。正樹と栞とはこの井の頭公園で初めて2人だけの時を過ごしました。粉雪舞う七井橋の上で、2人はぎこちない口づけを交わします。

 

 その後、ある事情から別れてしまった2人でしたが、彼らはパーティで再会しました。2人ともまた相手を気になる存在と意識し始めます。

 

井の頭公園と『転々』

 もう一つ、七井橋が出てくる作品を。この橋のたもとで、ある人間と待ち合わせる主人公が描かれるのが藤田宜永『転々』(1999・平成11)です。物語の主人公・竹村文哉は21歳の学生ですが、サラ金に84万円の借金があります。取り立ては厳しさを増し、身体の危険も感じてきました。借りていたアパートも追い出されることになり、いよいよ覚悟を決めるしかない、という状況です。

 取り立て屋の1人が、しつこく文哉を追いまわします。腹をくくった文哉ですが、福原というその男は意外な提案をします。彼と共に井の頭公園から霞ヶ関まで一緒に歩いてくれれば、百万円を与えようというものです。道中、どこに寄るも自由、食費・宿泊費なども全部持つ、と福原は言います。

 

 なぜ霞ヶ関まで歩くのか、その訳を教えてほしいと言う文哉に対し、「歩き出したら話す」と教えない福原。結局文哉は承知します。待ち合わせの場所は井の頭公園の橋のたもと

 

 「吉祥寺駅からすぐのところの橋の袂だ」

 

とあるので、この七井橋のことでしょう。

 

 井の頭公園を出た2人は善福寺池へ。そこで文哉は福原の東京歩きの真の目的を知ることになります。

 つきあうだけのつもりだった文哉も、この町歩きに目的を見出していきます。次第に明らかになっていく2人の人生、そして意外な結末など、読みどころ満載の小説です。

 

井の頭公園と「トランスミッション」

 

ここ井の頭公園は、恋人たちにとって格好のデートコースでもありますね。井の頭池でボートに乗るアベックの姿もよく見ます。

 

 ところで、この井の頭公園にはあるジンクスがあります。

 

 「ここでデートをする、あるいはボートに乗るカップルは別れる」

 

 というものです。真偽のほどはいうまでもないと思いますが、なぜか大変によく知られているようです。

 

 恋人と別れるという都市伝説のボート、法月綸太郎『パズル崩壊』(1996・平成8)所収の「トランスミッション」では、誘拐犯に身代金を渡す場所がボート乗り場です。

 

 

 推理小説作家である32歳の「僕」は、子供を誘拐したという人物からの脅迫電話を受けます。その人間は「僕」を「安永さん」と呼び、9時ちょうどに井之頭公園のボート乗り場に来い、という命じます。ですが、彼は電話の人物が呼びかける「安永さん」ではありませんでした。

 

 バツイチの彼は今独身で、かつ子供もいません。そんな電話がかかる訳はないのです。そそっかしい誘拐犯が、別の人のところに間違い電話をかけてしまったようです。誘拐犯にそのことを伝えられなかった「僕」は、子供を誘拐された親と犯人との連絡の仲立ちをするという、奇妙な役回りを演じる羽目になります。ボート乗り場の件を親に伝え、全ての役目を終えた「僕」ですが、どうにも気になって井の頭公園に行くことにしました。

 大きな危険と謎が彼を待っていることも知らずに。

 

井の頭公園と『吉祥寺よろず怪事請負処』

 結城光流『吉祥寺よろず怪事請負処(あやごとうけおいどころ)』(2014・平成26)の主人公・丹羽保が通う大学は武蔵野市にあり、レンガ造りの校舎やケヤキ並木があるそうです。名前こそ出ませんが、成蹊大学が自然と思い浮かびます。

 

 この物語は、吉祥寺の街にあるお店や神社などについての詳しい記述がありますので、大変に物語散歩向きです。また、井の頭公園も詳しく描かれています。

 

 保は大学近くの、ガーデンショップを営む大叔父の家に居候しています。男所帯のその家では、料理番的役目を受け持っています。保のいるガーデンショップの住み込み職人に久世啓介という若者がいます。保にとっては頼れる兄貴分です。保もずっと知らなかったのですが、彼の本職は陰陽師でした。保の周囲に何やら妖しげな出来事が頻発しますが、それらは啓介の目を通すことにより、真相を顕していきます。

 保は井の頭公園に入ったことがありませんでした。初めて入った公園、彼も気に入ったようですが、弁天橋を渡りかけた時から、また何だか異界に入り込んでしまったようです。

 

井の頭公園と『ぐるぐる七福神』

 中島たい子『ぐるぐる七福神』(2011・平成23)には、タイトル通り七福神をまつる寺院や神社が数多く紹介されています。とても詳しく描写されている寺社も複数ありました。井の頭池にまつられている弁天様もその一つです。

 

 32歳の派遣社員・船山のぞみが都内にある七福神の寺社を巡るようになったのは、祖母の入院と関係があります。祖母の家を掃除していると、七福神巡りの朱印帳を見つけました。全部で七つの朱印があるはずなのに、なぜか六つだけです。彼女は足りない一つを補おうと谷中七福神に向かいました。祖母の状態があまりよろしくないため、気になったからです。

