jr渋谷駅西側の物語散歩です。

ハチ公像と『女学生の友』

 待ち合わせや記念写真を撮る人がいつも何人もいるハチ公像の前です。

 

 ある午後、60代の男性と女子高生とがハチ公像前で待ち合わせました。他から見れば、渋谷での孫娘の買い物に祖父がつき合う、といった感じでしょうか。でもこの2人、血縁関係はありません。

 彼らは柳美里『女学生の友』(1999・平成11)の主人公である弦一郎と未菜です。2人は弦一郎の本当の孫娘を介して面識を持ちました。

 

 2人には共通点がありました。心に大きな空虚感を抱いていることです。

 弦一郎は定年退職後の再就職がうまくいっていません。金銭的には余裕があるのですが、することが何もないということに対して恐れを抱いています。未菜は両親の仲に問題があり、仲間との表面的な付き合いに満たされないものを感じています。

 誰かから必要とされたいと思っている老人と、自分をわかってくれる誰かが欲しいと思っている少女。心の歯車が合致しそうな2人ですが、渋谷で待ち合わせた時の話題は大変に現実的な、お金の問題でした。援助交際の相手を紹介してほしいと未菜は言うのです。

 自らの家庭の事情を未菜なりに判断した結果でしたが、弦一郎は当然面食らいます。ただ、目の前の少女は自分にすがっていることは確か。何かしてあげればとも思います。後日、ハチ公前で未菜と再び待ち合わせた弦一郎の頭にはある案が浮かんでいました。 

 

スクランブル交差点と『造花の蜜』

 ハチ公像のある広場の向こう側にスクランブル交差点があります。テレビの天気予報などで「渋谷駅前の現在の様子です」などと紹介されることが多い交差点。ある意味、日本で最も有名な交差点と言ってもよいかも知れません。

 ここは連城三紀彦『造花の蜜』の(2008・平成20)中の誘拐事件で、身代金の受け渡し場所となりました。

 

 医師の夫と離婚し、一人息子の圭太を連れて実家に戻った香奈子は、圭太が幼稚園から何者かによって連れ出されたと知って青ざめます。ただ不思議なことに、幼稚園の教諭は、圭太を連れて行ったのはその香奈子に間違いなかったと主張しました。犯人からの連絡内容もたいそう奇妙で、身代金など要求しないし、圭太が帰りたければいつでも帰らせると言います。その後、結局身代金が払われることになりました。しかし相手の言い分はあくまで「そちらが金をくれるというのならもらう」であり、その額も香奈子側が提示した2千万を1千万に値下げするという、これまた意図がわからないものでした。

 

 受け渡しのやり方も変わっていました。12:30に渋谷のスクランブル交差点に圭太が立つから彼を連れ帰る代わりに金を入れた鞄をそこに置くように、という指示です。あまりにも隙だらけに見える内容。相手の真意が分からず、香奈子は首をかしげるばかりです。

 

 この誘拐には大きな謎があるようです。

 

TSUTAYAと『たぶん、出会わなければよかった嘘つきな君に』

 スクランブル交差点を渡った先にTSUTAYAがあるのがわかりますか。下の写真、右手のビルです。このお店については、佐藤青南『たぶん、出会わなければよかった嘘つきな君に』(2017・平成29)に描かれていました。

 

 28歳の「僕」こと伊東公洋は、ぱっとしない男性で、彼女いない歴2年。法律事務所で働きながら、資格を取るための勉強をしています。残念ながらこの事務所の所長は尊敬できない人物でした。早く独立するためにも、今は彼女よりも司法書士の資格取得の方が大事です。

 びっくり。彼と交際してくれそうな女の子が現れました。中野の居酒屋で知り合った「ナナちゃん」というかわいらしい大学生です。

 もう1人、彼に好意を示す美人が現れました。同僚の峰岸佑子です。同時期に2人の女性。公洋は困惑しますが、自分の思いに正直になろうと考え、佑子に対して、その気持ちには添えないと伝える決意をしました。

 とはいえ、「ナナちゃん」が自分のことをどう思ってくれているのか、公洋にはわかりません。デートに誘うにもどうにもぎこちない。なんとか一緒に渋谷で映画を見る約束ができました。待ち合わせはこのTSUTAYAです

