茗荷谷駅から再スタート

 さて、午後のコースになります。東京メトロ丸ノ内線の茗荷谷駅が再スタート地点です。春日通に背を向ける形で、細い道を進むことにします。地下鉄が下を走る陸橋を通り、少し進むと、今度は道が下り坂になっています。この坂は釈迦坂と呼ばれています。坂に接する塀の向こうにお寺が見えるのがわかりますか。このお寺は徳雲寺といいます。この寺に石造りの釈迦如来像があり、坂から見えたことにより、この名が付けられたそうです。

 

 この徳雲寺、夏目漱石に少し関係があります。

 夏目漱石は1916(T5)年12月9日に亡くなりましたが、12日に行われた親戚・友人・門下生による告別式では、このお寺から僧侶が招かれて読経を行ったそうです。また同日、青山斎場で行われた葬儀終了後、この寺において法要が行われました。15日の初七日法要が行われたのもこのお寺だったそうです。

小日向と吉田修一『ひなた』

 釈迦坂の坂下は、丸ノ内線の線路をくぐるようになっています。さっきの陸橋では線路を下に見、今度はそれを上に仰ぐという、かなり変わった経験をすることになります。このあたりは地形の高低差が大きいところです。今我々はちょうど、小石川台地と小日向台地との間、谷間にいることになります。そしてこの谷の名を茗荷谷といいました。古くからこの一帯はミョウガの産地で、畠に多く植えられていたのだそうです。

 見えてきたキャンパスは拓殖大学ですが、その校門前に茗荷谷の名を示した標識があり、ミョウガが植えられています。標識には先ほど記した地名の由来と、1966(S41)年3月末までは、このあたりを茗荷谷町と呼んでいた旨の説明が書かれています。

 

 拓殖大学の横を見ると、坂が緩やかに上へと続いています。吉田修一の小説『ひなた』(2006・H18)に描かれる坂は、どうやらこのあたりのようです。

 

 拓殖大学の前を抜けて、今度はゆるやかな坂を上って行くと、(後略)

 

 この家を実家とする銀行員・大路浩一とその弟・尚純。そして浩一の妻・桂子、尚純の恋人・新藤レイ。物語はこの4人それぞれの四季、という形で進められていきます。

深光寺と滝沢馬琴

 その前にある深光寺の境内に我々は向かいます。浄土宗のこのお寺、かなりいい雰囲気をもっています。この境内にある墓地の一番前に江戸の読本作家・滝沢馬琴(1767~1848)のお墓があります。滝沢馬琴は千葉県にある東邦大付属東邦中高の生徒としてはぜひ知っておいて欲しい人。古い時代の千葉県を舞台とした伝奇物語『南総里見八犬伝』を書いた人ですから。

 

 室町時代が舞台です。安房の国の領主・里見義実には娘・伏姫(ふせひめ)がいました。彼女は犬の八房(やつふさ)をかわいがります。義実は隣の領主・安西影連との戦いの時、「影連の首を取ってきた者には娘をやる」と口走ります。ところが影連の首を取ってきたのはなんと犬の八房でした。約束は約束、伏姫は山の中で八房と暮らすことになります。後、伏姫は懐妊。その後、伏姫も八房も死んでしまいますが、伏姫の胎内から八つの珠が飛び出し、八方に飛び散ります。この珠、それぞれに「仁義礼智忠信孝悌」の中の一つずつの文字が浮かび上がるという不思議なものでした。この珠はこの後、名字に「犬」がつく八人の剣士が身に帯びることになります。この「八剣士」はその後巡り会い、里見家の為に大活躍をします。

 

 実に簡単にあらすじを紹介しましたが、実際は大長編。作者の馬琴も途中で視力を失ってしまいました。それを助け、筆記をしたのが、長男の嫁の路女(みちじょ)でした。彼女のお墓も馬琴のお墓の後ろにあります。

