日本橋散歩・人形町散歩です。

 2024年3月13日に実施しました。ミステリー作家・東野圭吾が、そのデビュー初期から愛し、育ててきたキャラクター・加賀恭一郎が刑事として活躍する作品『新参者』(2009・平成21)、『麒麟の翼』(2010・平成22)、『祈りの幕が下りる時』(2013・平成25)の舞台となる場所です。それから10年が経ち、風景が変わったところも多くありますが、その変化も散歩の楽しみとして捉えたいと思います。日曜日に営業しないお店が多いエリアですが、今回は平日実施だったので街も一層活気があり賑やかでした。実はこれ重要で、東野圭吾作品以外に紹介した物語の中に、人形町・日本橋周辺のお店を描いているものが複数あるからです。いよいよ盛りだくさんとなって、時間が足りなくなってしまいました。散歩地図は下の通りです。

水天宮

 さて最初に向かうのが水天宮です。水天宮の総本宮は福岡県久留米市にあります。久留米藩主の有馬家によって大事にされていました。19世紀の前半、9代目・有馬頼徳が江戸に分祀しました。その時の場所は、現在の港区、赤羽橋の近くでしたが、1872(明治5)年に現在の場所に遷りました。地震対策などのための工事が終わり、大きな美しい社殿が完成しました。交差点からも見えます。

 この水天宮は安産の神様としてよく知られています。ただ、ご利益は安産以外にもあり、それが『麒麟の翼』では、ストーリーにうまく生かされています。

 

水天宮前交差点と『バスを待って』

水天宮の交差点に交番があります。石田千『バスを待って』(2013・平成25)の一篇「帯祝」の主人公は、この交番で「水天宮はどこでしょうか」と尋ねて警官からあきれられました。

 岡山出身の温子は東京に来て8年経っているものの、あまり詳しくありません。実家の母親から、旧家に嫁いで現在妊娠中の妹のために水天宮に行ってきてくれと頼まれたので、日曜日、しぶしぶ出てきたというわけです。

 言われたとおりお参りをすませ、腹帯を買いました。ちょうどバスが来たので乗ります。バスから人形町の町並みがよく見えました。彼女にはそれがすごく魅力的に映りました。

 冒頭とラストで文体が異なります。なぜか。これが抜群の読後感を生み出します。ぜひ読んでほしい物語です。

 

浜町緑道

 水天宮を離れ、新大橋通りに沿って北東に少し進みます。通りに直交して緑の豊かなベルト状遊歩道があるのがわかります。浜町緑道です。元は浜町川という川が流れていました。ここを進みましょう。『麒麟の翼』で重要な場所です。

 

明治座

 緑道を抜けた先に見えるビルが明治座です。『祈りの幕が下りる時』の重要人物・角倉博美が演出する『異聞曽根崎心中』が上演されている場所です。

 

甘酒横町

 明治座を見たらUターン。人形町の甘酒横丁に入りましょう。ここは『新参者』の方で頻出する場所です。

 

谷崎潤一郎生誕の地跡  

 小説『細雪』『刺青』『源氏物語』の現代語訳などで知られる谷崎潤一郎は、1886(明治19)年、この地にあった母方の祖父が経営する谷崎活版所で生まれました。現在の地名では、日本橋人形町1-7-10になります。

 

シュークリー 

 日本橋小学校の前を通り過ぎた右手に洋菓子店「シュークリー」を見つけました。シュークリームが大変に人気だそうですね。

 このお店は八代将門『お狐さまと食べ歩き』(2018・平成30)に描かれていました。通力自在の妖狐である金毛白面九尾の狐が現代に現れる物語です。ただ、大変な美女の姿で主人公の前に現れたこのお狐さま、甘いものが大好きでした。850年という長い時を経て、また人間界に姿を現した理由も甘味に関係していました。

 

 主人公の学生・八代将門は、この美女を連れて東京や京都でスイーツの食べ歩きをするはめになりました。その中で、ここ「シュークリー」が出てきます。

 

 この物語には、『麒麟の翼』に描かれた笠間稲荷神社東京別社など、この近くにある稲荷社も複数紹介されています。

 

