四ツ谷駅周辺散歩です。

四谷・しんみち通りと『ナイン』

 新宿通りに戻り、JR四ッ谷駅方向に歩きます。四ッ谷駅近く、新宿通りに並行して、しんみち通りという商店街があります。井上ひさし『ナイン』(1987・昭和62)にも描かれた通りです。

 

 しんみち通りにある商店の少年たちで組織された新道少年野球団は、新宿区の少年野球大会で準優勝しました。真夏の炎天下、午前中の準決勝を戦った後、午後の決勝戦は延長12回にまで及びました。かつ、準決勝も決勝も、英夫という一人の投手が投げ続けたのですから、非常に価値のある準優勝と言えるでしょう。それから20年近く経ち、30歳になった当時のメンバーたちは、ほとんどが一人前の大人として暮らしています。

 ところが、4番打者で捕手、キャプテンであった正太郎だけは違いました。どこかで道を踏み誤ってしまったようです。

 投手だった英夫の家は畳屋ですが、正太郎の依頼を受けて手配した85万円分の畳代を踏み倒されました。左翼手だった常雄の場合はもっと悲惨で、正太郎に400万余りを持ち逃げされた上、妻まで奪われてしまいました。

 しかし、英夫も常雄も正太郎の件を警察に届けませんでした。それどころか英夫は、やはり正太郎は自分たちのキャプテンなのだ、と言います。なぜでしょうか。その一番の理由は、炎天下に行われたあの決勝戦にありました。

 

 静かな感動を呼ぶ作品です。井上ひさしは、新道通りに住んだこともありました。1965(昭和40)年のことだそうです。作品にはしんみち通りの、時の移ろいによる様子の変化も描かれています。

しんみち通りと『婚活食堂』

 今度はこの通りのはずれにあると設定されている「めぐみ食堂」に行ってみましょう。山口恵以子(やまぐち・えいこ)『婚活食堂』(2018・平成30)での話です。こちらはぐっと新しい作品になります。

 

 「食堂」とありますが、実際はおでん屋さんです。女将は玉坂恵(たまさか・めぐみ)、50歳。彼女はかつて、マスコミにも知られた有名占い師でした。他の人に見えないものが見える、という特殊能力を生かした仕事です。きっかけは高校時代に占い師のアシスタントのバイトをしたこと。「原宿の母」と呼ばれた女占い師・尾局與(おつぼね・あたえ)でした。與は恵の力を気に入り、独立させました。與に恩義を感じている謎の男・真行寺巧(しんぎょうじ・たくみ)も金銭面で恵を援助します。ところが夫の不倫(夫と不倫相手はホテルの火災で死亡。相手のお腹には夫の子が)により、全てを失い、占いの館を閉めざるを得なくなってしまいます。不思議な力も同時に消えてしまいました。

 

 しばらくの空白時間を経た後、たまたま入った店がしんみち通りの「めぐみ食堂」でした。彼女が入ったその日は、なんと「めぐみ食堂」閉店の日。跡継ぎがいないのでやめざるを得ないのだそうです。縁を感じた恵は、料理屋の経験がないにもかかわらず、その店を買い取る決心をし、新しくおでん屋として開店しました。開業に際しては真行寺の力も借りています。彼が言うには、與はおでん屋の娘だったそうで、いよいよ天啓めいてきます。女将が代わった「めぐみ食堂」は繁盛します。

 常連客もできました。彼らの中には、結婚に関して何らかの悩みを持つ人たちが多くいます。その悩みを解決できるのか、が読みどころです。玉坂恵の特殊能力もすこ~しだけ復活してきたようです。お客の頭の後ろに光が見えたり、黒い煙が見えたりもします。それぞれ何を表すものなのでしょうか。

四谷見附橋と『帝都探偵 謎解け乙女』

 JR四ッ谷駅が見えてきましたね。その手前に架かっているのが四谷見附橋です。新宿区と千代田区とを結びます。現在のものは1991(平成3)年に新しく掛け替えられた橋です。

 伽古屋圭市(かこや・けいいち)『帝都探偵 謎解け乙女』(2013・平成25)は1919(大正8)年の東京が主な舞台です。四谷見附橋も出てきますが、こちらは1913年完成の、先代の橋となります。今は八王子市別所の長池公園内に移設・復元されています。