蛙坂と田中貢太郎

 田中貢太郎という作家がいました。1880(M13)年に高知県で生まれ、1941(S16)年に亡くなったこの人は、いわゆる大衆作家で、実話小説の分野で主に活躍しました。ですが一方、この人の作品の中にはかなりの量の怪談ものがあり、その味わいは令和の今になっても決して色あせることはありません。この人、1913(T2)年12月に茗荷谷町95番に越してきました。この番地は現在では地下鉄丸の内線の線路となってしまっています。

 

 さて、深光寺を出た我々は、今来た道を少し戻ります。そして丸ノ内線のガード手前を右折して、その先の坂道を上ります。茗荷谷から小日向台地へと上がることになる訳です。ところでこの坂には蛙坂という名がついています。とてもユニークな名前です。坂名の由来もなかなか楽しく、昔、この坂の東方の崖下にあった湿地に住む蛙と、向かい側の武家屋敷の庭に住む蛙とがここで合戦をしたがゆえの命名ということです。

 

 上の田中貢太郎に「黒い蛙」(1934・S9)という怪談があります。曰く因縁のある借家にそうとは知らずに引っ越してきた平山という海軍中尉とその妻子が、あやかしにあって悲劇に陥るというストーリーです。そのあやかしというのは「黒い蛙が祟る」というものでした。

 

 平山大尉の借りている家は、小石川の切支丹坂に近い処にあった。そこは崖の下になった処で、庭の隅には清水の湧く池があって、池の中には水蓮が見え、周囲には燕子花などが咲いていた。

 

 切支丹坂というのはこの後行きますが、ここから目と鼻の先です。貢太郎はここ蛙坂の伝説を参考にして「黒い蛙」の話を作ったのかもしれません。

 

切支丹坂と夏目漱石

文京区小日向(こひなた)1丁目に地下鉄の小石川検車区車両場があります。その下を潜る地下道へ続く坂道を「切支丹坂」といいますが、春日の方から下って行く坂道を指すという説と小日向から下る坂を指すという説とがあります。春日から下るほうの石段の坂は、「庚申坂」とも言いました。

 夏目漱石の次の文章における「切支丹坂」も今の「庚申坂」のことのようです。気味の悪い坂だったようです。

 

 竹早町を横ぎって切支丹坂へかかる。なぜ切支丹坂と云うのか分らないが、この坂も名前に劣らぬ怪しい坂である。坂の上へ来た時、ふとせんだってここを通って「日本一急な坂、命の欲しい者は用心じゃ用心じゃ」と書いた張札が土手の横からはすに往来へ差し出ているのを滑稽だと笑った事を思い出す。今夜は笑うどころではない。命の欲しい者は用心じゃと云う文句が聖書にでもある格言のように胸に浮ぶ。坂道は暗い。滅多に下りると滑って尻餅を搗く。険呑だと八合目あたりから下を見て覘(ねらい)をつける。(夏目漱石『琴のそら音』1905・M38)

 

切支丹坂と志賀直哉 

 志賀直哉(1883~1971)は少年時代、自転車に熱中していたそうです。祖父に買ってもらった米国製の自転車を乗り回して、東京中はおろか横浜にも頻繁に行っていたようです。すごいですね。坂道を登り降りるのに特に興味があって、その名も『自転車』(1951・S26)という作品には、様々な坂を自転車で登ったり降りたりしたことが書かれています。志賀直哉が下った坂のその中には、この切支丹坂がありました。当時の自転車のスタイルを知る上でも興味深い小説です。

 

 恐ろしかつたのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるといふ事は後に知ったが、急ではあるが、それ程長くなく、登るのは兎に角、降りるのはそんなに六ケ(むつか)しくない筈なのが、道幅が一間半程しかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛び込む心配のある事だつた。私は或る日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルズル滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするやうなもので、中心を余程うまくとつてゐないと車を倒して了ふ。坂の登り口と降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうといふ満足を感じた。(『自転車』)

 