親父橋跡と三田完作品

 かつて日本橋川から分岐した、西堀留川と東堀留川という水路がありました。東堀留川に架かっていた橋に親父橋があります。とてもユニークな橋名ですね。この「おやじ」というのは、吉原遊郭の創始者である庄司甚右衛門の通称なのだそうです。

 

 三田完の小説、その名も「親父橋」『櫻川イワンの恋』2009年所収)は落語家の物語です。かつて親父橋があった場所近くのアパートに住む悠楽亭小ぎくは、名が菊弥と改まりました。真打昇進に伴う改名です。しかし、周囲も本人自身も、この昇進は妥当ではないと思っていました。経験も浅いし何より実力が不足しているからです。彼の父親・菊太郎は大看板の落語家ですが、我が子に甘く、この昇進も父親のごり押しによるものでした。

 

照り降り町と『橋ものがたり』

 親父橋が存在していた、江戸末期や明治の地図を見たところ、その橋に続く通りに「テリフリ丁」「照降町」という名前を見つけました。現在の地図にあてはめると、日本橋小舟町と日本橋小網町とが接する通りにあたります。面白い名前ですが、傘や下駄・雪駄を売る店が並んでいたことからきた通称だそうです。

 

 藤沢周平の時代小説『橋ものがたり』(1970・昭和45)の中の一編「小ぬか雨」の主人公・おすみも、ここ照り降り町の、履物を売る店に住み込みで働いています。おすみは20歳。下駄職人の勝蔵と近々結婚をすることになっていました。ある夜、おすみが追われているという男を店にかくまったところから物語が動いていきます。

 思案橋の上でラストを迎える物語です。橋名は親父橋と同じく、かつて近くに存在した元吉原の遊郭に関係しています。響きの良い名前ですが、この橋も現在は残っていません。かつて橋があったと思われる場所はやや地面が盛り上がっているので、なんとなくわかります。

 

そばよしと『週末陰陽師』

 昭和通りを渡ります。通りに面して、そばよしという立ち食いのおそば屋さんがあります。テレビでも紹介されることのある人気店です。かつおぶし問屋直営のお店ですから、出汁の美味しさが違います。平日は朝7時半から営業しているので、朝食に利用する人も多いです。

 

 遠藤遼『週末陰陽師』(2017・平成29)という小説の中、主人公は日本橋に勤めていますが、会社の近くに「立ち食いそばのうまい店がある」という記載があります。「鰹節問屋が立ち食いそばもやってくれている店で」とありますから、このお店がモデルと考えられます。主人公は「大きなかき揚げを載せた天ぷらそば」を注文しています。

 その主人公は小笠原真備(おがさわら・まきび)という名前です。生命保険の営業担当です。入社して2年目の25歳。家々をまわって話を聞いてもらい契約を結んでもらう、というのが平日の主な仕事です。穏やかな性格なので押しが弱く、なかなかうまくいきません。ですが週末になると途端に有能ぶりを発揮します。仕事内容が変わるからです。その仕事は陰陽師。人にとりついた禍々しきモノを排除するのが役割です。その力はすばらしく、100年に1人といわれるほどの天才陰陽師です。

 

 たとえばある日のこと、真備が住んでいる小平周辺で話を聞いてもらった主婦からは不倫の気配が感じられました。彼の目には主婦の体にからみつく蛇の霊が見えます。不倫はこの霊の仕業でしょう。「嫉妬ではなく色情系」の霊だとのこと。彼が言うところの「週末案件」が確定した瞬間です。

 

江戸橋

 歩を進め、日本橋川を渡ります。橋は江戸橋といいます。橋の名の由来は今ひとつはっきりしませんが、隣の橋を日本橋といったのに関連してつけられたのではないかとも、江戸というのは元々このあたりの地域名だったからとも言われています。 現在の橋は1927(昭和2)年の完成です。

 

 江戸橋は『麒麟の翼』で事件発生の現場となるところですから重要。その場所に案内しました。

 

日本橋

 日本橋川を右手に置きつつ、隣の日本橋まで行くことにしましょう。

 