 のぞみにはもう一つ心に重たくひっかかっていることがありました。それは長くつきあっていた元カレ・黒田大地についての情報。インドで亡くなったというのです。ただ、それ以上詳しいことはわかりません。のぞみは彼の死について、その責任の一端が自分にあるように思えてなりません。

 のぞみの七福神詣での目的は、残念ながら谷中では達成できませんでした。他の場所の七福神も巡ることになります。やがて大地に関する新たな情報も入ってきて、彼女は次第に考えを深め、変化させていきます。

 

 のぞみは、ここ井の頭池の弁天様に、友人の真沙代と共に訪れました。2人とも独身です。この場面、結構面白いですよ。

 

井の頭公園と『蟻の木の下で』

 2013(平成25)年の5月1日。井の頭公園で不審火があり、弁天堂の裏手に当たるところにある親之井稲荷の祠が全焼してしまいました。残念です。このお社の付近は、西東登(さいとうのぼる)『蟻の木の下で』(1964・昭和39)に関係しています。第10回の江戸川乱歩賞を受賞したミステリーです。

 

 井の頭公園にある動物園のヒグマの檻の前で、1人の男が死体となって発見されました。3月17日の朝のことでした。男は吉祥寺で写真機材の店を営んでいる野々村正文という人物で、47歳になります。死因は頭部や頸部の刺傷・裂傷です。死ぬ前に多量の酒を飲んでいたことがわかりました。酔ってヒグマの檻によじ登ろうとして襲われたという可能性もあります。しかし、そう考えるには矛盾があります。野々村は被害にあった当日、銀行で10万の金を下ろしていたのですが、遺体からはその10万が見つからないのです。持っていたはずの通帳も印鑑もなくなっています。

 偶然事件現場に行き合わせた週刊誌の記者は、熊の檻の横で、泥の中に埋まっていたバッジを拾いました。このバッジ、ある新興宗教の支部長クラスの人間が付けるものでした。そして、被害者の野々村の葬式も又、その新興宗教によって営まれたのです。

 やがて、バッジの持ち主がわかりました。そしてそのバッジの持ち主たる男性は、殺された野々村の妻とただならぬ関係になっていた、ということも。

 

 物語は第2次世界大戦中、東南アジアのタイにおいて起きた、ある男に関わる忌まわしき事件へとさかのぼることになっていきます。タイトルにある「蟻の木」というのも、それに関係するものでした。

 

井の頭自然文化園の動物園と『バレエ・メカニック』

 井の頭公園には1942(昭和17)年開園の井の頭自然文化園があります。その動物園(武蔵野市)でよく知られていたのが2016(平成28)年5月26日に死んだアジアゾウの「はな子」。長寿だった「はな子」のいた場所には、今も彼女についての解説が残されていて、いかに愛されていたかがわかります。

     

 津原泰水「バレエ・メカニック」(2009・平成21)の第1章に出てくる「井の頭動物園」とは、ここがモデルでしょう。「アジア象」という記載もありました。

 

 第1章の主人公・木根原は奥多摩在住。金属を用いて作品を作り出す芸術家で、高く評価されています。

 彼が異状を感じたのは赤坂のホテルでした。室内で突然モーツアルトの曲が大音量で流れだしたのです。モーツアルトの曲は別の場所でもなぜかつきまとって来ました。

 不思議な事態が木根原を襲います。異常な大渋滞に巻き込まれたり、海もない場所で車ごと大波をかぶったり。

 木根原には入院中の理沙という娘がいます。彼女の担当医師が彼に連絡をしてきました。医師もまた妙な状況にあるとのこと。ハイテク機器が暴走しており、都内の電車もほとんど不通だそうです。

 医師は、理沙に関して彼に伝えたいことがあるようです。武蔵小金井で出会えた2人は、理沙のいる四谷の病院に向かおうとします。木根原が選んだ手段は馬車。「井の頭動物園」が描かれたのにも理由が存在しました。

     

 都内における異常事態の発生は、理沙と深い関連がありました。理沙が病院にいる理由と現状、何度も出てくる謎の言葉「五番め」の意味、などが読み進むうちに理解される仕組みとなっています。章の最後で彼にかかってきた電話の内容も、想像が十分可能です。ラストは心にかなり響きました。

 

 自然文化園には、彫刻家・北村西望の作品を展示する彫刻館もあります。屋外の加藤清正像は木根原も見たものです。大きく存在感があります。

 

「御茶の水」と『井の頭公園の殺人』

 冒頭近くに説明した、「井の頭」「七井」の語源ですが、「井の頭」にせよ、「七井」にせよ、清冽な水があふれんばかりに湧き出していたことがわかる名称です。現在でもこの井の頭池には満々と水がたたえられているようですが、実はこの水、天然の湧水ではなく、地下からポンプで汲み上げているのだそうです。井の頭池の畔にある「お茶の水」という一見湧き水らしき井戸もしかり。地域の開発・変化により、地下水の流れに変化が生じたのでしょう。残念なことだと思います。