切支丹坂と岡本綺堂

  岡本綺堂という怪異譚の名手がいました。その趣ある怪異譚集は光文社文庫から出ています。1924(T13)年の『青蛙神(せいあしん)』は、話の記録者である「わたし」が、「青蛙堂主人」に招かれ、彼の家を訪れるところから始まります。「青蛙堂」というのは「わたし」の友人のことで、本名は梅沢、歳の頃45、6の弁護士です。もう法律事務所の方はたたんでしまい、日本橋のとある大商店の顧問におさまっています。彼は怪談に興味を持ち、知人を自宅に呼んで怪談の会を開くのです。「わたし」は3月3日の雪降る午後、「小石川の切支丹坂をのぼって、昼でも薄暗いような木立の奥にある」青蛙堂をおとなうのでした。

 

 小石川の竹早町で電車にわかれて、藤坂を降りる、切支丹坂をのぼる、この雪の日にはかなりに難儀な道中をつづけて、ともかくも青蛙堂まで無事にたどり着くと、もう七、八人の先客があつまっていた。(『青蛙神』)

 

切支丹屋敷跡

 「切支丹坂」の由来となったのが切支丹屋敷。もと切支丹宗門奉行井上筑後守正重の下屋敷だった場所で、1623(正保3)年に牢を建て、取調所となりました。

 

 三代将軍家光は、キリシタン弾圧に躍起になっていました。1623(元和9)年には、イエズス会のアンジェリス神父を始め信徒ら51人を市中引き回しのうえ、港区芝の札の辻で火あぶりにしました。1633(寛永10)と翌34年には、「穴吊り」で殉教していった人がいました。1637(寛永14)年の島原の乱以後、取り締まりは一層厳しくなります。

 ただ、幕府がいくら残酷な処刑をしても、キリシタンたちは天国が約束された歓喜さえ訴えつつ毅然として死を受け入れたので、見物人をかえって感動させることとなりました。そこで井上筑後守は、捕らえた宣教師を殉教させず、背教者として転ばせる策をとることにしました。井上筑後守自身も、もとキリシタンだった(浪人し、仕官を求める時に棄教)ので、キリシタンの考え方がよくわかっていたのです。井上は、江戸へ送られてきたキリシタンたちに様々な拷問を加えて背教を迫ります。穴吊りでフェレイラ沢野神父が転び、上々の成績をあげたとみた井上は、今度は長崎で捕らえたキリシタンを江戸へ送らせることにしました。

 「キリシタン屋敷」とはつまり「牢屋敷」です。ジョゼフ・キャラ、ヨハン・シドッチなどが主な収容者でした。収容者には下男や下女までついて、一見優雅な牢生活ともみえましたが、吟味や拷問が度々行われ、独房に入れられた者相互の連絡は許されませんでした。一橋又兵衛という役人と召使の1人が連絡の便宜を図ったことが発覚したときは、2人とも死刑にされています。

 

 2014(H26)年、この付近のマンション建設現場で人骨が出土し、ヨハン・シドッチの可能性が高い、との鑑定の結果発表がありました。この遺骨を元に国立科学博物館はその顔を細部まで復元した頭像を作っています。

八兵衛石 または夜泣き石

 この切支丹屋敷に「夜泣き石」の悲しい伝説が残っていました。『江戸の口碑と伝説』(佐藤隆三・1931)から引用します。

 

 その頃牢獄の番卒に八兵衛と云ふ若者があつた。多くの邪宗徒に接してゐる間に熱心なる信仰を持つ様になり、牢見廻りにかこつけて、宗徒と密会し、外部の宗徒と連絡を取つてゐるうちに、宗徒の女と共鳴して恋に陥つて終つた、八兵衛はそれのみならず番所の機密を探つて伴天連共に洩したと云ふ廉で、おのれ猪小才な番卒、目に物見せてくれんと許りに、延宝七年七月十二日に無残や、八兵衛は穴の中に逆さ埋めにされ、その上に一塊の石を置いて目標にしたのが、この八兵衛石である。

 