 『麒麟の翼』において、江戸橋で刺された会社員・青柳武明は、致命傷を負いながらも自力で立ち上がり、よろめきながら歩き始めます。彼が苦しい息の下、歩を進めていった先にあったのが日本橋でした。

 

 小説のタイトルになった麒麟や獅子など、ユニークな装飾が施されています。麒麟像の背中から生えているのは翼ではなく、「ひれ」なのだという文献を見ました。彫刻家・渡辺長男(おさお)がデザインしたものです。

 

滝の広場と『テンペスタ』

 日本橋の橋詰広場にはそれぞれ名前が付いています。最初に目にするのは「滝の広場」ですね。小型屋形船で神田川や隅田川を遊覧するコースや、東京スカイツリーに行くコースなどがあります。ここは中央区が管理する船着き場があります。万一の災害が発生した時の、物資や帰宅困難者の輸送を行う目的もあります。

 さて、この滝の広場ですが、ここは江戸時代に、罪人を人目に晒しておく「晒し場」があったところです。女性と関係を持ってはいけないという禁を破った僧侶や、禁止されていた心中を行い、生き残った者などがここで3日間晒されました。

 深水黎一郎『テンペスタ』の(2014・平成26)のミドリは、かつての晒し場だったこの場所に興味しんしんです。

 

乙女の広場と『大江戸神仙伝』

 日本橋を渡った右手にあるのが「乙女の広場」です。かつてここに魚河岸があったことを記す説明板があります。現在、日本橋の周囲にはオフィスビルやデパートなどが立ち並んでいますが、関東大震災までは魚市場がありました。

 時代を隔てたその両方の様子を目撃した男がいます。石川英輔『大江戸神仙伝』(1979・昭和54)の主人公・速見洋介です。

 

 妻と死別し、目下独身の洋介は44歳。日本橋で生まれ育った現代人です。親密な交際をしている流子と日本橋を渡っていた時、彼は強い魚臭さを感じました。その直後、情景が一変します。視界に入ったのは、すぐ脇に魚河岸がある木製の橋。彼は1822(文政5)年の日本橋にタイムスリップしてしまったのです。

 周囲とはあまりに異なる洋介の姿。騒動が起こりそうになりますが、医師・北山涼哲に救われ、彼の家に居候することになりました。昭和の時代から来たと説明しても意味がありません。仙界から来た者だという認識で、なんとか周囲も納得したようです。

 ある日洋介は、涼哲の親友が重篤な脚気であると聞きました。特効薬のない時代です。ただ、製薬会社に研究員として勤務した経験のある洋介は、文政の時代でも、ある物を使えば治療可能であろうと判断しました。

 

元標の広場と『教室の灯りは謎の色』

 次に北西側、「元標の広場」に行きましょう。その名の通り「東京市道路元標」があるところです。

 ここは東海道のみならず、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道のいわゆる五街道の起点でもあります。明治時代以後も、国道の起点となっています。そのことを示した「日本国道路元標」の丸い銅板が橋のど真ん中に埋設されているのですが、場所が場所だけに、車が危なくて見に行くのは困難。そこで、そのレプリカが「東京市道路元標」の横に置かれています。 

 

 水生大海『教室の灯りは謎の色』(2016年)では、この「元標の広場」が物語のスタート地点となっていました。

 

日本橋三越本店

 日本橋のすぐ近くにあるのが三越本店です。時間の関係では中に入れませんが、本館中央の吹き抜け部分に置かれた巨大で華麗な天女像「まごころ」(客に対する「まごころ」を象徴しているそうです)、正面玄関のライオン像など見どころがたくさんあります。ライオン像は誰にも見られずにまたがると願いがかなうとか。

 森瑤子「三越百貨店」『クレオパトラの夢』1987・昭和62所収)の主人公・二郎にとって、このライオンは自分の心身状況を測るバロメーターです。ライオンの表情がその時々によって異なるように見えるからです。三越の食堂でお見合いをすることになっているこの日、ライオンは威圧的な雰囲気で彼を見下ろしていました。二郎は自分が気弱になっているのだろうと推測します。

 