 

 沼五月『井の頭公園の殺人』(1994・平成6)の冒頭、このお茶の水で、首のない全裸の女が目撃されます。

 

 目撃者によると、首のない女は池に飛び込んだのだそうです。後日、池を泳ぐ骸骨の目撃談も出ました。その骸骨にも頭部がなかったとのこと。一方、行方のわからない女性が2人。怪談めいた目撃談と関係があるでしょうか。

 

井の頭公園と『しゃべれども しゃべれども』

 次は佐藤多佳子『しゃべれども しゃべれども』(1997・平成9)です。

 

 主人公の「俺」は26歳になる二つ目の噺家です。噺家としての名前は今昔亭三つ葉。家は吉祥寺にあります。この人、ひょんなことから素人4人に落語を教えることになりました。生徒は吃音のテニスコーチに、関西弁の小学生、謎めいた女性、そして見た目からして恐ろしい大男です。みなひと癖もふた癖もありそうな人物ばかり。こんな人たちに「まんじゅうこわい」を教えるのですから大変です。

 テニスコーチは小学校以来の友人ですから、気心が知れていますが、他の3人はどういう人間なのかよくわかりません。でも次第にそれぞれの事情がつかめてきました。中でも小学生の村林優(まさる)は学校でいじめに遭っていて、彼なりの対応策として噺をマスターしようとしているのでした。もっとも村林本人は決していじめとは言いません。あくまで「けんか」であると言い張ります。

 ところがある時、村林少年がいなくなります。驚いた「俺」は自分の勘を信じて井の頭公園を探しまわります。公園のどこ、とは特に記されませんが、公園の特に薄暗いあたりを重点的に捜索したようです。お楽しみ中のカップルに出くわして困ったようですが。

 

井の頭公園と『火花』

 2015(平成27)年上期の芥川賞受賞作である又吉直樹『火花』にも井の頭公園は登場しています。テレビドラマ版でもロケ地になりました。熱海の花火大会における漫才イベントで知り合った徳永と神谷という駆け出しの漫才師の生き様をつづる物語です。

 

 「あほんだら」というコンビで活動する神谷と「スパークス」の徳永。「本当の漫才師というのは、野菜を売っていても漫才師や」など、かなり独特な笑いに対する理論をもつ神谷。そんな神谷に惹かれた徳永は、神谷と師弟関係を結びます。神谷は徳永に自分の伝記を書いてほしいと言いました。徳永は神谷の言動にいっそう注目することになります。1年が過ぎても2人ともに仕事の内容に変化はありませんでしたが、神谷は活動の拠点を徳永と同じく東京に移しました。吉祥寺や井の頭公園を2人でぶらつくこともあります。

 

 徳永がある事情から銀髪にした日、2人はまた井の頭公園に行きました。公園に入ってすぐのところにある自動販売機が描かれています。それはこの写真の販売機かもしれません。

 

井の頭公園と『代筆屋』

 最後に、心温まるような読後感をもった作品を紹介します。

 辻仁成の『代筆屋』(2004・平成16)。

 

 吉祥寺駅からこの公園へと通じる路地の一角「レオナルド」という喫茶店が設定されていて、その上の部屋に住んでいたというのが、この物語の主人公「私」です。本業は小説家ですが、副業として手紙の代筆をしていました。

 

 様々な人が様々な思いを抱えて彼に代筆を頼みに来ます。主人公である「私」はその思いに応えて、どのような手紙を書いたのか、そしてその結果どうなったのか、それがこの小説の読みどころです。

 

 代筆屋の「私」は、依頼人の要求を受けて、考え、時に悩みながら手紙を書き上げていきます。できあがった手紙の内容はすばらしく、我々に感動を与えてくれます。

 

 そこにあるのは10のエピソード。ある時には子供を捨てて新しい男に走った女性が、捨てた長男の結婚の噂を聞き、お祝いの手紙を頼みに訪れます。(第六章「でも死のうとは思わない」)。またある時には88歳の老婆が、90歳になった夫に宛てる離婚宣言の手紙を頼みに来ます。(第八章「八十八歳のわたしより」)。その中のいくつかの章に井の頭公園が出て来ますが、第二章の「咲くよ桜」では、この公園でかつて恋人とデートしたことがあるという女性が登場します。

 

 その女性・北条優子は、その後別れてしまった(と言うより、彼女が捨ててしまったという方が正しい)元恋人(「たくちゃん」)とのよりを戻したいと代筆屋の「私」にすがります。優柔不断ではっきりしない人だったのが彼女には不安だったようです。その後彼女に「ちょっと素敵な人」ができたことが別れにつながったのですけれど。3年も経ったのに思い出すのはその男性のことばかり。たくちゃんは既に田舎に帰って家業を継いでいるそうですが、風の噂で近く結婚するかも知れないということが伝わってきます。果たして彼女の最後の望みの綱は奏功するのでしょうか。