雷門周辺物語散歩

神谷バーと『ヒカリノイト』

 神谷バーは台東区浅草1-1-1にあります。まさに浅草の玄関です。1880(明治13)年の創業とのこと。このビルは、震災も戦災も免れたので、大正10(1921)年にできたその当時の姿を残しています。

 

 津川梓『ヒカリノイト』(2010・平成22)は、心に残る言葉が多く見いだせる物語です。この作品、章の名に東京メトロの路線名が使われています。「東京の空」に続く第2章「銀座線」の冒頭は浅草が舞台。この神谷バーが描かれていました。

 

 物語の主要登場人物の中で、唯一名前が示されない女性「私」。彼女は愛する男性を事故で失いました。恋人と二人で行ったバーで初めて彼の死を知らされます。この後、他者との関わりの中で、彼女がどのような心の動きをとっていくのかが描かれます。

 

 「私」はある日、友人と神谷バーに入りました。同じ会社の4つ年下の男性です。彼は酒がだめなので、名物のデンキブランは彼女一人が飲みました。会社の仕事に対して文句を言う彼の言葉を聞きながらも、つい死んだ恋人について考えてしまう「私」です。実は神谷バーも恋人に関係がある場所でした。

 

アリゾナキッチンと『夏の岬』

 2016年10月の初め、作家・永井荷風も贔屓にしていた「アリゾナ・キッチン」が閉店。時の流れを感じました。

 

 植村鞆音『夏の岬』(2009・平成21)にここが描かれていました。

 

 主人公の「私」は会社役員や社長を勤めたこともある人間です。65歳で退職し、自由な時間を多く得られるようになりました。彼が立てた今後の目標の一つに、激しい恋をすることがあります。

 彼には長く連れ添った妻がおり、2人の娘にも恵まれています。幸せな家庭を築いてきていますが、同時に女性関係も相当に充実していたようですし、今も「現役」です。

 そんな彼が夏、山形県の海水浴場で出会った女性が橘千矢子でした。東京の会社に勤務する千矢子は20代半ばで、彼の娘より年下です。しかし彼は千矢子にひかれます。

 彼は東京でも千矢子に会う機会を持ち、千矢子の心に少しずつ自らの印象を刻みつけていきました。

 一月、彼は千矢子を浅草歩きに誘い、アリゾナキッチンで夕食を取りました。その後訪れた隅田川の遊歩道で、彼は千矢子と唇を重ねます。

 今までの経験を超えた何かが起こるように感じる「私」ですが、父親の介護、千矢子の恋人の存在など、新たな事態も加わります。

 誰かを傷つけずにはすまない千矢子との関係。この迷路の先に彼を待つものは光明か闇か。興味を引かれます。

  

 作品には店内に飾られていた永井荷風の写真の描写がありました。荷風がここで食べた料理の一つがビーフシチューだそうです。物語で「私」たちも注文しています。

 

雷門と『蒲生邸事件』

 浅草と言えば、ここ雷門。これをバックに記念写真を撮る人で、一日中賑わっています。たくさんの人力車も出ています。この門、正式名称を風雷神門といいます。

 あまりに有名な門なので、昔から今まで変わらずにこの場に立ち、観光客を迎えてくれていると思われがちですが、この門は、1866(慶応元)年に焼失して以来、1960(昭和35)年まで再建されることはありませんでした。

 

 宮部みゆきの『蒲生邸事件』(1996・平成8)、この物語の感動的な場面に雷門が登場します。

 

 物語の主人公・尾崎孝史は現役での大学受験に失敗。予備校の試験を受けるべく上京して、千代田区の平河町一番ホテルに宿泊します。時は1994(平成6)年2月25日のことでした。ところが深夜、ホテルが火事になってしまいました。孝史はあやうく逃げ遅れるところを平田という男に救われます。ただ、平田の救助方法は非常に特殊でした。彼はタイムトラベルの能力を持っている男。それを利用して、孝史を過去の世界に連れて行ったのです。着いた先は1936(昭和11)年の世界でした。すでに日付が変わって2月26日の未明になっています。1936年2月26日未明。これこそ歴史に名高い二・二六事件の発生した時でした。平田と孝史がいる場所は、後に平河町一番ホテルが建つ場所。その時代には退役軍人で陸軍大将の蒲生憲之の屋敷がありました。