日本橋三越本店は柚木麻子『嘆きの美女』(2011・平成23)の中にも描かれています。

 

日本橋三越と『嘆きの美女』

 就職した会社を半年で辞め、パソコンと向かい合う引きこもりの日々を送っている池田耶居子。彼女の楽しみは、容姿に自信ありそうな女性が立ち上げたブログに嫌がらせをすること。現在の荒らしのターゲットは「嘆きの美女」というブログでした。その「住人」たちのオフ会が行われると知った耶居子は、彼女たちの顔を見てやろうと、会場となっている自由が丘へ向かいました。

ところが、あるとんでもない「事件」から、耶居子は大怪我を負い、「嘆きの美女」たちの住む邸宅で養生せざるを得なくなります。

その邸宅に住むのは四人の美女。年齢も仕事も違う彼女たちですが、ブログを通じて意気投合し、同居し始めたのだそうです。耶居子は1日も早く逃げ出したいのですが、怪我でどうにもなりません。耶居子と4人の美女たちの同居生活がどのようなものなのか、読みどころです。

 耶居子はある日、邸宅に住む1人の美女とともに、日本橋三越を訪れました。美女が耶居子を連れてきた目的は三越で開催されていた展覧会でした。荒俣宏『日本橋異聞』の愛読者である耶居子は、展覧会よりも三越のライオン像が気になるようです。それがまた物語で一つのエピソードを産み出しました。 

 

常盤橋

 『祈りの幕が下りる時』の中の重要なだじゃれ「時は金なり常盤橋」の常盤橋に行きましょう。原作では越川睦夫の部屋にあったカレンダーの4月の1枚に、この橋の名前が書き込まれていました。映画版では、まさにこの橋の上で、そのだじゃれを巡って加賀といとこの刑事・松宮との会話が行われています。(原作では人形町のカフェ「喫茶去」での会話です。)

 

 現在の常盤橋は1926(大正15)年11月完成の石橋です。なお、一つ上流に同じ発音で漢字が異なる「常磐橋」があります。東日本大震災で被害を受けたため、現在改修中で見られませんが、1877(明治10)年に完成した橋です。都内に現存する中では最古の石造アーチ橋となっています。

 

一石橋と『迷い子』

 一石橋は日本橋川に架かり、日本橋から橋の数で2つ上流に位置します。創架は古く、江戸初期にさかのぼります。この橋の上流側に、迷子しらせの石標が立っています。江戸時代の末に建立され、迷子を捜す人や情報を知る人が、この石標を告知板のように利用しました。

 

 加門七海の幻想譚「迷い子」『美しい家』〈2007年〉所収)の冒頭、この石標に見入る一組の夫婦の姿が描かれていました。

 

 かつて一石橋は、「八見橋」とも呼ばれました。この橋に立つと、一石橋を含め、8つの橋が見えたことによる名付けです。現在では川や堀の埋め立てで橋が消え、失われた光景となりました。

 

 前述の迷子しらせの石標、石柱の正面には「まよひ子のしるべ」とあり、右側には「しらする方」、左側には「たつぬる方」と刻まれています。子供を見失った者は、石の左側に子供の特徴を記した紙を貼り、迷い子を保護した方は、同じように書いた紙を石の右側に貼って情報の照らしあわせをしたものです。この上の窪んだ部分に、迷子の特徴を書いた紙を貼って利用したそうです。 

 

竹久夢二 港屋跡

 一石橋を南下、呉服橋の交差点を左折して、永代通りに入ります。このあたりは再開発中ですので、散歩の目的物がなくなっています。仕方がないので、工事前にあった建物が今もある、という体で説明していきたいと思います。

 

 さて、みずほ信託銀行のある場所は(笑)、絵双紙屋「港屋」があったところです。画家・竹久夢二(1884~1934)の元妻・岸たまきが1914(大正3)年に開いた店で、夢二はここで自分が描いた帯や半襟、創作図案を染め出したゆかた、自作の版画や千代紙などを売っていました。さらに夢二はここで日本橋の老舗紙問屋の一人娘笠井彦乃と知り合い、恋に落ちます。