 最悪の事態が公洋を襲います。仕事上のとてつもなく大きいミスです。彼にもその重大さは認識できます。だからこそ丁寧にことを運んだはずなのに、起こりえないことが起きました。それに関して、考えたくない一つの可能性があります。

 

 「僕」の一人称で始まるこの小説、章が改まると、その一人称が変わります。そして読者はまもなく「え?」と思うことでしょう。ぐいぐいと引き込まれる物語です。結末にも驚きました。

 

道玄坂

 スクランブル交差点のさらに先が道玄坂です。名称の由来についてははっきりしていません。いくつか説があります。一つだけ紹介することにしましょう。

 

 源頼朝が幕府を開いた、その時代に生きた人に和田義盛という武将がいました。頼朝の信任が厚く、平家討伐に功のあった人でした。義盛の功績により、和田一族も栄えます。ですが、頼朝の死後、北条氏が勢力を増してくると義盛はそれに対立することとなり、ついに北条義時との戦の中で命を落とすことになってしまいました。そして和田氏一族も北条氏によって滅亡に追いやられます。和田一族の中に大和田道玄という者がいました。和田氏が滅亡する中で彼は難を逃れ、このあたりに隠れ住んで山賊となった、という言い伝えがあります。そこで坂の名前も道玄坂となったとか。

 

 これは江戸時代にできた、名所の案内本『江戸名所図会』に記されている説です。

 

道玄坂と『宇田川心中』

 この大和田道玄を主要登場人物の1人に据えて展開される物語があります。小林恭二『宇田川心中』です。読売新聞の夕刊に連載された小説で、2004(平成16)年に刊行されました。

 

 時は幕末、安政の時代です。渋谷宮益町の小間物問屋に「はつ」という17歳の娘がいました。渋谷小町と言われるほど器量よしです。ある日、困難に陥った彼女を1人の青年僧が救いました。2人は互いに心惹かれます。一目惚れですね。2人は翌日の逢瀬を約束して後ろ髪引かれながら別れていきます。

 約束の晩、約束の時間に現れたのは「はつ」1人でした。青年僧はどうしたのか。彼を待つ「はつ」の身に災難が降りかかります…。

 安政年間と、それより600年以上前の承久の時代との2つの時が交錯しつつストーリーが展開します。そして平成の現代もそれに加わります。それのみならず、この小説の中では現世が冥界ともクロスオーバーしていきます。

 ただ一つ共通するのは、「場」が渋谷であるということ。

 それぞれ独立しているかと思われた人物の糸が互いに関係を持つことが次第に判明します。

 この絡み合ったストーリーの奔流の中で、「愛」とは一体何であるのかということが一貫して問われ続けます。

 

道玄坂と『月が100回沈めば』

 式田ティエン『月が100回沈めば』(2006・平成18)は、道玄坂が重要な舞台として描かれる作品です。

 

 物語の主人公・齋木耕佐(こうすけ)は高校1年生。道玄坂にあるビルでアルバイトをしています。マーケティング会社の市場調査協力がその内容です。「普通」の高校生として、何に興味があり、どのような考え方をするのかという情報を、アンケートを通じて企業に与えます。

 このアルバイトには複数の禁止事項があります。同じバイト仲間と顔を合わせても、交流を持ってはいけない、というのがその一つでした。情報の純粋性が失われるからです。

 ところが耕佐は、同じバイト仲間のアツシに声を掛けられ、知り合いになります。耕佐はアツシからある依頼を受けましたが、実行する前にそのアツシが姿を消してしまいます。中学生の連続行方不明事件が起きている時でした。アツシは小柄で中学生にも見えます。耕佐は彼に関する情報を求め、渋谷を動き始めました。

 彼に協力する人も現れます。耕佐と同じバイトをしている海老沢弓です。美人なのに外見をほめると怒り、計算に強く、妙なことをよく知っている、探偵志望の女子高校生です。

 弓は、探偵とは「世界に意味を与える」仕事であると言いました。渋谷でアツシの行方を捜して何人もの人と接触するうち、耕佐は知らず知らず弓の言葉に対する自分の考えを見いだしていきます。