 孝史はホテルにあった説明で、ホテルがかつて蒲生憲之の屋敷であったということは知っています。そして二・二六事件の時に蒲生憲之が自殺をし、その遺言書が長い年月を経た後に発見されたということも、ホテルの掲示で情報を得ていました。

 1936年の時代、平田は蒲生家の下男としての職を持っていました。孝史は平田の甥という名目で、蒲生家に置いてもらうことになります。まもなく、孝史は蒲生憲之の自殺に接しました。銃を用いての自殺でした。しかし、孝史はその死に不審な点があることに気づきます。

 

 孝史は1936年の時代に、蒲生家で好きな女の子ができます。向田(むこうだ)ふきという女中さんです。2歳年上の20歳。雷門はこのふきさんに関連したあるエピソードにおいて舞台として語られます。

 

雷門と『秘密』

 谷崎潤一郎「秘密」は1911(明治44)年の作品ですので、雷門は名前だけ存在して実際の門はなかった時期です。でも主人公たちはここで会う約束をしていました。

 

 まだ若い男性「私」は、賑やかな世間から身を隠して、「ミステリアスな、ロマンティックな色彩を自分に賦与」したいという願望がありました。彼は、浅草近くにうってつけの場所を見つけ、そこにある寺の一室を借りて住みはじめます。ある日、彼は古着屋で手に入れた女性の着物を身につけ、女性の姿になって夜の浅草の街を歩きました。きゃしゃな体格のため、だれも男性だとは思いません。それどころか、優雅な彼の顔立ちや美しい衣装をうらやましそうに見る女性もいます。

 

 いよいよ面白くなった彼は、その姿で映画館に入りました。ところがそこで、ある女性が彼の正体を見抜きます。かつて上海に船旅をした時、知り合った女性でした。

 彼らは日を改めて会うことになりました。待ち合わせ場所は夜の雷門。9時から9時半までの間に女性が迎えの車をよこすそうです。但し、女性は自分のいる場所を知られたくないので、車に乗る時には目隠しをしてもらう、という条件を出しました。

 

 「私」は不思議な好奇心と恐怖心とを感じます。まるで自分が探偵小説中の人物になったかのように思えてきました。

 

仲見世通りと『浅草あやかし絵解き』

 雷門から宝蔵門へと続く参道に広がる商店街が仲見世です。食べ物屋やお土産屋など、小さなお店がいくつも軒を連ねていますね。休日はもちろん、平日も10時以降はかなりの混雑になります。

 ここで瑞山いつき『浅草あやかし絵解き』(2018・平成30)を紹介したいと思います。タイトル通り、浅草の各所が描かれているライト文芸です。

 

 物語の中心人物は富嶽北斗(とみたけ・ほくと)という男性。身長190センチ余りの眼光鋭い大男ですが、体育系ではなく絵師です。得意とするのは妖怪画。小さな頃に両親と死別した彼の目には、なぜか昔から「あやかし」が見えました。その「力」のために、さまざまなトラブルがありましたが、紆余曲折の末、現在ではあやかし専門の画家として食べていけるようになっています。

 

 彼にはもう一つ、ある能力がありました。「吸印」と名付けています。彼の目に映じたあやかしの姿をスケッチブックに描くと、絵の完成と同時にそのあやかしが絵の中に吸い取られて、封じられてしまうのです。

 

 北斗の相棒はあやかしを扱った小説を書く文士・多喜沢真(まこと)。この2人に北斗の姪である葛飾美沙緒が加 わります。真にはあやかしを見る能力はありませんが、美沙緒は持っています。そのため、彼女も時としてトラブルを抱え込みやすい。仲見世で食べ歩きをしていた3人でしたが、美沙緒が急に動きを止めました。宝蔵門の方に歩いて行く人たちをじっと見つめています。何かを見いだしたようです。

 

お狸様の鎮護堂

 伝法院通りに出ます。少し進んだ右手に、俗に「お狸様」と呼ばれている鎮護堂があります。ここには比較的新しい伝説が伝えられています。

 

 1871(明治4)年の9月に、浅草寺の住職・唯我詔舜僧正が、寺の近くの雑木林と藪とを開墾しました。ところがここは永年古狸の棲み家となっていた場所で、ねぐらを奪われて怒った狸が復讐を始めました。屋内に石ころが投げ入れられたり、台所の器物類が自然に踊り出したり、米俵が天井に舞い上がったり……。