 

 物語の「俺」は富豪・仁井田家お抱えの人力車夫です。ある日、仁井田家の三女・菜富(なとみ)から「名探偵になることに決めた」と宣言されて面食らいます。菜富は「俺」より1歳年下で高等女学校に通う17歳。どうやらシャーロック・ホームズの活躍する小説を読んで影響されたようです。

 「俺」は仁井田家に恩を感じています。菜富お嬢さんがそう言うならと、協力を惜しまない決心です。

 

 すると渡りに舟、依頼がいくつか舞い込んできます。3番目のそれは奇妙でした。依頼人は自らのことを未来から来た人間だと言います。1917年に起きたロシア革命において、超重要なものを託された日本人がいたそうで、依頼人にとっては過去にあたるこの時代でその人物を探し出したい、と言うのです。

 未来から来たということ自体「俺」には全く信用のできない話です。でも菜富お嬢さんは大いに乗り気。必ず捜し出しましょうと力強く言い切ってしまいました。

 依頼人によれば、捜し出したいその人物は四谷界隈に住んでいるのだとか。彼らは四谷見附橋で待ち合わせをしました。これから手分けをしての捜索が開始されます。

外濠公園と『日曜は憧れの国』

 四谷見附橋を渡り、JRの線路に沿って続く外濠公園を歩くことにしましょう。JR四ツ谷駅近くの外濠公園、屋外用のベンチに座る女の子4人がいます。顔をつきあわせて何やら真剣に話し合っています。

 

 彼女たちは円居挽(まどい・ばん)『日曜は憧れの国』(2016・平成28)の主人公たちです。暮志田千鶴(くれしだ・ちづる)・ 先崎桃(せんざき・もも)・神原真紀(かんばら・まき)・三方公子(みかた・きみこ)。4人とも中学2年生ですが、学校はバラバラ。性格もまちまちです。彼女たちは四ツ谷駅前に設定されている「四谷文化センター」で知り合いました。カルチャーセンターです。そこでは生徒獲得のためでしょう、お安く5つの講座を体験できるという「トライアル5コース」なる5枚綴りのチケットを販売しました。4人の女子中学生たちは、チケットを持ち、文化センターの料理教室に出向いたことで知り合いました。ところがそこで思わぬトラブルに巻き込まれます。4人はそれぞれ知恵を出し合って、そのトラブルの真相を見抜くことができました。それと同時に、個性ばらばらだった4人の間につながりが生まれてきます。

 

 さて、初めに書いた場面です。料理に引き続き、将棋、歴史、小説執筆とトライしてきた彼女たち、いよいよチケットも残り1枚となりました。さあ、ラストは何の講座で締めようか、と相談中だったのです。なかなか意見がまとまりません。そんな時、どこからか1枚の画用紙が風に飛ばされて来ました。手に取ってみると、誰かが描いたのでしょう、高い視点から外濠を見下ろした構図の、鉛筆書きの写生です。たいそう上手に江描かれています。何の気なしにその絵を裏返してみた千鶴は思わず悲鳴を上げてしまいました。「助けて」という文字がそこに書かれていたからです。いたずらなのでしょうか、それとも何かの事件なのでしょうか。

外濠公園と『一曲処方します』

 外濠公園はJR飯田橋駅近くからずっと続いています。JR四ッ谷駅の南、ソフィア通りに並行している部分を通りましょう。松や桜の巨木があちこちに存在し、道をふさぐように幹を伸ばしているものもあります。眼下には上智大学のグラウンド。その先には迎賓館。眺望も申し分ありません。上智大学のグラウンドがある濠を「真田堀(さなだぼり)」と言うそうです。

 2013(平成25)年に創立100周年を迎えた上智大学。カトリック修道会イエズス会が開設した学校です。

 上智大学、2020年の学園祭は11月初めでしたが、オンラインでの開催でした。コロナ禍の状況では中に入るわけにいきませんが、構内については、沢木褄(つま)『一曲処方します―長閑春彦の謎解きカルテ―』(2015・平成27)に詳しい記載がありますので、それで我慢しましょう。

 