 石に向かって「八兵衛さん悲しかろう」と声を掛けると石が返事をするとか、この石が深夜すすり泣くとかの言い伝えが残っていたようです。この石は、残念ながら近年その行方がわからなくなってしまいました。

夏目漱石と本法寺

 現在の切支丹坂を横目に見て南下します。このあたりは小日向という地名ですね。この小日向に菩提寺を持つのが、夏目漱石坊っちゃん』(1906・M39)の主人公でした。

 

  坊ちゃん後生だから清が死んだら、坊ちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊ちゃんの来るのを楽しみに待っていますと言った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。(『坊っちゃん』) 

 

 養源寺という名のお寺は駒込にあるようですが、夏目家の菩提寺だった本法寺が神田川の近くにありますので、どうやら漱石はこのお寺のことを意識して書いたのではないかと思われます。

 

水道端図書館

 巻石通りに出ます。この通りは神田上水の跡だそうです。西に進むと左手にかわいらしい図書館があります。水道端図書館と言います。紀田順一郎のミステリー『古本屋探偵登場』(1982・S57)所収の「殺意の収集」に描かれた図書館のモデルはここかもしれません。

 

 須藤康平は神田神保町で古本屋を営んでいます。彼は新聞に「本の探偵」を行うという広告を出しました。書籍・名簿・卒論等、何でも見つける、という探偵です。

 依頼人第1号は津村恵三という収書家でした。彼は特に限定本の収集に情熱を注いでいて、自らの収書の極意を、熱意ならぬ「殺意」とまで表現する人物です。

 津村は須藤に1冊の古書を入手したと告げました。戦前に出た、まさに幻の書です。限定約300部しか出されなかった中で、さらに2冊しかないという私家版。その1冊とのこと。市場に出た時の値段は計り知れません。

 津村はそれを図書館に寄託していました。保管の安全性を考えてのことです。ところが須藤が津村に連れられて、その図書館に見に行ってみると、何とその希書がいつの間にか別の二束三文の雑誌とすり替えられていました。一体誰がいつ行ったのか。

 

江戸川公園と「首くくりの木」

 音羽通りを渡ります。この先、江戸川橋から神田川沿いに江戸川公園が広がっています。緑あふれる自然歩道となっていて、なかなか快適です。右手が斜面となっていますが、それはここが関口台地の南端に位置しているからです。

 斜面に茂るこの雑木林のどこかに、人が首つりをした木があったのだそうです。でもこれはフィクション。私立探偵の西連寺剛が活躍する、都筑道夫『ダウンタウンの通り雨』(1981・S56)所収の「首くくりの木」でのお話です。

 

 探偵のもとを訪れた漫画家の明石六郎は、「首くくりの木」の場所を内緒で調べてほしいと、奇妙な依頼をします。明石が亡父に聞いたという話で、同じ木の同じ枝で3ヶ月連続して首つりがあり、そう呼ばれるようになったとか。

 探偵は、明石の父が東京のどこに住んだかを聞き、可能性のある場所をあたっていきます。その一つが文京区の関口でした。江戸川橋近くにある糸屋の老人に話を聞くと、そういう木の存在は不明だが、確かに子供の頃に首つりがあった、とのことでした。

 老人は探偵と江戸川公園に行き、斜面に生える太い木を指して、これが首つりのあった木だと教えます。それが依頼人の捜している木なのでしょうか。

   

 この作品には、椿山荘など江戸川公園周辺の昔の様子が書かれていて、興味を惹かれます。もちろん内容的にも面白い作品で、最後の最後に、なぜ木などを探すために依頼人は探偵を雇ったのかが、意外な結末と共に示されます。

 

 神田川に並行する新坂を上ります。途中に右手には太宰治の心中相手であった山崎富江の眠るお寺があります。

 

『ジーンズをはいた女神たち』と椿山荘

 さて坂を上り、少し進んだ左手に、結婚式場としても有名な椿山荘が見えてきます。明治時代、2度内閣総理大臣をつとめた山県有朋の別邸でした。元は江戸時代に上総久留里藩黒田家の下屋敷があったところです。このあたりは椿の木が多く、椿山(つばきやま)と呼ばれていました。椿山荘は山県有朋の命名だそうです。その庭園は見事で、豊かな緑や池に泳ぐ鯉を見ていると、自然と心が和んでいきます。