 

 耕佐と父親との間にも何らかの謎があるようです。「普通」という言葉がその秘密を解く鍵のようです。

 

マークシティと「勤労感謝の日」

 ハチ公前に戻ります。道の向かい側にあるのがマークシティ。ここで待ち合わせの約束をしたのが絲山秋子「勤労感謝の日」『沖で待つ』2006・平成18所収)の主人公・鳥飼恭子です。

 

 鳥飼恭子は36歳。無職です。職を無くしたのは、父親の葬儀の際、母親にセクハラ行動をとった上司を殴ったことに起因しています。彼女にとって渋谷は、「ハローワーク」のある街です。ある時、断れない事情があり、見合いをさせられることになりました。相手は大企業に勤める2歳年上の男性でした。

 さて、時は勤労感謝の日。お見合いの当日です。彼女の前にどんな相手が現れるのでしょう。

 

 その次の場面で、彼女はマークシティの前に来ています。先に書いたとおり、待ち合わせです。さて、彼女の待つ相手は誰?

 

モヤイ像と『ヌれ手にアワ』

 井の頭線のガードをくぐって向こう側に出た先、モヤイ像という別の待ち合わせスポットがあります。イースター島の巨石はモアイ像、こちらはモヤイ像です。1980(昭和55)年に、新島の東京都移管100年を記念して新島から渋谷区へ贈られたものです。「モヤイ」とは新島で「共同作業」を示す言葉だそうです。新島で産出される「抗火(コーガ)石」でできています。表裏2面の巨大な顔を持っていて、それぞれ大変にインパクトがあります。

 

 藤谷治『ヌれ手にアワ』(2010・平成22)では、物語の冒頭にこの像が描かれていました。

 

 ある日、渋谷駅前は尋常でない数の人であふれていました。とんでもない事態の発生によって、JRが動かなくなったからです。そんな中、1人の老人がモヤイ像の前から救急車で病院に運ばれていきました。暑さで気分が悪くなったようです。彼は運ばれる直前、謎めいた言葉を残します。観音様の下に「金のなる木」を隠したとか。

 小さい声でしたが、その言葉をしっかり聞いていた人が5人いました。そして彼らのほとんどが、まとまった金を必要とする事情を抱えていました。彼らはそれぞれ、老人の言う「金のなる木」はどこかにある、と結論づけました。推理を巡らせ、探し出すべく行動を開始します。

 ただ、何せ前述の通り、都内は異常事態のまっただ中。思ったようには動けません。

 

 ドタバタと、またじたばたとあがく彼ら。思わず笑ってしまいます。

 5人の中で1人だけ、名前が紹介されない若者がいます。「金のなる木」を求める理由も他の者たちとは異なるようです。老人の言葉の謎と同様、この人物についても興味を引かれます。

 

渋谷駅西口と『泥棒猫ヒナコの事件簿 あなたの恋人、強奪します。』

 2013(平成25年)に東急東横線の渋谷駅が地下化され、東横線の南口が消えました。JRに南改札はあるものの、出口としての南口はなく、西口という表示になっています。

 永嶋恵美の小説『泥棒猫ヒナコの事件簿 あなたの恋人、強奪します。』(2010年)の中に、渋谷駅前での待ち合わせが描かれていました。

 25歳の早川梨沙は大学生の伊東英之と交際していましたが、彼と別れようとした時、相手が暴力をふるってきました。その後も英之の暴力行為は続きます。何とかして逃げなければ、と思うものの、適切な方法が見いだせません。切羽詰まった状況に陥ってしまいました。

 そんな時です。梨沙は携帯サイトの掲示板で「しつこい恋人にお悩みのあなた」へ、という書き込みを目にしました。彼女はその連絡先である「オフィスCAT」におそるおそる電話してみます。

 電話に出た女性の説明では、「特定の男性を合法的に強奪」する仕事だとのこと。一度面談をして見積もりを出したい、と言ってきました。その待ち合わせ場所として決まったのが、「渋谷駅南口の宝くじ売場前」です。女性はそこに向かうスタッフの名前と特徴を伝え、梨沙から声を掛けてほしいと言います。梨沙の名前や服装を聞かれることもなく、終始感じの良い対応でした。