 長閑春彦(のどか・はるひこ)が院長の「のどか音楽院」は心療内科のクリニック。真田堀や紀尾井坂からごく近い場所に設定されています。彼は不思議な能力の持ち主。人を診ると、その人から音楽(クラシックや童謡など)が伝わってきます。聞こえてきた曲について調べていくと、その人の心の底に潜んでいる悩みが見えてくる、というストーリー。ライト文芸としての次元ですが、戦争や風評被害の問題にも触れています。散歩にとても向いています。外濠公園の上智大学の野球場を見下ろせるあたり、とか、上智大学の構内とか、実際と重なる描写が多くありました。

上智大学は、クリニックを訪れた大川美菜の通う大学です。彼女は数ヶ月前から頻繁に動悸がするようになったそうです。加えて、疲労感や頭痛にも悩まされています。長閑春彦が彼女の心を「聴診」すると、聞こえてきたのは結婚行進曲。元はシェークスビアの喜劇『真夏の夜の夢』に出る劇中歌で、本来明るいイメージのもの。何か問題を抱えていると思われる美菜からこの曲が聞こえてくることには、何らかの謎がありそうです。

 「のどか音楽院」でアルバイトする女子高生・宮島満希(みやじまみつき)は、長閑の依頼を受け、美菜の身辺調査をすべく、上智大学に向かいました。初めて入る大学です。外濠に面している正門を入り、守衛所で入構の許可をもらい、赤レンガの洋館と近代的な高層超高層ビルとにの間にある道を進みます。…小一時間ほどで満希は構内の大体を見て回れたようです。彼女が最も驚いたのは大学内に教会があることでした。中に入ってみようとした時、幸運にも彼女は美菜を見つけることができました。神様に感謝して、さっそく後をつけます。美菜は男子学生と一緒に、教会の前にある建物の、半地下になっている食堂に入っていきました。

 

 外濠公園の南端は、食違見附に続きます。見附とは、ごく雑に言えば江戸城の城門のことです。中でもこの食違見附は、道がクランク状になっていて、敵が容易に侵入できないようにしていました。その名残は今でも見ることができます。

紀尾井坂と『ちょうかい 未犯調査室』

 外濠公園の南端から紀尾井坂が見えます。坂の名前は、坂の北側に尾張徳川家(現在の上智大学)、南側に紀州徳川家(現在の清水谷公園など)、彦根藩井伊家(現在のホテルニューオータニ)の屋敷があったことから来ています。1878(明治11)年、この坂の付近で、大久保利通が斬り殺されるという暗殺事件が起こりました。紀尾井坂の変と言います。不平士族の島田一郎ら6人による犯行でした。

 

 ある日、この紀尾井坂を上って行く3人がいました。1人は枝田千秋というまだ若い女性。仁木英之『ちょうかい 未犯調査室』(2015・平成27)の中心的人物です。ユニークな個性の持ち主で、前述の事件に詳しいばかりか、そのてんまつを浪曲風に語ることもできるようです。

 

 彼女も一緒の男性2人も警察の人間です。中でも千秋は国家公務員Ⅰ種試験にパスしたキャリア組。ですが、3人それぞれ過去に事情を持つ人間でした。現在彼らには秘密の任務が与えられています。今までの犯罪情報を踏まえ、重大事件の発生を未然に食い止めるという仕事です。

 

 「繭」と呼ばれる巨大なシステムを通じ、のちに犯罪や悲劇を生むかもしれない微細な徴候が情報として千秋に伝えられます。それが芽であるうちに摘み取り、加害者や被害者を出さないこと。それが千秋たちの役目です。

 紀尾井坂に来た千秋は、今田隆という人物を訪れます。今田は大久保利通暗殺犯の一人と血のつながりのある人間でした。彼女は今田訪問の理由を、大久保暗殺の謎を解くためだと言います。これだけ聞くと何かのんきな感じです。ところが今田は、現在発生している脅迫事件の被害者の一人として、警察が注意を向けている人物でもありました。この脅迫事件、ちょっと不気味な要素を含んでいます。千秋が今田に接近しようとしたのは別に真意があってのことなのか。今後の行動に目が離せなさそうです。

 