 ここの碑に記されている有名な詩「宵待草」は、銚子で知り合った「おしま」という女性を想って作った歌です。

 

コレド日本橋と東急百貨店

 永代通りをさらに進むと、日本橋が架かっている通り(中央通り)に再度出ます。この交差点の角にそびえる高層ビルがコレド日本橋(日本橋一丁目三井ビルディング)です。1999(平成11)年に閉店した日本橋東急百貨店の跡地です。さらにその前身は白木屋という百貨店でした。白木屋時代を含め、336年の歴史を誇った有名百貨店も、不況の波には勝てず、幕を閉じました。

 

 白木屋の前に湧水がありました。良い水に恵まれなかったこの地でしたが、江戸時代に2代目店主が井戸を掘らせると、土中から観音像が出てきました。これを丁重に祀ってさらに掘ったところ、清水がこんこんとわき出したといいます。この湧水は「白木の名水」と呼ばれ、東急百貨店になってからも店先に流水施設が置かれていました。以前本校の文化祭のクラス企画で東京の湧水を調べたことがあり、その時に東急で聞いたのですが、当時店先に流れていた水は地下から湧いたものではないということでした。すでに湧水の量は相当に減っていたようです。井戸を掘ったときに発見された観音像も、以前はデパート屋上のお堂に祀られて信仰されていました。今は浅草寺境内にある淡島堂に安置されているとのことです。

 

 「名水 白木屋の井戸」と記された石碑がコレド日本橋下の広場にありました。現在は工事中で見られません。そのすぐ隣には「漱石名作の舞台」と刻まれた碑もありました。2005(平成17)年に早稲田大学総長によって建立されたようです。漱石の『三四郎』や『こころ』に登場する寄席や料理店がこの碑の建つ路地に存在していたということが示されていました。

 

海運橋と第一銀行

 江戸橋の通りに戻ってきました。横断した先に高速道路が見えます。この下はかつて楓川という川が流れていました。日本橋の架かる日本橋川同様、川の上に高速道路を造った形になります。この場所にあった橋を海運橋といい、橋の親柱が2本現存しています。

 このすぐ先の左手、みずほ銀行の壁に「銀行発祥の地」を示すプレートがあります。1873(明治6)年、ここに第一国立銀行ができました。日本最初の近代的銀行です。このプレートはそれを記念したものです。第一国立銀行の建物は非常に特徴的であったため、当時の錦絵にも描かれました。小林清親の描いた「海運橋第一国立銀行」(1876・明治9)は有名ですね。

 

兜神社と兜石と『御霊将門』 

 先に進むと道はT字路に突き当たります。道の先に神社がありますね。兜神社です。小さな神社ですが、由来は古く、このあたりの地名の「兜町」というのもこの神社の名によってつけられたものです。境内の左にある細長い石は「兜石」と呼ばれ、源義家が自分の兜を掛けて、神に戦勝祈願をしたとも、奥州から凱旋の際に、兜を埋めて神にお礼をしたところとも言われています。また、別伝では、平将門を滅ぼした俵藤太こと藤原秀郷が将門の兜を埋めて塚とし、兜山と称したところだともいわれています。

 

 高田崇史『QED~ventus~御霊将門』(2006・平成18)には、ここを含めて、将門に関する記録や伝承を非常に詳細に紹介してくれています。この小説そのものが将門に関する物語散歩だと言えるでしょう。

 

兜橋跡と「途上」

 兜橋という橋もありました。兜神社の前の道が、高速道路と交差する部分に架かっていました。先に紹介した谷崎潤一郎の作品の中にはミステリーもあります。中でも名作という評価が高いのが「途上」(1920・大正9)です。この作品は、兜橋の先で終幕を迎えています。

 

 某株式会社の社員で法学士の湯河勝太郎が見知らぬ紳士に呼び止められたのは、12月のある日、芝区(現港区)にある金杉橋の上でした。紳士は、日本橋区蛎殻町3-2に事務所を持つ私立探偵・安藤一郎であると名乗ります。聞きたいことがあるので、少し時間をもらいたいとのこと。この日給料と賞与とが出た湯河は、これから銀座に出て、新妻にプレゼントを買おうと思っていました。当然気乗りはしません。とりあえず歩きながら安藤の話を聞くことにしました。