 

 さて15分後。南口の宝くじ売り場前には、確かに言われた通りの姿をした女性がいました。梨沙は勇気を出して、「ミナミヒナコ」というその女性に声を掛けました。

 「合法的に強奪」とはどんなことなのか。ヒナコの仕事っぷりにどうぞご期待を。

 

 小説の「渋谷駅南口の宝くじ売場」が気になります。刊行年やその他の描写を考えると、現在の西口近くで捜すべきだと考えました。宝くじ売場、ありました。意外と周囲に人も少なく、待ち合わせ場所として確かに良さそうです。

 

JR渋谷駅南改札と『明日の記憶』

 渋谷駅の西側からJRの南改札の前を通り、駅の東側に出るこの通路、荻原浩『明日の記憶』(2004・平成16)で、主人公が通った道と重なっています。

 

 主人公の佐伯は、50歳になった広告代理店営業部の部長さんです。一人娘も大きくなり、今度結婚することになりました。まずまず順調な人生を歩んできたこの人に、ある大きな悲劇が降りかかってきました。病気です。病名は「若年性アルツハイマー」。ひとかけら、ひとかけらと、彼の記憶から重要な事項が消え落ちていきます。仕事の上でも単純な物忘れではすませられないような重大なミスをしでかすようになります。自分の病気を仕事仲間に気づかれたくない彼は、ミスを最小限に抑えようとして、相手の発言や約束事を片っ端からメモにとることを始めます。しかし、その行為は仲間の目には奇異なものと映り、彼の思いとは逆の効果になってしまいます。

 ある時佐伯は、顧客である「ギガフォース」社での打ち合わせに出席するため、社のある渋谷に向かいました。しかし彼は、何度も行ったことのあるこの社に向かう道を失ってしまいます。彼の目には渋谷は見知らぬ街と映るのです。冷水を浴びせられたような気持ちで、彼は焦りますが、焦れば焦るほど思考は空転をするばかり。

 

 佐伯は自分の会社に携帯で電話をかけました。幸い部下の女性が出て、正確な対応をしてくれました。佐伯の伝えた周囲の状況から、今彼がいるのは宮益坂であると判断した彼女は、その後どう行けばよいかを教えるのでした。宮益坂を下りて東横線のコンコースを突っ切り、駅の向こう側に出る。そこに見える歩道橋を上って突き当たりを左に折れたところで歩道橋を下る…。少し遅刻はしたものの、なんとか打ち合わせ場所に到着できた佐伯でした。

 

 上に東横線のコンコースとありますが、先に記したとおり、東横線は現在地下に駅があります。まだ地上駅だった頃、現在のJR渋谷駅南改札の隣が東横線改札口でした。今我々のいるコンコースは、佐伯がこの物語で通った場所です。前ページの写真はまだ東横線の改札がここにあった2006年当時の様子です。

 我々は気楽にここを通過していますが、佐伯のこのときの気持ちはどうだったでしょうか。確実に進行している自らの病に対し、とてつもない恐怖を感じていたはずです。それを思うと気持ちもおのずと引き締まってきます。

 

東横線改札と『ピンクとグレー』

 同様に、東横線の改札があった頃を描いた物語をもう一つ。

 加藤シゲアキ『ピンクとグレー』(2012・平成24)では、ここにあった東横線の改札が何度も描かれています。主人公・河田大貴にとって忘れられない思い出の場所です。

  同じ大学の付属中学を受験した2人は友に合格。

 彼らは東急東横線の渋谷駅改札近くにある大きな柱(デュポンと名付けています)で待ち合わせ、登校します。文化祭ではバンドを組んで演奏。青春を楽しんでいます。

 辛いこともありました。真吾にとっては、姉の死がその一つです。ただ、真吾は姉の人生から何か大きなことを感じ取ったようです。

 もう少しで高3というある日、大貴と真吾はこの改札口近くで声をかけられます。女子中高生向けファッション誌に写真を載せることになりました。

 それがきっかけで、まもなく彼らは芸能プロダクションと契約を交わしました。映画やテレビのエキストラの仕事が入ってきます。のちに振り返った時のちょっと特殊な思い出作り、2人はそんな気持ちでした。ところが、あるドラマの撮影で彼らの一人が発したアドリブのせりふが、その後のそれぞれの生き方を大きく変えていきました。