 紀尾井坂は広く明るい坂道です。坂道沿いに民家は見られず、いかにも都心の坂といった印象ですね。

ホテル・ニューオータニと『人間の証明』

 紀尾井町にそびえる建物群はみな人目をひきます。その中で古参の部類に入りますが、ホテル・ニューオータニに注目してみましょう。

 このホテルのシルエットが重要な意味をもって出てくるのは、森村誠一『人間の証明』(1977・昭和52)です。

 場所は隣の平河町、名前も「東京ロイヤル・ホテル」と変えてはありますが、どこのホテルをモデルにしたかは明らかです。このホテルのエレベーター内である夜、一人の黒人が刺殺されます。直前、タクシーの運転手が聞いた「ストウハ」という、彼の謎の言葉から物語が動き始めます。

 

 映画化もされ、ジョー山中の歌う主題歌が大変に有名になりました。原作も映画も西条八十の詩が効果的に使われていました。

紀伊国坂と小泉八雲「むじな」

 紀伊国(きのくに)坂は、弁慶堀に沿って四谷方面に上る広い坂です。江戸時代に紀州徳川家の藩邸があったところから名付けられました。高速道路が脇を走る、ここも大都会の坂道らしい雰囲気ですが、ここは小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)『怪談(Kwaidan)』1904・明治37)の「むじな」の舞台となったことでも知られます。

 この話、最近の高校生にとっては、かなり縁の薄いものになっています。学校で触れる機会が減ったからでしょう。よくできた怪談ですので、ぜひ若い人にも知っていただきたく思います。

 まだ街灯や人力車すらなかった時代の話です。1人の商人がここでむじなに化かされました。夜更け、紀伊国坂を上っていると、堀ばたに女がしゃがんですすり泣いています。気になった彼はそばに寄って声を掛けますが、返事はなく、ただ泣くばかり。

 商人は優しい人だったので、さらに女の背中に語りかけ、落ち着かせようとします。すると女はようやく立ち上がります。彼の言葉に応じるようにふり返り、自分の顔を初めて相手に見せました。何とそれは、目も鼻も口もない、のっぺらぼうでした。

 商人の驚くまいことか、紀伊国坂を必死で駆け上りました。やっと闇の向こうにそば屋の灯が見えます。助かったとばかりにそこに転げ込んで、今起きた一件をそば売りに伝えました。しかしその直後、彼はもっと驚かされる羽目に陥ります。

 

 この物語の最後の一文、怖さを倍増させるのに、とても大きな効果を発揮しています。

 むじなというのは、狸や狐同様に人を化かすと思われていた動物です。その昔はかなり寂しげな場所だったという紀伊国坂ですが、残念ながら(?)今や昔日の面影なく、むじなもどうやらどこかに引っ越しを余儀なくされたようです。

紀伊国坂と『怪談老の杖』

 ついでにもう一つ、紀伊国坂にまつわる奇譚を紹介します。

 平秩東作(へづつ とうさく)による江戸時代の随筆「怪談老の杖」に記された物語です。

 赤坂に住む紺屋の夫婦がいました。11月のある夜、妻がふと気づくと、寝ている亭主が苦しげにうめいています。揺り起こして「どうしなさった。悪い夢でも見なさったか」と聞くと、夫は「さても恐ろしいことだ」と青ざめ、額に汗を流して語り出しました。「四谷の得意先まで行ってな、帰ろうとして紀伊国坂の上まで来たところ、侍に会ったんだ。薄気味の悪い男だなあと思っていると、急に刀を抜いて迫ってきた。驚いて命の限り逃げようとしたんだが、襲われてしまった。やれやれ夢で良かった。これが本当の事ならば、妻子とも永の別れになるところだった」と、いかにもほっとした様子です。

 その時、門の戸を叩く音がしました。「今頃どなたですか」と聞くと、「いや、通りがかりの者ですが、ご家内に怪しい事はないでしょうか。火の用心に関わることですので、見過ごしがたくお知らせした次第。」と声が答えます。恐ろしく思いながらも亭主が戸の隙間から覗いてみると、何とそれは夢の中に出てきた侍その人でした。

 侍が言います。「紀伊国坂の上で、茶碗ほどの火の玉を見つけて、あまり怪しくございましたので、斬り割ろうとしたところ、その玉がまるで人が逃げるように坂をころがり道に転んだあげく、この家の戸の隙間から中に入ったのです。心得ない事ですが、時分がら火事など起きては大変と思い、お知らせいたしました。」