 

 凪沢了『ジーンズをはいた女神たち』(2006・H18)の主役は、11人の女性。年齢も境遇も異なる彼女たちの生き方は、12の物語となって結晶しました。

 11人の中で一人だけ2度登場する女性「ユウコ」の新しい部屋からは椿山荘が見えます。

 彼女には親しい男性が2人いました。美大在学時代の非常勤講師だった今井と、今井の友人でデザイン事務所を開いている大橋。ユウコは、妻も娘もある大橋と男女の関係になって4年が経ちました。大橋は真剣にユウコとの未来を考えているようですが、彼女は関係をもう終えるつもりでいます。大橋が妻と口論をして娘が泣きじゃくった、という話を聞いた時、娘に対してもっと苦しめと思った自分自身に愕然としてしまったからです。

 ユウコは別れた後の心の救いを、今度は今井に求めようとします。

 再び物語に現れた時のユウコは、既に今井とも切れていました。部屋も移り、ひっそりと孤独な生活をしています。ある休日、彼女はカップルが行き交う椿山荘を訪れました。

 すると突然、彼女の脳裏に、かつて今井が入った言葉、「そんなにひとりで、どうするつもり?」が蘇り、動揺します。

 

 庭園の池畔にたたずむユウコ。視線の先にあるのは群れから離れた一匹の鯉です。じっと動かないその鯉を見つめる彼女の心に去来する思いは何でしょうか。

 

 椿山荘には古香井(ここうせい)という清冽な湧き水があります。自然水が次々と失われている都内ではとても貴重な存在です。同じ水源を利用したミネラルウオーター「No.1」が売られていたこともありました。

 

 ところで四谷物語散歩で紹介した柚木麻子『あまからカルテット』(2011・H23)の「はにかむ甘食」の章ですが、そのクライマックスでは、この椿山荘のラウンジが舞台となっています、

 

東京カテドラル聖マリア大聖堂

 椿山荘の向かいに個性あふれる姿を持った大きな教会建築が現れます。東京カテドラル聖マリア大聖堂です。昭和39(1964)年の完成ですが、天にそびえ立つ、その独特な形は、今も全く色あせていません。丹下健三の設計になるものです。

 鹿島田真希『ナンバーワン・コンストラクション』(平成18・2006)では、「T聖堂」という表現で登場します。

 

 ある日、ここを2人の男性が訪れました。1人は大学で建築史を研究するS教授、もう1人は研究生のM青年。この聖堂の構造や敷地内の他の建物についての話をしています。

 41歳になるS教授は独身ですが、この時1人の少女に恋をしていました。彼女は大学近くのカフェで働いています。残念ながら片想いです。少女には既に婚約者がいるからです。

 相手はS教授と同じ大学で非常勤講師をしているN先生です。長身で美男子と、少女にお似合いの青年ですが、心の中に大きな苦悩を抱えています。婚約者の少女を含め、周囲に対して傲慢な態度を示し、時に暴力的になりますが、それも彼の心の苦悩と関係するのかもしれません。

 M青年もN講師を知り、厭世的な彼の思想の影響を受けてしまいます。遺書まで書き始めました。M青年の恋人は、彼の心の危険な変化を知り、S教授のもとを訪れます。

 

 N講師やM青年の心は救われるのか、救われるとすれば誰のどのような手段によってなのか。一番の読みどころです。

 S教授は工学科の先生らしく、人の心を都市や建築になぞらえて思考を深めていきます。その論理も興味深いものがあります。

1音羽通りと竹内雄紀『オセロ』

 村上春樹『ノルウェイの森』『蛍』の関係地である和敬塾の門を見た後は横断歩道を渡って少し戻ります。小道に入って小日向図書館の前を通って進みましょう。このあたりは小川未明がかつて住んでいた場所になります。