 

 なお、宮下公園とは明治通りを挟んだ場所に存在する美竹公園『ピンクとグレー』ではとても大事な場所です。ただ、散歩を実施した2018年3月は、宮下公園も美竹公園もともに工事中で全く見ることができませんでした。残念です。 

 

渋谷公園通りと『渋谷の神様』

 渋谷公園通りに出ます。よく聞く名前ではないかと思います。ディズニーストアや渋谷のパルコがあります。路傍には花が植えられ、すっきりとした坂道です。

 

 有吉玉青『渋谷の神様』(原題『ティッシュペーバー・ボーイ』2007・平成19)に、公園通りが描かれています。

 

5話からなる小説です。全話にポケットティッシュを配る、白いつなぎに赤いキャップ姿の人物が登場します。彼が各話の主人公たちにティッシュを渡す時、物語に新たな展開が生まれます。

 

 例えば最終話「ボーイを探せ!」の主人公・小副川満知子。彼女は15歳のある日、とても辛い目に遭いました。そのすぐ後、渋谷の街でもらったティッシュが一つの縁を生み出してスカウトされ、満知子はタレント「江川舞」となりました。15歳の時でした。

 19歳になった舞は活動に行き詰まりを感じています。元々人目を引く華(はな)があったわけではなかった、舞はそのように自身を見つめます。タレントの仕事が好きというだけではつとまらない世界です。

 そんな彼女には特技がありました。人の顔を一度見たら忘れないということです。ある日その特技をテレビ番組で披露することになりました。

 その収録と同時刻に進行していた別の生放送番組は公園通りからの中継でしたが、大きな問題が発生していました。その一件はやがて舞をも巻き込むことになります。

 

 良い読後感の得られる一冊です。特に最終話。ここには今までの主人公がさりげなく登場しているようです。「ようです」とあいまいにした理由については、実際に読んで納得してほしく思います。

 

渋谷センター街と『二十歳の君がいた世界』

 渋谷センター街に入りましょう。沢木まひろ『二十歳の君がいた世界』(2017・平成29)は印象に残る小説。そして「物語散歩」も可能です。代々木公園や渋谷のセンター街、大田区の池上本門寺周辺などの魅力的な場所が描かれています。

 

 物語は2016年の12月から始まります。主人公は片瀬清海。50歳の専業主婦です。20年間ともに暮らした夫を病気で失いました。子供はなく、この上なく仲むつまじい2人でした。ある日のこと、池上本門寺の鐘を聞きながら歩いていた彼女は、30年前にタイムトリップしてしまいます。

 気づくとそこは代々木公園でした。渋谷に向け歩くうち事態を察した清海。夢だと思っていたものの、やがて現実だと認識します。ただ、彼女はパラレルワールドにやって来たようです。似てはいるものの、元の世界にあったものがここではなかったり、その逆だったりします。

 たとえば、センター街の喫茶店で店主をしている叔父・姫島章二。彼と出会った清海は事情を説明し、助けてもらいますが、元の世界ではこの時この場所に存在していない人間でした。

 

 若い姿の夫・晴彦にも会いました。20歳の自分とも話をします。もちろん先方はまさか30年後の自分と話しているとは気づきません。50歳の清海としては、若き日の自分の言動を目の当たりにして、そのあまりの未熟さに恥ずかしさを感じます。

 清海は忘れていましたが、彼女は20歳のある日、とてつもなく大きな失敗をしていました。しばらくして、その日がこの時代の晴海にもやってきます。

 

「恋文横丁」跡と「恋文」

 センター街を横切ると、そこは文化村通り。目の前に109が見えます。鯨料理の店近くに一本の標柱が立っていて、「恋文横丁此処にありき」と書かれています。今は失われた横町です。その名が生まれる元となった代書の店がかつて実在し、それをモデルに丹羽文雄が小説「恋文」(1953・昭和28)を書きました。

 