 そんなとき、僧正の夢に小僧が現れ、「自分は境内に住んでいた狸である。棲み家を奪われて難儀しているが、是非とも祠を建てて神と祀ってほしい。そうすれば悪戯はやめる」と言って消えました。そこで、奥山の一角にお堂を造り、防火・盗難除けの神様としてお祀りしたということです。(佐藤隆三『江戸の口碑と伝説』1931・昭和6 による)

 

 このお堂は後に伝法院の境内に移されました。本殿は1917(大正6)年の再建ということで、戦災を免れた貴重な建造物です。

 

オレンジ通りと『下町和菓子栗丸堂

 似鳥航一『お待ちしてます 下町和菓子栗丸堂』(2014・平成26)のタイトルにもなっているお店は、ここオレンジ通りに存在しているという設定です。

 

 明治から続くこの和菓子店の、現在の主人は栗田仁(じん)。まだ19歳の若者です。交通事故で亡くなった両親に代わり、4代目として店を再開して半年。残念ながら経営はかなり厳しいものがあります。

 ある日、50代の男性が店を訪れました。その人がかつて浅草でトラブルに遭った時、仁の父親に店の豆大福をもらったことがあるとか。その後長らく海外に滞在していた男性は、20年ぶりに帰国。その時の味がどうしても忘れられず、久しぶりに店に来たのだそうです。

 ただ、仁の作った豆大福を食べた男性は首を振り、思い出の味ではないと言います。肩を落として店を出る男性。その姿を仁は唇をかみつつ見送りました。どうすれば父の作った和菓子の味を出せるのか。試行錯誤が続きます。

 

 そんな時、仁は知人から葵という女の子を紹介されました。美しく、少々「天然」キャラの入った彼女、和菓子の知識と鋭敏な味覚は相当なものでした。

 問題となっている豆大福、仁と先代との味の違いがどこからくるのか、葵にはわかったようです。ただ、この一件、実はもっと深い事情がからんでいました。

 

アンヂェラスと『お狐さまと食べ歩き』

 オレンジ通りの喫茶店「アンヂェラス」が2019年3月に閉店しました。池波正太郎氏など、様々な有名人がひいきにしていた名店だけに非常に残念でした。もちろんこの物語散歩でも毎回その前を通り、紹介もしていました。有名だったのは水出しの珈琲である「ダッチ・コーヒー」。「梅ダッチ(ダッチ・コーヒーに梅酒と梅がついたもの)」というもあり、これまた有名でしたが、未成年の生徒には紹介がはばかられました笑。

 

 アンヂェラスが出てくる作品を一つ。若者向きの作品を紹介しましょう。八代将門『お狐さまと食べ歩き』(2018・平成30)です。

 

 主人公の名前も八代将門です。上京して東京の大学に通う彼の実家には小さなお稲荷さんのお社がありました。お社の脇には「永暦」と彫られた石碑が立っています。もしこの石碑の文字が真実ならば、お社は1160年ころから存在することになります。

 

 八代は物心つく頃から、そのお社に朝晩お供えを持って行く係でした。お供え物は揚げやいなり寿司です。誰が食べるのか分かりませんが、供えられたそのお供物は、いつの間にかきれいになくなっています。

 ある日帰省した八代は、有楽町で買った有名な美味しい和菓子をこのお社に供えました。気まぐれに近いこの行動が、その後の物語の発端となります。

 

 そのお社に祀られていたのは、何と金毛白面九尾の狐。「玉藻の前」として鳥羽上皇をたぶらかし、ついには退治されて那須の殺生石に化身したという、伝説の妖狐でした。ところが「彼女」は、実は甘い物が大好き。八代がお供えした和菓子の美味しさに惹かれ、もっと食べたくて食べたくて仕方なくなり、ついに850年ぶりに再び人間界に姿を現しました。さすが妖狐だけあって、その姿は現代風のスタイル抜群な美女。「神使(しんし・使いっ走りのようなもの)」を務めることとなった八代を従えて、東京や京都のスイーツの食べ歩きが始まります。神通力自在の妖艶なお狐様が動き回るわけですから、行くところ行くところで何かが発生します。メインのストーリーを楽しみつつ、極上スイーツについての知識も増えるという面白さになっています。

 

 浅草についても様々なお店が紹介されています。お狐様たち一行、アンヂェラスではやはり梅ダッチコーヒーを味わっていますね。もちろんケーキ付きです。