 鉄砲坂を下るとやがて音羽通りに出ます。左手には大塚警察署や講談社の建物(画像)がありますね。この周辺竹内雄紀の小説『オセロ●〇』(2014・平成26)の重要な舞台です。

 

 タイムスリップの物語です。時間を旅する「私」は、47歳の会社員・岸田信秀(きしだ・のぶひで)。ある日、目覚めると中学3年生に戻っていました。若い父母の姿を見てびっくりしています。

 本来その時代にいたはずの「僕」こと14歳の信秀は、「私」と入れ替わる形で33年後の世界へ。社会人として出勤する羽目になりました。

 ところがこの「2人」、翌朝目覚めると元の世界に戻っていました。そしてその翌朝にはまた互いに時代が入れ替わる……。ややこしいことになってしまいます。4歳の「僕」は、音羽通り近くの国立大付属中学に通っています。「ドラ」というニックネームの親友とふざけあうのが大好き。そして後輩の杉崎翔子(すぎさき・しょうこ)も大好きです。33年後の世界で自分のことを「センパイ」と呼ぶ妻がその翔子なのかどうか、彼はとても気になっていますが、もちろん本人に直接尋ねることははばかられます。

 一方、47歳の「私」がスリップした33年前の世界で気にしているのが「あの〈事件〉」です。それはどうやら翔子に関わる大きな出来事のようです。ぞして、彼のその後の生き方を変えることにもなったらしい。その「事件」が、この世界ではあと数日後にやってきます。それに対応することになるのは「僕」なのか「私」なのか。その事件とは一体何で、避けることは可能なのか。「Xデー」は次第に近づいてきます。

 

 信秀、翔子、「ドラ」たちが通う進学校は、大塚警察署前の交差点の先、上り坂を登ったところに設定されています。実際にそこにあるのは筑波大附属高校・中学校。なるほど、ですね。

鼠坂

 文京区小日向3丁目と音羽1丁目の間から音羽通りへと降りる坂を鼠坂と言います。

 同じ名を持つ坂は、新宿区や港区にも見ることができます。勾配には差がありますが、幅の狭い坂であるということは共通しています。

 ここ文京区の鼠坂は、森鴎外のその名も『鼠坂』(1912・M45)という短編の舞台となりました。

 物語は、この鼠坂の坂上にあった屋敷跡に新しい邸宅が建つところから始まります。新しいあるじは深淵という、いわゆる戦争成金でした。

 

 2月17日の夜、この屋敷では2人の客を迎え、新築祝いの酒宴が開かれていました。日清・日露両戦争から間もない時代で、酒を飲んで口が軽くなった彼らの話題も、戦争時における中国での滞在経験に基づくものが主でした。

 話題の広がりの中、主人の深淵は、客の一人である新聞記者の小川からかつて聞いた話はすごかったと、何やら思わせぶりなことを言い出します。もう一人の客はその内容がどのようなものか、大いに興味をひかれますが、話の主役である小川本人は、この話題に触れられたくないようで、語ろうとしません。しかし、小川が嫌がるのもかまわず、主人はもう一人の客に、詳細にその話をしてしまいます。一人の中国人女性の悲劇に関する話でした。そして、悲劇はこの晩、小川の身の上にも降りかかることになります。

 

 小日向から音羽へ降りる鼠坂と云う坂がある。鼠でなくては上がり降りができないと云う意味で附けた名だそうだ。台町の方から坂の上までは人力車が通うが、左側に近頃刈り込んだ事のなさそうな生け垣を見て右側に広い邸宅を大きい松が一本我物顔に占めている赤土の地盤を見ながら、ここからが坂だと思ふ辺まで来ると、突然勾配の強い、狭い、曲がりくねった小道になる。人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にして挽かせて降りることもできない。車を降りて徒歩で降りることさえ、雨上がりなんぞにはむづかしい。鼠坂の名、真に虚しからずである。(『鼠坂』)