 1950年代の初めのことです。真弓礼吉は渋谷の「すずらん横丁」で、兵学校の同期生・山路直人の仕事を手伝い始めました。彼らのお客は進駐軍の兵士相手に夜の仕事をする女性です。朝鮮戦争などで日本を離れた外国兵士の愛をつなぎ止めるため、彼女たちは手紙を書こうとしますが、外国語を知りません。礼吉たちは、そんな彼女たちに代わり、兵士の国の言葉で手紙を書いてあげるのです。兵士から女性に届いた手紙を翻訳するのも仕事の一つでした。

 様々な事情から外人を客とすることになった女性たち。礼吉はそんな彼女たちに理解を示し、誠実に手紙の代筆をしてあげます。彼の書く手紙の文面は情がこもっており、女性たちを喜ばせました。

 ある日、礼吉は客の中に信じられない人を見いだしました。ずっと恋しく思っていた女性・道子です。他の男の妻となり、戦争未亡人となった道子を、礼吉は8年間ずっと探し続けていました。

 道子が外国人兵士と関係を持ち、すでに亡くなったものの子供まで産んでいたと知った礼吉は、いつもの彼ではありませんでした。夜の女たちへの日頃の理解も優しさも吹っ飛び、道子を激しくののしってしまいます。立ち去る道子。礼吉は追いかけねばと思いつつ、動けません。

 この後、自らが道子に吐いた毒の重さに、礼吉自身が最も苦しめられるのでした。

 

 恋文。とても味わいのある響きですね。今ではあまり聞かないのが惜しいです。

 

ブラックブラウンと『ふたご』

 恋文横丁跡碑の近くに、「ブラックブラウン」というレストランがあります。パスタのお店です。

 SEKAI NO OWARIのメンバー・藤崎彩織の小説『ふたご』(2017・平成29)の中で、主人公の西山夏子がここで食事をする場面が描かれていました。この作品は、若者2人の成長を描いた、ひりひりするような物語。物語散歩にも向いていて、東急池上線の池上駅、千鳥町駅(ともに大田区)と、その周辺が多く出てきますが、さりげなく渋谷区のこのお店も紹介されていました。夏子はここでローストビーフサンドを食べています。ただ、実際のメニューには、ローストビーフサンド、ないようです。

井の頭通りと「骰子の七の目」

 井の頭通りに入りましょう。恩田陸「骰子の七の目」(『私と踊って』所収・2008)の「私」こと、斉藤栄一は、スクランブル交差点を渡り、西武百貨店の前からこの通りに入ったようです。

 渋谷ロフトの前を通り、坂道を上った先に、彼の向かうスタジオがありました。

 

 この日は「月に一度の戦略会議」の日です。会議は公開され、都民に開かれています。会議の参加者は、彼に言わせると「都民の良識とも言うべき人々」だそうで、この日、彼らは「柱時計か、腕時計か」というテーマで議論を戦わせることになりました。

 「私」を初めとして、大勢は腕時計支持派。異論も少しは出ますが、「私」にとって結論は「いつものように、良識ある」方向にまとめられていきそうです。

 

 ところが、予想外のことが起きました。いきなり誰かが「どっちだっていいじゃないか」と声を上げたのです。声の主は会議参加者の1人。これまでの会議で見たことのない女性でした。彼女の述べた意見は、スタジオ内外に不穏な空気を呼び込みました。このままではまずい。そう思った「私」は、声に威厳を含ませながら彼女を論破しようとします。でも相手は引き下がりません。どうなっていくのでしょう。

井の頭通りと『出帆』

 井の頭通りの通りの地下に、暗渠となった宇田川が存在します。道はY字路になっていて、その分岐のところに交番があります。その交番の後方、少し歩いた場所に「竹久夢二旧居跡」の碑がひっそりと建っています。足を止める人もいません。

 

 竹久夢二は画家であり、詩人でもありました。「黒船屋」をはじめとする、特徴のある細面の美人画は有名ですね。詩では「宵待草」がよく知られています。

 夢二はこの地(旧地名・中渋谷宇田川857)でモデルのお葉と所帯を持ちました。お葉は本名を佐々木カ子ヨ(かねよ)と言います。所帯を持ったのは1921(大正10)年8月のことです。その後、1923(大正12)年9月の大震災で被害を受けて牛込に引っ越すまで、この地で暮らしました。