 侍はそう言い終えるや、歌など歌いつつ去って行きました。亭主はこれを聞いて、さては自分の魂が外に出て、侍に火の玉だと思われて追われたのだなと悟りました。

 筆者はこの話の最後に「これはうける(いい加減な)ことにあらず、しかもいと近きもの語りなり」と記しています。

弁慶堀と『テンペスタ』

 左手に見えるお堀を弁慶堀と言います。この先に見える橋が弁慶橋という名前ですので、堀の名もそれから来ています。弁慶小左衛門という大工の棟梁がいて、この人は江戸城の普請にも関わったそうなのですが、彼が作ったのが初代のこの橋です。「元祖」の弁慶橋は現在の秋葉原駅近く(岩本町)に架かっていました。川の埋め立てに伴い撤去されましたが、その廃材を使って現在の場所に橋が架けられました。1889(明治22)年のことです。ですから、名前のわりに比較的新しい橋と言えます。

 この弁慶堀や弁慶橋が出てくるのが深水黎一郎『テンペスタ』(2014・平成26)です。

 

 大学で美学を教えている賢一は、さえない独身男性です。非常勤講師の身分なので、収入も乏しく、翻訳のアルバイトをしてかろうじて生計を立てています。そんな彼、ある夏に、郷里に住む弟夫婦の娘を一週間預かることになりました。

 ミドリという10歳のこの娘がすごい。大きな目につややかな黒髪という美少女なのですが、頭の回転がとびきり速く、思いがけない言動に賢一は振り回されっぱなし。その「テンペスタ(嵐)」のような暴れっぷりは爆笑ものです。

 

 彼女が東京で行きたいという場所も独特で、いわゆる「歴史の闇」に関わる場所が中心弁慶堀もその一つでした。

 ミドリによれば、この弁慶堀は「江戸時代、身元不明の死体を捨てる場所」だったそうです。彼女は貸しボートに乗って楽しげに騒ぐカップルに憤慨し、大声で一喝しようとして賢一に止められます。

 極端な行動ばかりのミドリですが、それは旺盛な好奇心の反映。そして全く世間ずれしていない純粋さと正義感もうかがえるものでした。賢一はミドリに手を焼きながらも、自分がいつの間にか失ってしまったものについて顧みます。

 

赤坂見附と「夜の海」

 赤坂見附跡がありますね。石垣がかなりよく残っているのが分かります。初老の男・神戸直太郎がマスターをしている小さなスナック「ホームメイド」はこの見附跡からあまり離れていない場所にあります。村松友視「夜の海」『夜のグラフィティ』所収 1981・昭和56)の中での話です。

 

 神戸の店は午前3時までの営業。終了後の掃除などが済むと、彼は早朝の赤坂見附周辺に散歩に出ます。弁慶堀を横目に見ながら平河町へと続く長い上り坂を歩き、途中で道の反対側に渡ります。その後は上がってきた坂を下ります。時間によって微妙に変化する赤坂見附の景色を、彼は毎朝、不思議な思いを抱きつつ見つめていました。

 

 ある朝のことでした。彼がいつも通りのコースを歩いていると、不思議なことに気づきました。たとえ早朝であっても絶えることなく聞こえていた車の音が全く消えたのです。同時に何か固い音が彼の耳に捉えられました。それはハイヒールの靴音でした。見ると、彼とは道路を隔てた反対側に、黒っぽい服装の女が歩いていました。こんな早朝にどうしたのでしょう。

 彼は道にかかっている歩道橋に上り、女が歩いている側へと向かって行きました。歩道橋から眺めてみると、女の歩き方がちょっとおかしいことに気づきます。彼は女の足音に自らのそれを合わせるようにして歩いて行きました。女に気づかれないように近づくためですが、近づいた後どうするつもりなのかは、彼本人にもよくわからないようです。

 女は振り返らずに歩いています。ただ、その後ろ姿に感じられるある種の緊張から、誰かが自分を付けているということに気づいているようにもうかがえます。

 

 突然、女がしゃがみこみました。見附跡のすぐ近くです。神戸は女に声をかけました。

 

 神戸が渡った歩道橋は、おそらく写真のこれだと思われます。