 歩く中で交わされた会話は、湯河勝太郎の亡妻・筆子のことについてでした。勝太郎にはすでに新しい妻・久満子がおり、亡妻の話題は気乗りがしません。でも、安藤一郎の話術の巧みさもあり、筆子の死について語ることになります。

 

 2人はひたすら歩いています。湯河が買い物をするはずだった銀座を抜け、京橋を渡り、日本橋の手前を右に曲がり、兜橋とその先の鎧橋を渡り、蛎殻町の方へと歩を進めていきます。その一部をなぞっていきましょう。

 

メイゾン鴻乃巣跡と宮内啓介作品

 鎧橋を渡った先に、「メイゾン鴻乃巣創業の地」を示す案内表示があります。「メイゾン鴻乃巣」というのは西洋料理店の名で、バーも兼ねていました。案内の中にあるように、この店には木下杢太郎、高村光太郎、武者小路実篤、谷崎潤一郎といった、近代文学の巨星たちが若かりし時によく訪れたということです。

 

 木下杢太郎は明治期末期から大正初期に活躍した詩人・劇作家・評論家で、正業は皮膚科の医師です。残念ながら舞台はこの「メイゾン鴻乃巣」ではありませんが、彼が主役の一人として出てくるミステリーに宮内悠介『かくして彼女は宴で語る~明治耽美派推理帖~』(2022・令和4年)があります。

 時は明治41(1908)年、文学芸術で美を追究しようとする青年たち(耽美派)が集まり、「牧神(パンの会)」を結成しました。物語はその第1回の会合が行われた日の様子を描いています。場所は隅田川のほとりにあった西洋料理店「第一やまと」です。その宴の中、木下杢太郎は、森鴎外から聞いたという、謎めいた出来事を皆に語りました。

 3年前の話だそうです。鴎外の自宅に近い根津の団子坂、当時はそこに菊人形の小屋がたくさんあり、人気を呼んでいました。その小屋の一つで、乃木希典の菊人形にいつの間にか刀が突き刺さっていたのだとか。日露戦争への抗議にしてはつじつまの合わない点があり、大きな事件ではないものの、もやっとしたものが残ったままとなっていました。

 

 木下杢太郎や北原白秋らは、この謎について解明を試みようとします。でも真相を見抜いたのは彼ら「パンの会」の面々ではありませんでした。

 

 ここ「メイゾン鴻乃巣」でも「パンの会」の会合は開かれたようです。

 

小網神社と『ぐるぐる七福神』 

 鎧橋を渡って、また人形町方面に戻りましょう。『麒麟の翼』でますます有名になった日本橋七福神の小網神社(福禄寿)や茶の木神社(布袋尊)の前を通って水天宮に再びたどり着きたいと思います。

 

 その小網神社ですが、ものすごい参詣者の数です。仰天しました。以前はこれほどでもなかったのに。いつのまにかパワースポット化したようです。中島たい子『ぐるぐる七福神』(2011・平成23)に詳しく描写されている小網神社もゆっくり参詣できた時代の話です。

 

 32歳の派遣社員・船山のぞみが入院した祖母の家を掃除していると、七福神巡りの朱印帳を見つけました。全部で七つの朱印があるはずなのに、なぜか六つだけです。彼女は足りない寿老人の御朱印を補おうと谷中七福神に向かいました。祖母の状態があまりよろしくないため、気になったからです。

 のぞみにはもう一つ心に重たくひっかかっていることがありました。それは長くつきあっていた元カレ・黒田大地についての情報。インドで亡くなったというのです。ただ、それ以上詳しいことはわかりません。のぞみは彼の死について、その責任の一端が自分にあるように思えてなりません。

 

 のぞみの七福神詣での目的は、残念ながら谷中では達成できませんでした。他の場所の七福神も巡ることになります。

 

 彼女が現在働いている会社は茅場町にあります。日本橋七福神の存在は同僚社員の堀田から教えられました。近くにそういうものがあることを全く知らなかったのぞみは、昼休みを利用して行ってみることにします。