 

 夢二の自伝画集『出帆』の中では、夢二は「三太郎」、お葉は「お花」となっています。

 

 

「夢二通り」と『渋谷に里帰り』

 夢二旧居跡の標示柱がある通りを「夢二通り」と呼ぶようです。ここをデートコースとして歩いた人がいます。山本幸久『渋谷に里帰り』(2007・平成19)の峰崎稔と今優里です。

 

 稔は食品会社に勤める32歳。渋谷出身ですが、子供の頃に引っ越しました。その時のとある事情で、彼にとって渋谷は足を向けづらい場所になります。ところが、渋谷方面の営業を担当していた先輩・坂岡チアキが退職することになり、その後釜を命じられ、避けていた渋谷に行かざるを得なくなります。稔は喜怒哀楽に乏しい人間で、相づちも「はあ」くらいしか打てません。引き継ぎで商店を廻る中で、坂岡のすごさを思い知らされます。

 

 峰崎は教育学部の出身ですが、教師にはならず、一般職を選ぶものの、野心もないまま10年経っています。さえないばかりの稔、ただ、さすがに10年のキャリアは全くの無駄ではなく、坂岡のミスをフォローすることもまれにはあり、坂岡でなくてはできないと思っていたことも、意外と自分にもできることがわかります。坂岡とのやりとりの中で、次第に自分のすべきこと、せねばならないことに気づいていきます。元気の出るお仕事小説です。

 

 彼は会社の隣のビルに勤める今優里と親しくなり、彼女に誘われて渋谷で映画を見ることになりました。この日に2人が歩いた道、我々が歩いている道と重なります。宇田川町交番の裏にある中華料理屋で食事をした後、夢二通りを通って円山町の映画館に向かいました。

 

 なお、稔にとって先の恋文横丁は初キッスの場所です。小5の時の思い出です。

 

Bunkamuraと『あたしの嫌いな私の声』

 夢二通りを抜けた突き当たりは巨大な建物。これは東急グループの大型複合娯楽施設Bunkamuraです。ル・シネマやオーチャードホール、シアターコクーン、ザ・ミュージアムなどがあります。

 このうちのオーチャードホールは、成井豊『あたしの嫌いな私の声』(1991・平成3)の中に描かれていました。

 

 主人公の「ユーリ」こと君原友里は声優学校に通っている19歳。音大に入るか声優学校に入るか悩んだ結果、両親の反対を押し切って進んだ道でした。彼女の声は独特で、男性に間違われることも頻繁にあります。それを逆手にとり、自分の声が武器になるかも、と声優を目指しました。

 初めて臨んだオーディション、幸運なことに採用をもらいました。

 

 テレビ局の会議室で、声優同士に顔合わせが行われ、ユーリも出席しました。たまたま別のフロアで行われていた、ある映画の製作発表中継をモニターで見ていたユーリは、そこにいた1人の男性の声を聞いて驚きました。自分の声にそっくりだったからです。

 男性の名前は波多野。その映画の作曲を担当をしている人物でした。ユーリの驚きはそれだけにとどまりません。製作発表の場で、波多野と人気俳優の高杉雄二とが言い合いを始めてしまったからです。記者会見が打ち切られた後も、2人の雰囲気は険悪です。

 高杉が波多野にからかいの言葉をかけました。波多野はそれに対して冷静に言い返します。

 その時です、ユーリには、波多野の口から出た言葉以外に別の言葉が聞こえてきました。それも確かに波多野の声でした。1人の人間が同時に2つの言葉を話せるはずがありません。でもユーリの耳には確かに聞こえたのです。大変に不吉で重い言葉でした。ユーリ以外にその言葉が聞こえた人はいないようです。ユーリの耳の奥には、その言葉がずっと残っていました。

 後日、かつてのユーリの家庭教師・幸吉と行ったコンサートの会場がオーチャードホールでした。コンサートの指揮者はあの波多野。あるいきさつから、彼女は波多野と会話を交わしました。すると、彼女の耳には、他の人には聞こえない波多野の声がまた響いてきます。

 

 物語の今後の展開について、何となく良からぬ予感がします。